立つなニャオハ(妙釈・走れメロス)
メロスは、激怒した。必ず、かの邪智暴虐の獣王を跪かせなければならぬと決意した。メロスには生態学が分からぬ。メロスは村の学士(ポケモン学)である。生体の構造には無知の劣等生であったが、科学の力の凄さを路行く人に説いて回り、指導教員の温情で学士号を取得した。それでも四肢動物の二足歩行に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは出発し、野を越え山越え、十里離れたこのパルデアの市にやってきた。
メロスは実家を、勘当された。当然ながら、恋人も無い。しかし、村の或る律儀な博士に、近々ポケモンを貰えることになっていた。入学式も間近なのである。それゆえ、冒険の衣裳やら戦闘や捕獲の御道具やらを買いに、はるばる市にやってきたのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。ゴリランティウスである。彼もまた、一介のポケモンであるが、今は此のパルデアの市で、硝子職人をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。共にグワラルの地を踏破して以来、久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。
歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。あらゆるポケモンが立っている。浜辺を歩いたときには、ディグダアがチンアナゴの如く勃勃と群生していた。ポケモン学概論の単位を落とし続け、二度の落第を重ねた阿呆学生のメロスですら、違和感を覚える。路地裏のニャアスが、二本の脚で歩いているのだ。生態系が変わったとも、思えぬ。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った短パン小僧をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、ペルシヤンやラツタが夜目を光らせて鬼遊びをしていたではないか、と質問した。小僧は、首を振って答えなかった。しばらく歩いてミニスカアトの女に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。女は答えなかった。メロスは両手で女のからだをゆすぶって質問を重ねた。女は、此れ以上続けると巡邏を呼ぶと断って、わずか答えた。
「王様は、猫を立たせます。」
「なぜ立たすのだ。」
「獣心を抱いている、というのですが、誰もそんな、獣心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの猫を立たせたのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のニャアス様を。」
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。猫を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手に爪を研いでいる者には、賭博場の運営会社に出向することを命じて居ります。御命令を拒めば平仮名を覚えさせられて、立たされます。きょうは、六匹立たされました。」
「手持ちの、全員ではないか。」
聞いて、メロスは激怒した。
「呆れた王だ。朱を奪う紫を許してはならぬ。己が悪政に正義の鉄鎚を下してやろう。」
メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏の犬に噛まれ、女警に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からはモンスター・ボオルが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「このボオルで何をするつもりであったか。言え!」
暴君ガオガヌスは坐らにして、静かに、けれどもたしかな迫力を以って威圧した。その王の顔は、虎を思い起こす程に厳めしく、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「猫の四足歩行を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたち人間だ。人の心は、あてにならない。おまえだって、其のボオルでわしらを捕らえようとしているのだろう。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。わしだって、もとは――」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、共存を望んでいるのだが。」
「なんの為の共存だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い猫を立たせて、何が共存だ。」
「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに二日間の日限を与えて下さい。修士課程への入学手続を、済ませたいのです。二日のうちに、私は村でポケモンを貰い、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。
