利休百首その15 棗には蓋半月に手をかけて
「利休百首」は茶の湯の作法や礼儀を100の和歌の形式でまとめたもので、茶の湯の実践者だけでなく、茶の湯の初心者も親しめるように作られたものです。
この利休百首を今、ひとつひとつ読み返していて、このnoteには読んだ感想や、この歌にまつわるエピソードを残しています。よかったらお付き合いください。
棗を扱う時は、半月を描くように持つこと。茶杓を載せる時は、棗の丸みを感じさせるように置くこと。
ここまで茶の湯の精神的な部分をフォーカスした歌が多くありましたが、このあたりからいよいよ道具にまつわる細かい話のフェーズに入ります。
この歌を今英語とフランス語に翻訳していますが、歌の翻訳だけでは読み手(日本の文化が好き、抹茶が好きだけれど茶の湯のことは分からない外国人)には絶対に伝わらないことが多いことが容易に予想できますので、フランス語で補足を書いています。いつか英語でもまとめたい、とは思っています。そんなわけで、仕事と若干の睡眠時間以外、この利休百首の翻訳作業に費やすことになりそうです。
労力のいる作業ではありますが、将来必ず役に立つときが来ると信じ、進めていこうと思います。
さて、もう10年以上も前の話ですが、私は本屋が好きで、ファッション雑誌もいろんな年代のものをよく立ち読みしていました。とはいえよく読んでいたのはやはり同世代をターゲットにしたものです。20代前半のOL層向けのファッション誌の付録には、年に1回、こぞって女性のためのマナーブックのような冊子が入っていました。この冊子があるときは購入し、冠婚葬祭の時など、定期的に見返していたものです。
マナーブックにこんなことが書かれていたことを思い出しました。
ファッション誌の付録に茶の湯という言葉を見かけることはありませんでしたが、何十年か前は、裏千家の大宗匠のお姉さまに当たる塩月弥栄子さんという方が冠婚葬祭の本を出版され、当時は大ベストセラーになったそうです。メディアや講演活動に精を出されていたようで、今のSNSとは異なるかもしれませんが、当時のいわゆるインフルエンサー的な存在だったのかもしれません。
情けはかけるもの、マナーは守るもの、とはいえ、情けは人の為ならず、そしてよきふるまいも人の為ならず、と言えるのではないでしょうか。
物理的な行動を律することで余計な感情を制し、判断が合理的になり、いろいろなリスクを最大限に避けることができるのではないかと思います。
たとえば棗を持つときに半月を描く、という動作をすることで、手に入りがちな余計な力が抜け、茶道具に粗相が起きることを避けることができます。また、この心掛けを日常にも応用できるようになれば、たとえばものを鷲づかみをするような、本能からくるような雑な行為を避け、洗練された雰囲気を醸し出すことができるのではないか、と思います。
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これからしばらく、とても、細かな動作に対する歌、道具の取り扱いに関する歌が続きます。翻訳の添削をおねがいしているネイティブの先生に歌の訳を見てもらうと、「日本人って大変ね!」と驚かれます。
書く側も読む側も、「そんなのしらんがな」と、ツッコミを入れたくなる時期が続くかもしれません(書く側もかい、と先に突っ込む)。
しかし利休百首には、茶の湯の世界にとどまらず、和のエスプリが詰まっているように思います。昔の人々に代々受け継がれてきたものですから、いくら私たちの日常がこの100年で劇的に変わってしまったとしても、これらの歌を私たちの時代にも生かすことができるのではないでしょうか。そんな問いを立て、読んで面白くなるような工夫をしつつ、更新を続けていきたいと思いますので、よろしければお付き合いください。
この作業を100終えた時にはきっと、利休さんの考えにもっと近づけることを信じたい……。