えちうど 1

散文をつむぐことへの抵抗感ってなんなんだろう。そんなことをずっと考えて、2年の月日が流れ去る。いや、「2年の月日が」なんて気障っぽくかいたのは、別にわたしの趣味じゃない。不意に「ルビーの指環」の「そして二年の月日が流れ去り」の一節が聴こえたからだ。
そう、二年とは街でベージュのコートを見かけると指にルビーの指環を探してしまう、そうさせるほどの年月である。......いや、本当にそうか? 捨ててくれといった指環をそんなに期待するか? 別離の後も指環をするか?
こんなこともぐにゅぐにゅ書いて行けるのが散文なのだろう。散文の思考は散歩に似ている。簡単な散歩ではなく、途方もない散歩。散歩とはいえない距離の散歩。隣町の隣町の隣町の隣町。そんなところまで、てくてく歩いてゆく散歩。だからこれからが、歩きに歩いても汗をかかないこれからが、散文のシーズンである。

......そんな気分で歩いていた。つまりは高揚していた。コロナ禍以降、自粛という言葉を毛嫌いしていた割に、おのずとその精神は取り込んでいたらしい。人と会わない、人と会食しない、人のいるところへ行かない、そのような行動様式を受け入れていた。それに気づいたのが最近の、レベル1になった東京で、なのだから情けない。
とはいえ歩く、ずんずん歩く。歩いているだけで楽しい。わたしは家でじっとしていると極端に弱る。そういう体質なのだろう。最近はあきらめて歩いている。
歩く間に色々と考える。直して送らなければいけない論文のこと、仕事のすすめかた、短歌の仕事、今後の生き方。で、歩くにつれて、どうでもよくなってくる。

「P」という見覚えのある文字を風景の左上に見かけた。左上、というのはわたしがそのとき立っていた橋の位置の問題だ。しかし、P。わたしはこれを幾度も見た。車で少し先の橋を通り過ぎるとき、前に住んでいたアパートの屋上に上ったとき、いまの住まいの...大家が同じ人だからという理由で勝手に上って時々缶チューハイを飲んでいるアパートの屋上から。

...星が見事な夜です、風はどこへも行きます...

かけっぱなしのオーディオからは、井上陽水の「なぜか上海」が流れてくる。いろいろなぜかわからないのだが、井上陽水の数多ある曲の中でこの曲は格別に異様に好きだ。ドイツで暮らすことになった直前、PCに陽水の音源を搭載した。で、現地で「日本の音楽ってどういうのがあるの?」というドイツ人に容赦なく陽水を布教した。そのときも好きだったかは覚えていない。

散文をつむぐ。つむぐことへの苦手意識。それを解放したい。苦手意識の解放。精神の解放。

文なんて、ばかでもつなげられる。その「ばか」になりきることの、なにが怖いのか。なにをおそれているのか。そして平然と文をつむいで、散文をたれながす「ばか」の、いったいなにを、わたしは嫌悪しているのか。ていうか、それとわたしのなにが違うと、思っているのか。

だからさあ、もっと気楽にやろうよ。自分の中の自分をいなそうと、いちおうはするそんな声に、わたしは昔聴いた声を思い出して身構える。たぶん、文化祭とか、そんなみんなで行う作業のときの声だろう。
つまり、そういうのが苦手だった。本当に。

同窓会名簿というのが、どのレベルで流通しているのかはわからない。ただ時々不安になる。わたしが通っていた高校は、割と大きな学校だった。大きな、というのは物理的な話だ。A組からR組まであった。冗談みたいな学校である。それもクラスの人数は40人ちかくいた。今だったら少しは違うかもしれないが、私立なので定員をわざわざ減らさないだろうし、さほどの変化はないだろう。
この高校の名簿が流れにながれているとしか思えない連絡が時折くる。たいていは非効率なセールスだ。いちどはブライダル関連のセールスがきた。「近々、ご結婚の予定はありませんか?」指環を売りたかったらしいが、なんという売り方だろうか。色々思うところはあったが、この牧歌的なひとことに、かえって和んでしまって、全然ちがう話をして電話を切ったのは覚えている。
しかしこんなのはいいほうで、たいていはろくでもない使い方をされる。つまり、たとえば、選挙の協力だ。しかも暴力的に葉書で来る。「同期!よろしく!」と一言書かれている。同期ではあるが、別に話したこともない間柄だ。R組まであって、学年700人いれば、それも珍しくもない。葉書をよく見れば、そいつの親族が選挙に出るらしい。とりあえず名前だけ覚えて、破いて捨てる。