「とんでもない嘘を言うわい。逃がしたポツポが帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。
「私は約束を守ります。私を、二日間だけ許して下さい。博士が、私の帰りを待っているのだ。私は、学位を授かった恩義に報いなければならぬのです。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にゴリランティウスという硝子職人がいます。私の無二の相棒だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、二日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を打ち殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りのゴリラを、二日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの獣を焚刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。二日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスは口惜しく、地団駄を踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、ゴリランティウスは、深夜、王城に召された。暴君ガオガヌスの面前で、佳よき友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。ゴリランティウスは、強情ゆえに、直ぐには納得しなかった。メロスは、長年の付合い故にその意地っ張りの性格を看破し、友の懐にタウリンを忍ばせた。ゴリランティウスは無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。ゴリランティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。晩秋、満月の夜である。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌くる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの両親も働きに出ていたから、なんとか顔を合わさずに済んだ。
研究所に向かうと待ちくたびれた博士が、よろめいて歩いて来る学士の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく学士に質問を浴びせた。
「なんでも無いのです。」
メロスは無理に笑おうと努めた。
「市に用事を残して来てしまいまして。またすぐ市に行かなければならぬのです。今すぐポケモンを下さい。少し休んだら、出発します。」
博士は眉を顰めて忠告した。
「しかしそうは言っても、今日の学生たちは皆ポケモンを持って行ってしまったからのう。君は時間通りに来なかったから。」
「では私は、ポケモン無しで入学するのですか?」
メロスは困惑して訊いた。
「もう一匹居るには居るんじゃが、此の残りポケモンにはちと問題があってな。」
「私が遅刻したのにも問題があります。」
「ならば。」
博士は語勢を強くして、棚の奥から忙しなくボオルを取り出し、メロスに手渡した。ポンとボオルの開く音が響いた。千紫万紅の芳香を放って、一匹の、小さなポケモンが現れた。
博士曰く、その名はニャオハ。面に新緑を彷彿とさせる紋様を湛えた、可愛らしい猫型の、裏葉色のポケモンであった。生粋の愛猫家であったメロスは、大いに喜んだ。
「此の仔の何が問題なのですか?」
メロスが問うと、博士は悩ましげな面構えで、タイプ相性の話を始めた。しかしメロスにとって、博士の理論は些細な問題であった。曲がりなりにもメロスは学士で、ある程度ポケモンの飼い方を心得ているし、何よりその話はグワラル留学の同期から、耳に胼胝ができるほど聞いた。かつての相棒も草の力を以てあらゆる好敵手に戦いを挑んでいたから、まったく問題無いだろう。
「よいのです。私は、此の仔と、旅に出ます。」
「そりゃそうじゃ。」
博士はしたり顔で了承し、記録帳と幾ばくかの奨学金とをメロスに手渡した。冒険の、始まりだ。
研究所を後にすると、後ろから声をかけられた。学部を首席で卒業した、博士の孫であった。高級車の車窓に手を掛け、沢山の女たちを侍らせていた。どうやら出発前に酒宴を催すらしい。君もどうかと誘われた。顔なじみではあったものの、対して親交も無かったから一度は断ろうと思ったが、華やかな女たちに目が眩み、参加した。
その晩は、大変盛り上がった。メロスは相棒のことなど忘れて、大いに宴席を愉しんだ。貧乏学生の身分も忘れて、高級な三鞭酒を積み上げては、奨学金をすっかり費い果たしてしまった。
肉慾の赴くままに歓待の女に悪戯を繰り返していたら、幾人かの黒服の男が現れ、メロスは身包みを剥がされた。散々の狼藉を働いた付けが回って来たのだ。ひどく酔っていたので、以降の記憶は曖昧であるが、博士の孫に「二度とボクの前に姿を現さないでくれ。」と屋敷を追い出されたことは覚えてる。慎め、エロス。
翌朝、土砂降りであった。どうやら、隣国の海王がナンジャモなる小童の配信に出演し、王子に雨乞いの踊りをさせていたらしい。たしか嬢のひとりがそう言っていた。
