認識と語学
昨年の秋口あたりから、いよいよ本腰を入れてフランス語に取り組んでいる。契機こそ必要に駆られてではあるが、それ以上に言語を学ぶことが面白くて仕方がない。
いざどっしりと構えて外国語と向き合ってみると、世界の捉え方を学んでいるような感じがする。無味乾燥だった文法のあれこれが、世界を切り分ける因子として躍動しているように思えてくるのだ。
私たちは新しいものを取り入れようとするとき、既に知っている何かに置き換えようとする。そのことが理解を促すこともあれば、かえって視野を狭めてしまうこともある。
この「みなし」こそが外界のものや出来事を描写することになるが、異なる言語の中では異なる主観が働くということを忘れてはならない。
たとえば、フランス語ではジャガイモを pomme de terre とあらわす。直訳してみると「地のりんご」といったところか。
ジャガイモはアメリカ大陸から渡ってきたものであるため、基本語ではなく、それらの組み合わせによって表される。「地のりんご」という表現は、りんごの丸さに着目していると言えよう。
私の場合、りんごと聞くとまず赤さを思い浮かべてしまう。しかしながら、フランス語でのりんごの基本色は緑 verre である。「青リンゴ」とわざわざ赤から区別する表現がある日本語の考え方からすると、想像も付かない。
わたしたちは、ことばを通じて世界を見ている。ことばを通じてものごとを考えている。それゆえ、思考には言語が介在しているだろうし、その言語が違えば世界の切り取り方は変わる。
学生の時分から、外国語学習のまわりでは、グローバル人材だとか国際交流といった文句がしきりに喧伝されていた。働くようになってからは、昇進や転職といった、少し脂ぎった動機をよく目にする。
外国語を学ぶと世界が開けるーー今やすっかり常套句であるが、真の素晴らしさは、そもそも言語を学ぶ行為がおのずから、世界を広げてくれることにあると思う。
やっぱり私は、ことばについてぼんやりと、ときおり地に足をつけて、考え続けていきたい。
図書館にひとり篭る。小さな書物を繙き、小さな窓を開ける。世界からうららかな風が吹き込むと、鳥たちの飛び立つ姿が見えた。春かもしれない。