喫茶と熱帯魚と事故物件
喫茶店が好きだ。そういうと、頭に「純」がつく方の話に自ずとなる。それも嫌いではないのだが、好きと言えるほどは訪れない。そもそも一人ではまず入らない。純喫茶はたばこが吸えるところが多い。誰かと話す間、ほんのり煙がくゆる程度ならまだ我慢できるが、一人で休むために入ってなびいてくるのはやりきれない。もちろん完全禁煙の店もあるが、それでも一人ではやはり行かない。一人で訪れ、コーヒーをゆっくり味わう、そんな贅沢をまだ自分に許せないのである。
だからここでいう喫茶とは、チェーン店のことだ。ドトールとかスタバとかベローチェとかサンマルクとか。コーヒーの味なんて客の誰一人としてろくろく期待していない類の店のことだ。期待していないのだから、まずくとも文句はない。たまにおいしく感じると、今日は幸先いいと思った矢先、疲労の蓄積が心配になる。そんな店を流れる無難で雑多なBGMを聴き、どこかせわしない客に囲まれ、時折見て、自分の作業をするのが妙に落ち着く。喫茶店、とさっきから書いているが、実は喫茶と思っていない。300円出せば小一時間机を貸してくれるコワーキングスペースくらいに思っている。コーヒーはそのサービスであり、支払いを済ませた証にすぎない。だから時間の残滓の味がする。舌にざらざら残る。すぐに終わらせたい事務的な仕事や、早く済ませたいがなかなか取り掛かれない仕事をなんとか終わらせるべく、わたしはよく喫茶へ向かう。
ところで、わたしの最寄り駅にはこの手の喫茶がない。喫茶に行くのに電車に乗るのも嫌なので、歩く。二十分ほど歩いて別の駅へ向かい、何軒かある喫茶のうち、空いているところに入る。この町はなぜか老人が多い。常に多い。平日の昼間、街中ですれ違う八割は老人である。だから喫茶の客も必然的に老人が多くなる。老人が多い街というのは、概してゆるい。町が本来備えているねじが多少外れかかっている。日常がよくよく見るときしんでいる。歪みは人が来て、人が集まり、人が滞在する場所に生じる。つまり駅やその周辺、商業施設、商店街、それにこんな安い喫茶店である。実際わたしがよく行く、駅前の商店街に位置するサンマルクでは、しばしば奇妙な体験をする。
盛夏のことである。削りたての鉛筆のにおいがするアイスコーヒーを机に置いて本を読んでいると、頭からだくだく血を流し、シャツも見事に血染めの男が入ってきた。彼は迷いなくレジへゆき、アイスコーヒーを注文する。その場にいる全員が彼を見る。視線に気づいたのか、受け取ったアイスコーヒーのグラスを右手に
「あ、これから病院に行くんで」と言い、さしたストローに口をつけ、勢いよく飲んでゆく。なんだ、ならば大丈夫とばかりに客の視線は彼から離れ、ケータイや本のページの上に戻った。彼もすぐにグラスを戻し、出て行った。
負傷しているのは客ばかりではない。どういうわけかこの店で返ってくる札は、しばしばぼろぼろだ。一度、がっちりとセロハンテープでとめてある千円札を渡されたこともある。
わかりやすい例はこのあたりだが、一息ついて辺りを見回していると飽きないし、何かしら妙なものは見つかる。作業を忘れて、というかそちらに気を取られてしまうこともある。そんな店だからたいていの場合は空席がちらほらある。対して駅ビルのスタバは割と混んでいる。その代わり珍妙な客やできごとにはほとんどでくわさない。スタバはどこも退屈である。
今はもうない店だが、駅前のゆるい坂を上りつめた先のドトールによく通った。二階建で、二階には特にゆるくて重い空気が満ちていた。よどんでいたと言ってもよい。だが妙に心地のよい、なつかしい気だるさにも思えた。よどみや気だるさは、部屋の真ん中の円卓に置かれた水槽からしたたっていたのかもしれない。どういうわけかこの店には水槽があり、熱帯魚が泳いでいた。ほかのドトールでは見たことがなかったので、当時のわたし、二十歳くらいのわたしは、店主の趣味だろうと思っていた。趣味が高じたサービスだろうと。やくざと水槽の話を聞いたのはそのだいぶ後、二十代も終わる頃のドイツでだった。