二日酔いに頭を抱えながら、「ニャオハ。」と呼びかけるも、彼はぷいとそっぽを向いてしまう。それもそうだ。昨晩メロスは色欲に溺れ、ニャオハに一切構わなかった。むしろ、女たちの方がよく彼を撫で回していたくらいだ。メロスが抱き上げようものなら、顔を引っ掻かれ、傷を負ってしまう。当然の報いである。
とはいえ歩き出してみると仔猫は後ろをついてくるので、彼を意に介さず歩みを進めた。まあなんとか、間に合うだろう。楽観的な性分のメロスは、大して急ぎもせず、幼少期に習ったポケモンの覚え唄を諳んじながら、だらだらと歩いた。
しばらく歩くと、川縁に辿り着いた。豪雨のせいか、いつもに増して滔々と浪打っている。流石のメロスも危ないと思ったのか、ニャオハをひょいと担ぎ上げた。四肢を振り回し、腕を噛んで拒まれたが、今はそんな場合ではない。まだ酔いが抜けず、ふらりふらりと歩いていると、うっかり岩肌を踏み違え、濁流へと転落した。紛うことなき自業自得の災難である。メロスは陥溺した。激流に抗うことも敵わず、猫の手も借りたいメロスであったが、猫は腕の中だ。轟々たる浪を掻きわけようにも、掻き分けようにも、此の手を離すわけにはいかない。
巻き添えのニャオハの不憫さに、神も哀れと思ったのか、ついに憐憫を垂れてくれた。猫の餌のような小魚の形をした、やけに具体的な憐憫であった。メロスは、藁にもすがる思いでそれを掴んだ。途端、何やらつよい力に引き上げられた。学士の犍陀多は、ひとときも邪心を忘れぬまま、地上へと引き上げられた。糸引いたのは、釣り人の女であった。
こんな豪雨のなか、赤いギヤラドスを探して、荒れ狂う水面に釣糸を垂らしていたらしい。己に引けを取らない相当の阿呆だと見定め、女の素性を聞いてみると、博士の孫の旧い恋人であった。年頃の女にしては些か、発育も良い。しかし、やはり、相当に阿呆そうだ。彼奴は、こう言うのが好きなのか。メロスは礼もそこそこに俄に立ち上がって、「あの坊っちゃんに宜しくな!」と捨て台詞を吐き散らし、ニャオハを籠に乗せて自転車を漕ぎ始めた。
私はきょう、死ぬのである。自転車の窃盗など、死刑を目前にしては、ほんの誤差に過ぎない。メロスは、盗んだ自転車で走り出した。二十五の昼のことであった。
女の姿が見えなくなって安心したのも束の間、一難去ってまた一難。メロスの前に立ちはだかるのはヲニスズメの群れ。城の主の命令に違いない。奴はアロオラの生れらしいから、家来を呼び寄せるのは容易いだろう。おまけに鳥ポケモンと来たものだ。流石だ。タイプの相性をバッチリ理解している。
メロスは、命じた。ニャオハは、勝手に闘った。闘えども闘えども、ニャオハの身体は傷ついていくばかりだ。メロスは駈寄った。
いくら私が阿呆であろうと、此の小さきものだけは守らなければならぬ。私が、ボオルを没収されたばかりに、半ば瀕死の彼をどこにも逃すことは敵わぬ。せめてもと彼を庇い、覆いかぶさり、鳥どもの啄木を一手に引き受けた。
そのとき、ニャオハが、動いた。
ニャオハはメロスの前に出て、前脚を天に掲げて鳥どもを威嚇した。勇者は、立った。小さな蛮勇が鬼神をも凌駕する。「ニャオハ、立つな!」メロスの悲痛の叫びを掻き消すように、嵐のような草技を放った。流石のヲニスズメも怯んで、蜘蛛の子を散らすように飛び去った。
メロスとニャオハは疲れ果て、その場に倒れ込んでしまった。友を迎えに行こうにも足腰が言うことを聞かない。自転車も、もう動かない。ニャオハは言うことを聞かない。
ゴリランティウスは今、何をしているのだろう。火の中、水の中、草の中、森の中、土の中、雲の中、ありとあらゆる苦難を乗り越えた我が友のことだ。屈強な、我が相棒であれば、暴君の殴打など、容易く受けきってくれるだろう。悪辣なラリアットを受けようとも、大地のように強く、逞しく、立ち続けているであろう。メロスは眼を閉じた。このまま王から逃げ切って、先っきの釣り人の女と、全国を放浪するのも良い。あの女の肉體を、ずっと眺めて居たい。メロスは深い眠りに就いた。
ふと頬に、ぺろりと舐められるような感触を覚えた。ニャオハはすっかり坐り込んで、心配するように此方を見ている。
メロスは立った。我が身が滅べども、此の仔を滅ぼしてはならぬ。必ず、まちへと戻り、屈強な我が友に此の仔を預けるのだ。新たな義務遂行の希望を胸に、たしかに、たしかに一歩を踏み出した。晩秋の斜陽は夕霧を茜色に染め上げ、露引かぬままの木々の葉を照らし、幹をも昇華させんばかりに輝いている。
赤い空を見上げると、鳳凰鳥が翔んでいた。すっかり低くなった陽に照らされた羽は、神神しく燦めいていた。生ける伝説は虹色の両翼をはためかせ、緋色の立派な体躯をひらりひらりと運んでいた。メロスは西班牙の闘牛のように頭に血を上らせ、猩々緋の下衣に想いを馳せた。
どうせ死ぬ身であれば、あのまちの女の、緋色のスカアトの中身を、覗いてからでも遅くはないだろう。既に死刑であるから、多少の痴漢行為など黙認されるにきまっている。城の門を叩き割って、再度女警に捕縛されるのも悪くない。肌着への憧憬と、沸々と湧いて勃る肉慾を胸に、メロスは駈出した。もう何でもいい。走れ!メロス。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、それでいて仔猫を宝物のように抱え上げ、メロスは翠の疾風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、巡邏の犬をも蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あのゴリラも、火炙りの刑にかかっているよ。」
