腰痛たちとシゲキ的な夏
腰を痛めて、椅子を新しくした。
こんなにも一つの場所に座り続けていた夏は初めてだった。受験なんてひと昔前のものになってしまったし、ここ数年は純粋な勉強というよりも調べ物の方が多くなった分、絶えず動いていた。
立ち止まって、座して志す。洋間に住む私にだって思索の四畳半はある。いつだって部屋の中から、頭の中から。飛び立とうにも羽は生えていないから、ちまちまと設計図を起こしては頭を抱えて破り捨てる。私は鳥人間。
少しばかりか年を重ねてしまったゆえか。座すと痛む首肩背腰。妖精たちは夏を、そして腰痛たちは私を刺激する。やむ無し地獄のソリチュード。
茹だるような暑さに耐えかねて蟄居する日々が続いている。極めて孤独な作業である。かといって、塞ぎ込むわけではない。痛み以外にも私を刺激してくれるものがたくさんあるからだ。
ここ最近は和訳に勤しんでいる。英文だの仏文だのを日本語に直す知的格闘を繰り返して、少しずつ筋肉のようなものが付いてきたように思われる。
受験勉強めいた単語群のインプットですら刺激に満ちているのは言うまでもない。聴覚映像と概念ないし特定の語が結びついていることを実感すると、面白くてたまらない。
しかしながら、やはりまとまった文章を訳そうと試みる喜びにまさるものはない。仏文学者の鷲見洋一が ironie (英: ≒ irony) を「冷やかし」と訳しているのを見たとき、私はすっかり心を奪われてしまった。
動的か静的かで言えば、限りなく静的な刺激であろう。それでも私はうっとりとして頬杖をつく。
今年は個人的な事情からうっかり高校野球に熱中してしまい、球児たちが持つ立派な翼に己の欲望を託す大人の一員になりかけたが、私自身のうちにある密やかな野望にも向き合っていかなければならないだろう。
憧憬が私を、静かに、静かに刺激する。恍惚のエチュード。