運動神経、ほか
何をするにも運動神経というものが備わっておらず、ひどく歯痒い思いをしてきた。小学校の時分の体育に始まり、果てには楽器を奏でるうちにまで。あらゆる身体的ないとなみに違和感を抱く。
なんとなく、こういう感じ。適当に真似てみて。一切分からない。いや、少しだけ分かる気はせど、出力が伴わない。
おそらくは私が全てにおいて字面から入るせいだろうか。あるいは、分からなさゆえに分かる記号に置き換えて日々をやり過ごしてきたからだろうか。
逆上がりを習得するまでに、かなりの時間を要した。落下への恐怖感を拭うために、自分自身への根気強い説得が必要だった。棒に手をかけ、脚を上げる。宙を駆け、ひと回り。逆さになるあいだに、手と腹とが棒の上に横たわる。勢いをころして、ゆっくりと足を付ける。手を離さなければ、棒に上体が乗っていれば、身の安全は保証される。
弦楽器を弾く。弓の付け根をやわらかく握り、弦を擦る。ぴんと張った毛の蠢きが松脂を通して、同じくどっしりと張り詰めた弦へと届く。ゆるやかな揺らぎが楽器全体を震わせ、インテグラルな穴から思いのほか大きな音が空気を伝う。ときには左手を添えて、音高を変える。周りの音と和をなせば、より強く響く。
走る、泳ぐ、ほか。
叩く、吹く、ほか。
みずからの身体ひとつに、いくつもの説明を要する。かろうじて十全を演じるために、百もの不全をなおす。
記号で世界をもう一度組み立てて、ままならない身体をなんとか動かす。少しだけ分かったような気になって、少しだけ前に進む。目の前は未だ模糊としているが、画素を増やして周りに目をやる。
一寸先に光が見えたかと思えば、落とし穴に嵌り、幾重もの分岐を前にして立ち尽くしてしまう。わたしたちは、混沌をさまよいながら、また、誰かと関わっていく。そして彼我のさかい目をなぞり、何かを知るのだろう。
うずくまっていた頃、ひとりの友人が私の呻きを「文章神経」などと評してくれた。身体より僅かによく動く、心と言葉で、いとなみを続ける。頭の内に浮かべたあれやこれやと、外の世界のあれこれを結びつけるべく、道化の息吹をそそぐ。