冬の空を青とは呼びたくないんです
冬の晴れた空は淡い。青いというより、淡い。
あえて言うなら「青」だけど、青のような何か。今の私にはまだ言い表せない色。記号に置き換えられない色。白が200色あるんだから、青だってそうでしょうに。
夏のそれは、たしかに青い。すごく青い。でもなんだかずっと眩しくて、あまりの色味の強さに逆にぼんやりしているように感じてしまう。
青春の「青」は、きっと夏の青空のような濃厚な爽快感に溢れている。誰かしらと集まって、歯を出して笑っているような感じがする。でもそのイメージには輪郭がない。思い起こされることは別々のはずなのに、何となく共通認識を持って懐かしむような空気感が少し苦手だ。アオハルなんて言い回しを聞くと身震いが止まらない。一気に青が押し寄せてきて、心のうちを無理矢理に満たそうとしてくる気がするから。
たぶん私の心象風景の青は、熟れていない胡瓜を齧ったときのどうしようもない感じや、失意の渦中のぐずぐずした気分なのに、嘘っぱちの健やかな記憶で上塗りされてしまう。「青い」と評される事象の多くはうら若い快活さのみが切り取られていて、悶々とした過程からは目を背けている。
抽象化された濃い青は、多くの共感を集める記号として成り立っているように思う。教室の真ん中の思い出も、隅っこの空想も、濃くて青い空のもとに集約されているみたい。それがなんだか怖くって、私は夏の青さを思うたびに参ってしまう。
冬の空は、淡いけどくっきりとしている。ずっと個人的で、凛然としている。それぞれが別のことに想いを馳せているような、敢えて重ね合わせる必要もないような感じがする。「死を悼む」と言うには些か経験に乏しいのだけれど、吉本ばなな作品のつんとした寒空の澄んだ情景が浮かぶ。
私が想起する事象と他の人が想起する事象はきっと違うけれど、それでも誰も咎めないでいてくれるような、やわらかな冷たさがある。
だからこの空を青と言ってしまうのは、些かもったいない。何か大切なものが削ぎ落とされてしまうように思えてならない。誰の青春の一ページにも刻まれていないであろうこの色を、青とは呼びたくないんです。
パプアニューギニアのダニ語では、色彩語が「黒」と「白」の二つしかないらしい。それ以外の色は色名を定めずに、都度別の形容詞を充てるそうだ。赤のような何かは「血のような」、緑のような何かは「まだ熟していない」といった風に。
それに倣って、私はまだ、この青のような何かを「淡い」と言い続けたい。
ぽつねんと、淡い。くっきりとした冬の空が好きです。