【創作・ミステリ】三日月の夜のオンファス輝石が見た夢は 前編
蛇石というちょっとした観光地が、長野県は伊那への入り口にある辰野という地域にある。
伊集院光がラジオで蛇石を観光した話をしていて、聞いた私もいきたくなった。
たまたま、Kという大学時代の友人が辰野の中心部から少し北に行った小野という地域に里帰りしていたので、彼と旧交をあたためるつもりで、そこを訪ねた。
小野は、塩尻と伊那盆地を結ぶ街道の要所にある町で、今は寂れてしまっているけれど、かつては二ノ宮も置かれて、かなりの繁栄もみた地域であることが、郷土の石碑からわかる。旧小野家が本陣として機能したのも、そうした栄光の証である。
三つの地域が交わる「特異点」としての存在ということが今でも、郷土紹介に書かれているように、小野の魅力は、その地域性にある。それらを含めて、Kにあって、話を聞こうと考えていたのだ。
*
私は、上諏訪であずさを降りて、そこから鈍行で下諏訪、岡谷に行き、岡谷で乗り換えて辰野に行き、そこから小野へ向かって進んでいった。正直なところ、あずさで塩尻まで行って、小野へ行くのが本来は早い。けれど、私は、この「特異点」をめぐる複雑な路線が気に入っている。それでわざわざ、このような迂回をしてしまうのだ。
小野駅に降りた時には日も暮れていて、当時はまだスマホも普及する前だったから、いわゆるガラケーで、着いたことを知らせる一報をKに入れた。彼はすぐにやってきた。
「久しぶりですね。元気でしたか?」
「いやー、毎日大変で。のんびりしたところで、いいね。」
「最近は、木工品の人気もあって、なかなかのんびりできないんですよ」
「いいじゃないか、商売繁盛だ」
Kは、故郷に帰ったあと、小野や辰野、木曽平沢といった近隣でクラフトを営んでいる人々の製品を海外に伝えて、販売する仕事で生計を立てていた。そもそもは辰野の地主の息子なので、食べるには困らない。地元の有名な酒造の製品も海外に販売する経路を作ったことで、彼は周辺地域では顔になっている。
「蛇石、というところに行ってみたいんだけれど」
「特に面白いものでもないんですけどね」
「そういうつまらないものを面白く、という精神で今でも生きている」
「いやあ、相変わらずですね」
すでに夜は更けつつあったので、彼の家に一晩厄介になることにした。
酒を飲みながら、昔の話に興じた。
彼もまた文学青年を気取っていた時期がある。
私のように、いつまでもその幻想に囚われることなく、様々に転身を重ねて今に至るわけだけれど、その実、あの頃もっとも「文学」に近かったのはKの作品だったかもしれない。
「最近は、何か書いているの?」
「いやあ、今はさっぱり。本もあんまり読めなくなりましたね」
「そうか、まあ俺も老眼で、長い時間読めなくなったけど、まだ老け込む歳でもないだろ?」
「あの地震以後は、現実が文学のようなもので。いつまでもあの時間が続いていくと思っていたんですが、それもなかなか…」
Kらしくなく言葉が濁った。
Kは、もっと明晰ではっきりとモノを申す男だった。
読書会でも、思ったことを正直に言う方だったので、彼が出席すると、皆はちょっと緊張する、そのようなタイプだった。
「地震の時は、こっちにいたんだっけ」
「そうですね、被害は大したことはなかったですが、それなりに揺れました。むしろ、その数日後にガソリンが入ってこなかったことで、大騒ぎになりましたが。」
「そうだったね、どこも同じだったか。あの頃、俺は糸魚川にいたんだけれど、行列ができてたな。」
「糸魚川は揺れたんですか?」
「いや、テレビで状況を見ていたという感じだったな」
Kはふと遠くをみた。
そこに誰かがいるのかというくらい、焦点を合わせて、遠くをみていた。
私たちの過去が、映し出されていたのかもしれない。
Kと私は、あの頃、同じバイト先で働いていた。
彼が四つ後輩ではあったけれど、苦しい時期を一緒に乗り越えたという仲間意識があった。
その後、私は仕事で長野県と新潟県を行ったり来たりしていた。
Kも首都圏でしばらく働いていた後、私が新潟県の糸魚川地域に転出したころ、小野へと帰って来た。
「そういえば、Bという男がいたの、覚えてます?」
「B、B…あのネット配信で稼いでいたやつか?」
「そうです。B、亡くなったらしいですね。」
「早いな、Kと二つくらいしか、違わないだろ?」
