芽むしり仔撃ち・大江健三郎
大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」新潮文庫(2014年4月25日47刷改版•2023年4月5日53刷)を読んだ。小説は「夜更けに仲間の少年の二人が脱走したので、夜明けになっても僕らは出発しなかった」で始まる。猛々しい雨の翌日の朝遅く、僕らは、村人たちの視線の中で、連れ戻された仲間二人と再び顔を合わせた。脱走はまたも失敗だった。感化院の院児である僕らは、教官に引率され、集団疎開を受け入れてくれるところを探し求めていた。この旅は一週間で終わる予定のはずが、受け入れてくれる先がみつからず、すでに三週間が経っている。脱走した仲間により時間は遅れたが、最後の予定地である山奥の僻村に向かうため、僕らは再び出発した。洪水に流されかかった橋を渡り終え、隣の県からの広い鋪道に出たとき、予科練の兵隊たちの集団に出くわした。兵隊たちを束ねる憲兵と僕らの教官との会話から、兵隊の一人が森の中へ逃げたことを知る。そしてそこから僕らは、彼らのトラックに乗せてもらえることになった、鍛冶屋だという村の男も一緒に乗せて。予科練と村の人間が数日山狩りをしているが、逃走兵は見つからないと、鍛冶屋はいう。
そして、村への受け入れが決まり、教官は第二隊を護送するために帰ることになった。僕らは村長に連れられ、徒歩で山道を上っていった。村とつながる唯一の道であるトロッコに乗せられ、僕たちは到着した……。
ここまでがお話のあらすじのほんのさわりであるが、以上を書き出すのに、なんか異様に苦労した。そのわけのひとつに、第一章のっけから繰り広げられる圧倒的に濃厚な文体世界を読み理解するのに慣れることに、しばらく時間がかかったからだろう(それは、彼らの遅滞した出発なんかよりはだいぶ時間がかかったと威張りたいくらい!)。話の筋はおもしろいんだけど、この蜘蛛の巣に絡められるような険しい文章の道の先へ僕は果たして読み進んでいくことはできるのか、という不安な気持ちでいっぱい、だけど……
読むのが憂鬱になりかけていたが、「最初の小さな作業がぜんぜん小さな作業じゃないじゃんか!!」という驚きや、鍛冶屋の変化の不可解さあたりが、僕の読む気を引き立て後押ししてくれた。そうして次第次第に文体に慣れてきた。これほど事細かに情景を描写する文体であるのは、語り手である「僕」という少年期、その時期特有の豊かな感性での目に映るリアルさなのではないか、と思い当たった。で、この文章表現力の高さは、班長もつとめる少年の「僕」の頭が良いからだぞ、と感心もする(たとえば77ページ「僕らはわざわざ携帯品袋を置いておくことで自分たちの批評的位置を示し」なんかにもその一端が示されているよね)。そうしてみると、世に溢れる青春小説の文章表現などは薄っぺらくて軽くていかんなあ、なんて生意気なことを僕は思ったりするのだった。
さて。僕らを寛容にも受け入れてくれたかのごとき村だが、実はそこでは、疾病が広がっていた。村人たちは僕らを閉じ込めて、村の外へと逃げていく。大人のいない時間に僕ら少年は「自由の王国」を築き上げる。しかし、それもつかの間。やがて、村人たちが帰ってきて、僕らの王国は危機を迎える……
で、これ、何かに似てないか、と僕はふと思った……。それはあの、小学校なんかの突発的な自習の時間。先生たち大人の抗いがたい壁がなくなり、僕らはいっとき、自由を謳歌するかのようだ。しかし、それは儚き夢。そのうち先生が帰ってきて、そこでの行状が、大人の判断で裁かれる。先生が手離したその時間においては、先生は、最初から子供たちのことを信用などしていないものである。
そりゃあそこには、危険なトロッコも谷間の激しい水音もないけれど、ちょっと似ているなと……。
☆ 芽むしり仔撃ち・大江健三郎・講談社・1958年6月刊行。新潮文庫・1965年5月31日発行。2014年4月25日47刷改版新潮文庫)