2023/08/24 BGM: B.B. King & Eric Clapton - Riding With The King
今日は早番だった。朝、白白と外が明るくなってくる頃に日記を書き始めるのがぼくの日課になっている。朝はいつも苦手で、うっかりすると「どうして生まれてきたのかなあ」「これから先、生きたとしてもたいしたことなんてできっこないだろうなあ」と思い始めたりしてしまう……なんだか「おませ」な十代の青臭い悩みそのままだ。そしてそんな悩みも朝に日記を書いて、そしてこれまた日課の「ひとっ風呂浴びる」「洗濯する」を終えてそして外に出て、イオンなりマックスバリュなりに行って昼ごはんを買って(うちのグループホームは朝・夕は提供してもらえるのだった)、それを食べて詩を書き始めたり仕事をしたり……としていると実にあっさりと忘れ去ってしまうのだった。でも、そうこうして夜になって帰宅してご飯を食べて、それから読書をしたり詩を清書したりチャットしたりして、それから床に就いて……そして次の日になってまた朝に「ああ、いったいこの人生は何なんだ」「毎日飽きもせずよくこんな不毛な日々を生きられているなあ」と(考えようによってはぜいたく極まりない)ことを考えるのである。ただ、最近(ここ数年くらい)奇跡的に酒が止まっているので、「そんな平々凡々なシラフの日々の繰り返しこそが『幸せ』なのかな」とも思うようになったのだった。
こうして考えていくと、ぼくという人間は実に「アホだなぁ」と思うのである。昔はこうではなかったような気がする。もっと真剣に生きていたような……過去に思っていたのは「自分をいじめたクラスメイトを見返すこと」であり、「小説を書いてプロデビューすること」であった。ぼくも村上春樹みたいに一世を風靡する存在になりたかったのだった……と書いてみて、「過去の自分は『もっと』アホだったなぁ」と悲しくなる。それはまるで「あのお月さまが欲しいよ」とできっこないこと、叶いっこないことを願って泣く子どもみたいだからである。いや、「月が欲しい」「月に触れたい」と思うこと自体は悪いことではないだろう。だが、その夢を実現させたいなら現実的な方策を見つけるべくせっせと汗をかいて動いて、トライアル・アンド・エラーを繰り返して自分の限界と潜在能力を知ること以外に道はないのではないか。そうして努力しているとチャンスが訪れることもありえるかもしれない(ないかもしれない)。過去のぼくはそれがわかっていなかったので、ひたすら「月が欲しい」とつぶやきながら酒に溺れていたのだった。だからというわけではないが、いまのこの自分へと至るきっかけとなったのはあの日、「もう酒をやめよう」と思った日だったのかもしれない。
ふとここまで書いて、借金玉氏のX(元Twitter)でのポストのことが頭をよぎる。英検2級を取得した発達障害のお子さんについて、その子が「自ら学習習慣を獲得し、一定のハードルを越えることに成功した」ことをたたえており、それを読んで「さすが慧眼だ」と唸ったことを思い出したのだった。そこに至るためには人からお仕着せに与えられた教育をそのまま呑み込むのではなく、ともかくもマニュアルなど存在しないまっさらの白紙の中に「(自分なりの)学習習慣」を作り出していかないといけない。現実的には先人たちのライフハック的な方法論を学ぶのだろうが、それはあくまで参考材料であって自らの習慣を作れるのは自分だけなのだ。決まりきったルーティーンをこなすことに強い発達障害者は、裏返すとそうした「コツコツと」「根気強く」自分の方法論を編み出すまでが難しいのではないか。何かが「カッチリ」ハマって、興味・関心が向けば強くなる……と書いてきて読み返し、「朝のアンニュイな悩みについて話していたのが、どうしてこんな発達障害の自分語りになってしまったのだろう」と我ながらあきれてしまう。あれこれ話題が飛んで収拾がつかなくなるのがこの日記の珍味ということでご寛恕願いたい。
https://twitter.com/syakkin_dama/status/1693906945219109123
そんなこんなで今日、仕事をこなして昨日サボっていた詩作の日課を再開し、そして何とか1日を終えて帰った。夜、FacebookのMessengerでミーティングに参加し、宍粟市のごみ処理事情について学ぶ。そこから、生活の中でどうしたって出てくるごみについて日々の生活の中でどう向き合っていけばいいか考える。そこでは(話が大きくなりすぎて、とてもぼくのトークスキルではまとまらないと判断したので)言わなかったのだけれど多分に「大量生産・大量消費」の社会が要請する「まだ使えそうなものでも捨てて、新しいものをどんどん買って」的なライフスタイルが問題なのかもしれない。鶴見済やphaといった書き手が提唱するゆったりした生き方というか、社会的にあくせく働いて「勝ち」「成功」とされる人生を勝ち取る生き方から降りる人生のあり方についても考えが及んだ。ぼくも結局「あいつらを見返す」「プロデビューしてやる」といううらみつらみで生きても「いいこと」なんてこれっぽっちもないなと思うようになったのだった。もちろんぼくの中にはまだ「金とロマンス」への欲はある。そこまで降りたなんてことは口が裂けても言わない。だけど、「いまこの瞬間」享受できる幸せについても敏感でありたいなとも思う……例えばいま聴いているエリック・クラプトンのギタープレイが生み出す渋味を満喫できる幸せなどだ。