「そうなんですよ。若いです。昔、あいつから、メールをもらったんです。長いやつ。久しぶりだったし、当時そこまで仲がいいわけでもなかったですしね。もっと仲がいいやつがいたはずなのに、なんで俺なんだろう、って。だから放置しちゃいまして。特に追信が来るわけでもなく、そのままにしてあります。」
「え、読んでないんだ。」
「読みません」
「なんで」
「なんか変な感じのことだったら嫌じゃないですか。久しぶりにくるメールなんて大抵ろくなことないですよ。」
「俺のメールだってそうだろ?蛇石、見にいきたいなんて口実かもしれないじゃないか」
「いやいや、Tさんにはお世話になってますし」
「Bのメール、残ってるの?」
「ずっと前の携帯電話のデータにあるかなあ?明日、ちょっと探してみます」
私たちは、その晩は、そのまま寝た。
*
翌日は晴れていた。
蛇石を見にいくには絶好の気候だった。
朝、Kが朝食を用意してくれて、顔を合わせると、古い携帯は、やっぱり見つからなかったですね、と申し訳なさそうに言われた。
私は、すでにBのことは忘れていたので、どうでもいいといえばどうでも良かった。
蛇石のことだけ、思っていた。
「じゃあ、蛇石に行こうよ」
「行きますか。」
蛇石は、辰野町にある横川渓谷沿いにある。
横川というと群馬県の松井田町にある横川を思い浮かべてしまうが、その横川ではない。
横川川という、最後の「川」はいらないんじゃないかと思われる川に沿って、道を南下していくと、キャンプ場の近くに、蛇石はあった。
特に、周辺には何かがあるわけではないので、期待していくと、がっかりされることも多い。
「結構、何もないんだな」
「いったじゃないですか、何もないって」
「石も、あんな背骨みたいな感じなのか」
「そうですね、それだけです」
蛇石を文学的に描写できたら最高なのだけれど、ただ、川に並行して横たわっているだけの石について何をいえばいいのか。
つまらないものを面白く、と啖呵を切ったはいいが、まったく面白くしようがない事態に、いささか落胆した。
せっかくだから、古田晁記念館でもみていくか。筑摩書房の古田の記念館が、小野にはあるのだ。
「がっかりしたでしょう?」
「顔に出てた?」
「いやいや誰もが思いますよ」
「そうかな、岩石や地層のことに詳しければ、面白くはあったと思うけど」
「お、これ!」
Kは石を拾い上げた。ヒスイのような色合いで、独特の線が見えた。
「地震以来、この辺りで、不思議な石が拾えるらしいんですよ。磨くと、蛇のような部分だけが残って、それだけを作っている人もいて、それが魔除けとしてある国では珍重されていて。でも、その石が出るポイントは絶対に教えてくれないんです。そして、その方はもういないので、聞けないんですけどね。」
「蛇紋岩かな?ほら、糸魚川では翡翠が拾えたりするじゃない。俺、糸魚川に一時期住んでいて、その時に、海岸線でいろんな石を拾った中に、蛇紋岩というのがあって。」
「そういえば、糸魚川はフォッサマグナの上半分の北の端、辰野は南の端ですもんね。」
「地震がさ、フォッサマグナを揺り動かして、何か不思議な地殻変動に至った、とも言えるのかもしれないな」
私とKは、蛇石を離れて、塩尻へ向かった。
彼が出資しているワイナリーで、先行試飲をさせてくれるというのだ。
私も酒は嫌いじゃないので、その提案に乗ることにした。
古田晁よりも、呑兵衛の意識を優先した。
昨日は日本酒、今日はワイン。贅沢な旅だと思った。
「この漢字読めます?」
「善知鳥峠?」
「正解です!」
「いや、難読系の知識で知ってた」
「なんだ。この善知鳥峠の奥に、その蛇石職人は住んでいたんですよ。急にいなくなっちゃったんですが。」
「急にいなくなるっていうのが、ちょっと興味が惹かれるな。何かミステリーでもあったのかな。」
「いや、自由人ですから、インスピレーションを求めて旅行でもしてるんでしょう。車もないし」
Kは少し、曇った顔をした。
何かを言いたそうな雰囲気だった。
二度も、急にいなくなる、という情報を繰り返しているのだから、もしかしたら何か含むところがあったのかもしれない。
聞いて良いものかどうか迷ったが、私も話のネタを持ち帰らないと、という職業倫理に突き動かされて、少しそこをつっこんでみることにした。
「蛇石職人の失踪と、善知鳥峠には何か因果関係はあるの?」
「失踪ではないでしょう。関連も別にないと思います。でも、善知鳥峠には面白い話がありますよ」
「へえ、聞いてみたいな」