そんな話は聞いていなかった。王とは打ち殺すと約束をしたはずだったのに、火を吐かれては、本当に死んでしまうではないか。その獣を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。友と友の信頼を、いまこそ知らせてやるがよい。変態なんかは、どうでもいい。スカアトの中身など、あとから覗けばよいのだから。
見える。はるか向うに小さく、パルデアの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「おい、メロス。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「あなたは。」メロスは走りながら尋ねた。
「カプ=ブルヌスだ。貴様の友人ゴリランティウスの師だ。われが彼に業を仕込んだのだ。」その老いた職人も、メロスの後について走りながら叫んだ。「貴様の愚行はすべて、博士の孫から聞いている。好い加減、お縄に掛かったらどうだ。」
メロスは諦めて、立ち止まった。
「もう、陽は沈む。」
「ちょうど今、彼奴が焚刑になるところだ。貴様は見通しが甘い。タイプの相性というものを、てんで理解していないではないか!」
叱責を浴び、かつてのグワラルの同期の言葉を思い出した。彼の兄の火炎龍に草技を繰り出しては、窘められていたではあるまいか。
続けて、師は罵倒した。
「貴様は、人間の屑だ。もう今となっては、間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。貴様の命に価値は無い。死んで償ってもらうぞ。われについて来い!メロス。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、仕方あるまい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走ってみよう。」
王城の扉を蹴破ると、予想だにしない光景が広がっていた。かの暴君ガオガヌスと、我が相棒ゴリランティウスが、肩を組み合って愉快そうに談笑しているではないか。懐のタウリンをきっかけに意気投合し、筋肉談義に花を咲かせていたらしい。意地っ張りの者同士、馬があったのだろう。しまいには、メロスの悪口大会で大いに盛り上がっていた。
きょうは、まちの皆が敵であった。村での愚行はあの孫によって喧伝され、まちの役者たちは、はなから、メロスを陥れるつもりだったのだ。群衆から、億千万もの罵詈雑言を浴びせられた。そのすべてが図星で、メロスは何もものを言えなかった。
当然の帰結だ。神も憫笑していることに違いない。
メロスは愈々、観念した。ニャオハのことが些か気がかりであったが、あれだけの大技を放つ才があるならば、此の仔も直ぐにひとり立ちするだろう。たったひとつ、蛇足を申し上げるならば、最期におパンツをお目にかかりたかった。
もういい、黙れ、メロス。
メロスは堂々たる面持ちで、処刑台へと歩いていった。一国の、二億四千万の瞳がメロスに集まる。ニャオハも覚悟を決めたのか、メロスの後をついて最期の舞台へと上る。行儀良く、その場に坐った。
「ゴリランティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、ずっと、邪な夢を見ていた。朱にも紫にも染まらぬ、ピンク色の夢を。お前に殴られて死ぬのであれば、本望だ。」
ゴリランティウスは、すべてを察した様子で首肯き、木槌のように振りかぶり、腕に唸りをつけて、メロスの右頬を殴った。当然の仕打ちである。
ゴリランティウスは一回の殴打に飽き足らず、メロスを立たせ、再度殴った。今度は左頬である。右。左。右。左。時折暴君、ラリアット。
愈々、群衆のひとりから「やめたげてよお!」と、歔欷の声が上がった。然れども暴虐は止まぬ。群衆、阿鼻叫喚。ニャオハも哀しそうに鳴き叫ぶ。これでは王の思う壺だ。処刑台の上では、赤と緑の暴君が双璧を成している。
ゴリランティウスがすっかり悪漢へと成り果てた頃、ふと、拳が止んだ。彼は、群集心理の仮面を被っていたに過ぎなかったのだ。ゴリランティウスはゆっくりと手を伸ばし、その傷ついた身体を、メロスの全身を、しかと抱きしめた。
群衆、総立ち。長い長い仮面舞踏会は、終に閉幕を迎える。ニャオハ、欣喜雀躍。
王は、その場にへたり込み、か細い声で、民へと呼びかけた。
「お前らの望みは叶ったぞ。暴虐は、民をも惑わす。桃色の軟弱者の阿呆が、わしに示してくれた。王の座に就きながら、そんなことにも気づき得なかったわしは、もっと、阿呆だ。わしは、進化した。
どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」
王は、徐ろに仰向けになり、四肢を広げた。空の玉坐の傍らで、恰も前世が愛玩動物であったかのように丸くなり、ニャオンと鳴いた。さらには自らの前脚をペロペロと舐め始め、満足そうにかん高い声を響かせた。
メロスは赤面した。此の悪人面でそんなことをされては、見るに堪えない。恥ずかしさで居た堪れなくなった。
いっぴきの仔猫が、緋のマントを加えてメロスへと擦り寄った。メロスはまごついた。佳き友は、気を利かせて教えてやった。
「王様は、まっぱだかでいらっしゃる。早くそのマントを、早く王様に献上するのだ。この可愛い仔猫ちゃんは、大の男の四つん這いを、見続けなければならぬことが、たまらなく悍ましいのだ。」
悪役は青ざめ、ふたたび立った。
(古伝説とオオキドの論文から。)