これに近いことが数件続いた。選挙、セールス、選挙、セールス、セールス、セールス。主にセールスだ。わたしは妙なところで真面目なので、その手のセールスに真面目に応える。だから「それについて、これ以上話すのは無駄ですよ」と直接言う。だって結婚する気のない人(というか、はっきり言うが、バツイチ子持ち)に、指環やらなんやら、おめでたいものを売りつけてもしかたがない。で、その流出名簿の更新葉書が届いた。破って捨てようと思ったが、よくよく読むと返信しないといままで登録している情報をすべてそのまま載せるという。つまり、名前、住所、電話番号がごそっと載るらしい。これはこまる。で、わたしは改竄を試みる。

かみありす。そういう地名をご存知だろうか。上有住。こう書く。はじめて一人旅をしたとき、駅のアナウンスで妙に覚えている、岩手県の地名である。文字を見ていると「上に住む人、有り」と見えるが、まあ典型的な限界集落らしい。さびれきっていることはグーグルマップを見ても一目瞭然である。
で、わたしは数年前から、魂の半分をこの街に住んでいることにしている。かみありす在住の魂を動かす。彼は住所を教えてくれる。それを、わたしは名簿の住所更新の葉書に書く。電話番号はどうしようか。迷った挙げ句、市役所の番号を二箇所変えて書く。たとえ誰かがかけたとしても、現在つかわれておりません、になることを祈る。それで投函する。ポストの闇には、こんな住所がうってつけだ。そのまま葉書がとけて張り付いてしまいそうだ。だが、ちゃんと向こうについたらしい。で、ちゃんと手続きも済んだらしい。それからわたしの元に一切の連絡が来ない。

「わたしが不思議の国のアリスだったら...。あなたはあのとき、ギャルソンの女性物の服を見て、そんなことを言ってましたね。わたしが不思議の国のアリスだったら。その設定に驚きました」

かみありす。この地名が好きなのは決して、神、アリス、このことばのつながりのせいではない。でも、どうしてもリンクする。だから池袋のデパートではしゃいでいたわたしを評したそんなことばも思い出す。
かみありす。わたしはそこに住んでいない。しかし半分は、住んでいる。住んでいることになっている。いや、なっていた。なって、「いた」...?

ここから少し、オカルトめいてくる。そして同時に、現在の、本当に最近のわたしの話になる。少し前、夢を見た。夢の中でわたしには家族がいた。子どもも2人いた。夢の中は休日、たぶん日曜日だった。わたしたち家族は車で林道をゆき、やがて山道へと向う。子ども達がそこの沼を見たがっていたのだ。晩秋の沼。落葉を水面に浮かべて、かがやかしい光景である。わたしたち家族はそこで4人、それをうっとりと眺める。うっとり眺めるこどもの首を、わたしは締める。ことばが出ないうちにしめてしめて、しめあげる。妻も同じように、次女の首をしめている。そうしてぐったりしたこどもを、わたしたちは沼に捨てる。水音がたえて、その余韻の一切が消えるまでわたしたちはそこに立つ。立っている。......いや、このままわたしたちも飛び込むつもりだったのだ。無理心中。そのつもりだったのだ。しかし、子どもを殺してしまったら、途端に気持ちが変わった。そうわたしたちは、言葉を交わすまでもなく悟っている。さて、これからどうしようか。わたしは夢の中の妻に、声をかけようと...っていうところで目が覚めた。なんだ、この夢は。そう追い払いながらも、どうしても気になってしまう。それは夢の中の家族のせいだろう。わたしが知っている人たちではまったくないのに、いやにリアルな質感があるのだ。それが、思い出す度に迫ってくる。

思い出さなければよい。ただの夢なんだから。うん、それはもっともだ。たぶん、あなたが正しい。それにこんな夢の中の家族は、実際は存在しない。しかし、最近見る夢、ほとんどがなぜか、東北のできごとだということを、天気予報やらナビやらで強調されている。


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