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インギンブレイク

 慇懃に振る舞おうと試みるうちに、慇懃を重ねることから遠ざかっていく。

 私の内面に強く根づいた畏れは、礼儀正しさの反面、恐れにもかたちを変えてしまう。もしかすると嫌われているかもしれないという虞は、私の心身を硬直させ、それまでの思考をすべて真っ白にする。


 はっきりと申し上げて、私は人付き合いが下手だ。特に、大人数の集まりがすごく苦手で、集団の中でどう振る舞うべきか、悩みが尽きない。「人付き合い」が指すところはおおよそ、一定以上の人数が集まる場へと身を投げることだろうから、私が実際に付き合うことになるのは人ではなく社会だ。

 集団の成員が多くなれば多くなるほど、紐帯の曖昧さに方位を見失い、いざ中へと分け入っていくことに尻込んでしまうのだ。

 社会というものがあまりにも模糊としているせいで、全身に恭しさを纏わせて、安い雲丹のように頼りない中身を守ることしかできない。すべての人間関係が一対一だったらいいのにと大学の頃の友人に嘆いたら、それは病的だと笑われた。さすがに私もそう思う。


 飲み会なんて、社会の最たる例だ。平生の会社や学校と違って、課業も与えられぬなか見ず知らずの総体と接することを求められる。しかもその中で一部だけが盛り上がっていようものなら、他はきっと疎外感を感じてしまうだろう。

 それならば、まだ儀式的な宴会の形を取ったほうが、やむを得ず居合わせた者には利を感じられそうな気がする。そのとき見えない総体は、わりに見えやすい一部の連なりへと姿を変える。


 しかしながら、現代の社交は往々にしてその形式では済まされない。そこで、当初の理想に立ち返ることとしたい。

 総体を個人へと解きほぐす――つまり、せいぜい数えられるほどの「大勢」のすべてと誼を通じればよいのだ。

 すぐ先にある集まりを、見えない他者が遍在する大きな社会ではなく、分かりえない他者が偏在する小さな社会として捉えれば、自ずからつながりが見えてくるはずだ。


 フランス語には、tutoyerという動詞がある。「『君』と呼ぶ」という意味で、目の前の相手(二人称)に対して敬称を取り払って親称を用いることを指す。親しさの度合いによって、明確に人称表現を使い分ける言語ならではの表現だ。

 慇懃を壊し、彼我の隔たりを縮める。小さな社会のすべてを「君」と呼び、有機的なつながりを身に宿す。幼少期から内気な性分を盾にして逃げてつづけていた関係性の構築は、未だ目の前に立ちはだかっている。

 奇しくもいちねんせいになってしまった。あの頃斜に構えて見ていた諸々に、今度は正面からぶつからなければならない。

 ともだちひゃくにん できるかな
 ひゃくにんで のみたいな
 ばすえのさかばで おビールを
 ごっくん ごっくん ごっくんと

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