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変わりゆく時代と、変わらない茶の湯の心
外国語でのスピーチコンテストに参加することになった。テーマは「コミュニケーションの発展と質の保証」。むむむ、何を話そうか悩んでいたが、ふと茶の湯が頭に浮かんだ。長年私が学んできたこの道は、実は究極のコミュニケーションの形ではないかと、ふと思いいたった。
私はもう十年以上、遠方にある先生の元にわざわざ通い、茶の湯を学んでいる。茶の湯を始めた頃は、先生の言葉や教えを理解するのにとても苦労し、何度聞いても覚えられなかった。そこで、稽古中にメモを取ろうとペンと紙をとりだした。ところが、先生から書くことを固く禁じられてしまったのだ。「お稽古で一番大切なのは、その場に集中し、心で感じ、記憶にとどめること」だという。頭で考えたり、手を動かして記録を取ることよりも、心で感じ、五感を研ぎ澄ませて学ぶことが大切だという。
それを聞いて、正直、「先生はケチなんだな」と思った。その場ですぐにメモを取らせてもらえた方が後で振り返りやすいし、修得も早いだろうにと思った。しかし、先生の教えを守り、集中して稽古に臨むようにした結果、相変わらず同じところでつまずきはするが、それでも少しずつ、苦しむうちに自分の中に変化が訪れた。全神経を研ぎ澄まし、先生の話を聞き、目の前のことに集中することで、今まで気づかなかった細かい動作や所作、そして茶室の空気感をより深く感じ取ることができるようになった。帰宅後、筆を執り、その日に稽古で教わったことを思い出しながらノートに書き留める習慣をつけた。あいまいな記憶に頼るだけなので、初めの頃はひどく虫食いの状態だったが、ノートは少しずつ書き足され、やがて真っ黒になった。また、振り返りの時間を持つことでお茶のことを考える時間が増え、茶の湯への理解を深めることができたように思う。
そして十年以上の歳月が経ち、ようやく家元から「茶名」を頂戴するにいたった。茶名とは茶の湯を深く学んだ者に与えられる特別な名前であり、一人前の茶人として認められた証でもある。しかし茶名を得たからといって、私の修行は終わりではない。むしろ、ここからが本当の始まりだ。でも、この道を究めるには、人生はあまりにも短いとさえ思うようにもなった。
そんな私の長い歳月をかけた極めてアナログな修行が紆余曲折を経て進む一方で、時代はとてつもない速さで進化している。今では、インターネットを通じて誰でも簡単に茶の湯に触れることができるようになった。YouTubeで茶道の動画を見たり、ブログやSNSで茶の湯の知識を共有したりすることができる。外国語での情報も豊富にあり、茶の湯を学びたいと思えば、世界中どこにいても学ぶことができる時代だ。もしかすると、AIに聞けば秘伝の奥儀だって教えてもらえる日が来るのも、そう遠くはないかもしれない。
こうしたデジタル技術の進展のおかげで、茶の湯の「知識」を得ることは確かに容易になった。しかし、簡単に得られるようなことは、往々にして忘れられやすいものだ。また、茶の湯というのは、単なる知識の積み重ねではなく、五感で「感じる」ものだ。目で美しいお点前を見て、耳で湯の沸く音を聞き、手で茶碗の感触を楽しむ。抹茶の香りや和菓子の甘さも含め、茶の湯は全身で味わうものだ。これらの体験は、画面越しでは決して伝わらない。
また、禅語に「一期一会」という言葉がある。これは「今、この瞬間は二度と訪れない特別なもの」という意味であり、茶道の精神そのものを象徴している。一杯の茶を点てる人と、それを飲む人との間に生まれる一瞬の交わりこそが、茶の湯の本質だ。どれほどデジタル技術が進化しても、この「一期一会」の精神は、人と人が直接対面してこそ感じられるものだろう。
茶の湯は、ただの作法やルールを学ぶだけではなく、その奥にある人間同士の心のつながりを感じる場だ。点前の動作や作法はもちろん身につけるべき大切なことだけれど、それ以上に重要なことは、相手を思いやる心や、その場の空気感を楽しむことだ。だからこそ、茶の湯は究極のコミュニケーションの形だと言えるのではないだろうか。
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このスピーチを通じて、コミュニケーションという見方で茶の湯を考えることができた。デジタル技術が進化し、どこにいても情報を得ることができる時代にあっても、人と人との直接の触れ合いが持つ力は変わらない。一杯の茶を介して生まれるその瞬間のあたたかみのある交流こそが茶の湯の本質であり、現代においても貴重なコミュニケーションの形だと改めて感じている。