日記 7月24日
夢。こんな暑い季節だが、鰤しゃぶを食おうと言われて招待される。行ってみると鰤しゃぶを本当にうまく食べるには、人間の肉を煮た鍋に鰤の刺身をさっとくぐらす、そこにもみじおろしでも柚子胡椒でもつけて食うのがいいのだと言う。そう言うのは古い友人だ。そういうものなのかと思い、夢の中のわたしはすっかり人肉を食う気になっている。これから捌くんだ、おまえ、たしか捌くの馴れていただろと言われ、捌いたことなんてないと返せば、こないだうろこ取りを買ったと言っていただろうと言われる。有無をいわさずにわたしに鉈を渡してくる。まあいいか、死んだ人間を切ればよいのだろう。そう思うも、手違いでまだ生きている、つまりは気絶していただけの人間がわたしの前にある。相手はおびえている。はやく捌いてくれ、でもストレスを加えると肉がうまくなくなるらしい、その辺うまくやってくれ。友人は無茶なことを言う。知らん、と思いながらわたしはその人間を殴る。少年だ。真裸のままわたしの前に転がっている。しかし面倒に思いながら殴った程度ではやはり気絶もしない。目の中のおびえの光が強まるだけだ。本気で殴ったところで、うまく脳震盪を起こすのも難しいだろう。方針を変える。頸椎を脱臼させることにする。鉈の柄の部分で、少年の頸椎を殴る。骨の突起を指でなぞって数える。ひい、ふう、みい。頸椎4番。そこにがくんと打ち込む。悲鳴を上げるが、しかし声を出すということは痛いだけなのだろう。ああ、だめだ。わたしはこの少年を殺す気にはどうにもなれないらしい。友人に、こいつをわたしが引き取るよ、と言う。おれには殺せない、どうにもだめだ。友人はしぶしぶ認める。
そうしてわたしと少年は暮らしているらしい、夢の中では。わたしが彼を飼っている。彼はわたしが与えた痛みよりも、命をとられなかったという事実の方が強く残っているようだ。わたしを恩人だと思って、非常になついている。しかしわたしにはそれがうっとうしくもある。いつか急にこの犬のようになつっこい表情を変えて、わたしに襲い掛かってくる気がしてならない。少年はしゃべれなかった。最初から食肉用に育てられたのだろう。言葉など必要なかったのだ。だからわたしも教えなかった。言葉を教えるとは、嘘をつけるようにするということだ。牙はなるべくもいでおいたほうがよい。少年と暮らしつつ、わたしは日々憂鬱である。あのとき思い切って殺しておけば、こんなことに悩まず、鰤しゃぶをうまく食べられたのだろう。だが彼の息の根を止めるのも憂鬱だった。結局人間に関わるとこうなる。たとえ食べられるための人間であってもこうなのだ。
......ひどい悪夢を見る。ヤクルト1000を飲むと、実に鮮明な悪夢を見る。そう思いつつもそれにも慣れてきたが、久々に鮮明にしてじんわり憂鬱な夢である。妙な夢を見るとその理由を考える。理由というか、トリガーになったものを考える。鰤の刺身は最近買ってきて、青唐辛子醤油で食べた。もちろん人肉は食べていない。カニバリズムの本も読んでいなければ調べてもいない。いや、少し前に調べた。が、ちょっと時間はあいている。書きながらユンガーの『冒険心 第二稿』を思い出す。ユンガーもこの本の中で、人肉を売る店にゆく夢をみたことを書いている。彼の夢はたしか嗅覚の描写もあったと思う。
朝、母から連絡があり、コストコに行くけどもあなたも行くかとのこと。久々だったので、ついでに行く。すこしだけ、しかしすこしだけとは到底言えないサイズで買う。シャンタン1kgなんて、使い切るのにどれくらいかかるのだろう? 今冷蔵庫の中にあるのはやはり1kgので、たしか3年くらい前に買ったものだ。今回も3年だろうか。3年も生きているだろうか。コストコは資本主義の墓場のような空間で、来る度にカルマのマイレージがたまると思っている。カルマのマイレージがたまると生きていながら地獄に行ける気がする。そう思っていたが、少し思い直す。資本主義の墓場はアウトレットだ。ここは資本主義のうたかたの悪夢。より生々しく気持ちが悪い。夏休みがはじまったのだろう、子どもも多い。昔読んだ倉橋由美子の小説で「典型的な貧民の顔」というとんでもない表現があった(たしか『暗い旅』だ)。その一節を何度も思い出した。いま適切にこの子どもたちを殺して鰤しゃぶにするための出汁をとったところで、たぶん鰤しゃぶはうまくならない。そう思いながら、何も見ていない顔をしていた。できていたと思う。
昼、蒲田へゆく。暑い。しかし暑い日のひなたを歩く際のあの心地よさ、なんだろう。一葉の大きな葉が燃えながら、燃えることでその葉脈をあざやかにみせるような、って、ああこれはたしかユンガーが『冒険心 第一稿』で書いていた炎のイメージ。うだっている猫がかわいかった。野菜と本とニトリで収納用品を買って帰る。ところで、今日はサングラスをして歩く。サングラス越しに見る世界の落ち着いた感じ、静かな感じってなんなのだろう。異様に落ち着く。落ち着いて、ちょっと怖くなる。わたしの頭の中はいつもうるさい。特にこのところこのうるささがひどく、先日、ああ、これは周りから見れば発狂なんだろうなあというレベルで壊れた。恐ろしいのは、こういうとき妙に冷静な部分はそう判断はできていることだ(決して止めてはくれないし、なんならもっとやれと言うのだけれど)。ちょうど時期を同じくして飲み始めた薬が合っていたのだろうか、それが効いてきたようで、今日は頭の中が静かだ。だれも茶々を入れてこないし、突然昔のはやり歌を歌ったりもしない。考えていることの言葉尻を捉えてダジャレや地口を言うこともない。クリアだが、静かすぎる思考に馴れていないせいか、少し恐ろしくもある。
帰宅後、久々にノンストップで料理をする。麦入りのごはんを炊く、ゴーヤとなす、ピーマン、青唐辛子、にんじんを味噌だれで炒める、豚挽き肉を青唐辛子多めに刻み、なす、ピーマン、しいたけで炒めて肉味噌を作る、にんじんを細かく切って塩を纏わせる(こうしておくと色々使えるので常備している)、なすを焼き、茗荷をゆでて、それぞれ割いたり切ったりして、マリネにする。こんにゃくと冷凍していた鶏の皮を醤油で煮る。タンドリーチキン用に鶏むね肉を仕込んでおく。スズキのアラをアラ汁にする。今回はゴーヤも少し入れて、夏っぽく。料理はしている間は楽しいが、食べるのは別になにも楽しくない。料理だけして、すべて捨ててしまいたくなるのはしょっちゅうだ。とはいえおいしくできた。
夜、寝室というかクローゼットを淡々と片づける。片づけることでかえって散らかるのは仕方がないことなのだろう。テレビをつけていたらちょうど「汚部屋」を片づける番組をやっていた。がんばろうと思った。なるほど、ミニマリストの部屋の写真を見てもだめなのだろう(だいいちわたしはミニマリストではないし)、むしろ散らかった人の部屋を見た方が、こうはなるまいとなんとかなる。ある程度片づけたら気分が昂揚していて、眠れない。