やくざ、あるいはマフィアへの借金を店の水槽の魚で表し、返済に応じて魚の数を減らしてゆくシステムがあるのだそうだ。やくざにも随分と詩心があるものだと思って聞いていた。あのドトールでも時々魚は減っていたが、しかし返済とは関係ないだろう。水槽の中で動かなくなり、目を白く濁らせた熱帯魚をしばしば見たからだ。魚は死ぬと目は変わるが、死顔というものはさほど生前と変わらないなと思って見ていた記憶がある。記憶はあるが、これはあの頃の坂の上のドトールではなく、駅の反対側のドトールだった気もする。海岸側と呼ばれ、競輪場や競馬場へ向かうバスが出る、なんとも猥雑で心地のよい地区である。もっとも心地の良いのは昼間のうちだけかもしれない。このあたりのぼったくりバーや外人のつつもたせの話を、わたしは幾度も聞いている。先日も夜の九時を回った頃、商店街を歩いていると、こちらを値踏みするように見る男がいた。売春の斡旋だろうと感づいた。あるいは薬。だが薬を売るにしては、華がない。明るさがない。それを察したように、彼はわたしから目を離した。慎重に人を選ぶあたり、この男に妙なあやうさを思った。
昼と夜とでずいぶん表情の変わる町だからだろう、旅をして、どこか郊外都市を訪れた心地に襲われることがある。いや、それは別に夜に限ったことではない。年寄りばかりのこの町を歩く午後、わたしは幾度も旅情を味わっている。旅先の、知らぬ街に立つようなこころもとなさが一気に押し寄せてくるのだ。そんな感情が好きで、旅情のさびしさに触れるため、むやみに歩き回る。特に週末の、少し閑散とした街を歩き、このドトールに立ち寄る。平日と異なり背広姿の人もいない喫茶は、あきらめきった湿度で満ちている。わたしはそこで、帰りの列車を待つべく時間を持て余す旅行者の気分にひたっていた。
二十三、四の頃だから、やはりこの喫茶に通っていた頃だ。ニュースでこの街が映った。駅裏のドトールの位置する細い通りの向かい側、一階の窓から見えるすぐ隣のビルの雀荘で殺人事件があったと報じていた。犯人の見当はついていない、おおむねそんなことを、ニュースの報道らしい即物的な表現で伝えていた。翌日、このドトールに行ってみた。通りにはロープが貼られ、席につき窓外を見ていると警察があわただしく出入りするのが見えた。
先日、「大島てる」でこの駅の周辺を検索してみた。思ったよりも点々の炎のマークがある。つまり、この炎の数だけ事故物件がある。自殺や事故死もあるが、他殺もある。確実に他殺とわかる一軒、つまりこの雀荘をクリックしてみた。「殴殺」と書かれていた。その文字に触れた瞬間、見たこともない空間の、見たこともない人々のことなのに、殺された人と殺す人のやりとりがあざやかに浮んだ。死に到るまでの途方もないほど人間的な殴り方が、不意に浮んだのだ。事件からどれくらいたってからかは覚えていないが、さほどの時間はかからなかったように思う。犯人は雀荘のオーナーだったという続報があった。二時間のミステリードラマを再放送で見ているような気分で、そのニュースを眺めていた。その後、そのフロアはしばらく空いていたように思う。それはまあ、そうだろう。いくら駅前とはいえ、わりと雑多でいかがわしいビルの、しかも事故物件なのだ。しかし先日思い出して見てみると、また雀荘が入っていた。しかしここに来る客、勤務するスタッフ、そのどれくらいがあの事件を覚えているのだろう。昔の、自分と縁もゆかりもない人が死ぬ事件、そんな細かなことを覚えてはいられない。それに、ありていにいえば、何かが起きているほうが、人が死んで、殺される方が、楽しい。強もわたしの周りで殴られている人は大勢いるのだろう。その殴り方が死には到らない程度のものというだけで、結局のところその境を越えるかどうか、それだけがまったく関わりのないわたしに伝わるかどうかの基準となる。
雀荘の向いにドトールはいまもある。あの事件の後、入らなくなってしまったが、店の前はよく通る。店の中央に置かれていた水槽はいつのまにかなくなっていた。よく通って、その度に一瞥くらいはしていたはずなのに、いつ撤去されたのかも覚えていない。