キリストの涙

「おい、あのCM知ってるか?」
「どの?」
「横浜流星の」
「横浜流星?」
「違う、小林亜星だ」
「《星》しか、一致してないじゃないか」

俺とマサキは遊び仲間だった。
いつしか時は過ぎ、マサキはどこかの町の市議になった。
先生、と呼ばれる立場になっても、俺にとってはマサキはマサキだ。
高校最後の大会で、9回表にはじめての公式戦の守備につき、見事にトンネルして、大敗北を決定づけたマサキだ。

マサキが帰郷したとき、語らうのはいつもサイゼリヤだった。
理由は、安くて、美味くて、ワインが豊富にあるからだった。

マサキはサイゼリヤが好きだ。
特にエスカルゴが。
エスカルゴってかたつむりなんだぜ、と、意気揚々と述べたマサキの笑顔は、答弁が終わったときに浮かべるはにかんだ笑顔と同じだ。
とくにエスカルゴのあまり汁で、フォカッチャを何枚食べられるか、俺たちは競った。
オリーブオイルの中に様々なエキスが溶けだした余り汁は、何をつけても美味かった。ピザの耳のあまりをつけて食べ、フォカッチャをちぎってつけて食べ、つけ合わせにかけて食べ、それだけで俺たちは何時間も酒を飲み、そして語らった。

マサキが「鈴木さん」にフラれたとき、慰めたのもサイゼリアだった。
頼んだワインは「ラクリマクリスティ」。
「キリストの涙っていうらしいぜ」
「マジで」
「泣け、泣け」
マサキは「鈴木さん」を10年間想い続けた。
何度も、あの子はお前に気がないからやめとけ、と忠告したが、マサキは今付き合っている彼氏と上手く行っていないみたいだから、その次に自分が収まるのだ、と言ってきかなかった。
そもそも、一緒にバンドをしているという以外に共通項が思い浮かばなかった。
そして、第三者からみると、マサキはただのバンドメンバーに過ぎなかった。
マサキが「鈴木さん」に示す世話焼きも、それは他人が親切で行う行為と変わらなかった。
「鈴木さん」も、マサキを特別に扱うことはなかったし、ましてや好意を匂わせるどんな行動もとっていなかった。
マサキは、「鈴木さん」の私生活を俺以上に知っているわけではなかったし、「鈴木さん」もそれを懸念して、必要以上に自己開示しているわけではなかった。
そして「鈴木さん」には彼氏がおり、そのことをマサキに告げていたのである。
だから、マサキが振られたと言って、俺を呼び出してきたときも、それはマサキの内側で起こった現象だろうと思った。
案の定、「鈴木さん」は前の男と別れ、ほどなくして新しい男と結婚した。
その経緯は知らないが、マサキが間に割り込む余地はなかったはずだ。

「10年間、俺は何をやってきたんだろう」
「お前は、彼女に尽くしてきた、それでいいじゃないか」
「だって…」
「10年間、もし鈴木さんがいなかったとして、彼女ができる可能性はほとんどなかっただろう。
そのことを考えてみろ。
鈴木さんを愛し続けていて、幸せだっただろ?
いいか、男というものは手に入ってしまうと飽きてしまうものなのだ。
だから、いつまでも手に入らないものを追っかけている方が幸せなのだ。
もし、手に入れてみろ、鈴木さんがいつ自分の元から逃げてしまうか心配で、お前は夜も眠れなくなる。
そうだろ?
鈴木さんが幸せなら、それでいいじゃないか。
今の彼女の幸せよりも、お前が幸せにできる可能性はほとんどない。
得られるのはお前の自己満足だけだ。
むしろ、お前が身を引いたことで鈴木さんは最高の幸せを手に入れた。
それはお前が鈴木さんに送った最高の贈り物だ。
何ものにも代えがたい贈り物だ。
キリストは人々の身代わりになって十字架にかかった。
その涙を呑め。
そして、お前も再生して、また歩き出せばいいじゃないか」

マサキは単純である。
俺の適当なまくしたてを、素直に受け取った。

「で、小林亜星の歌が何だって?」
「パッとサイゼリア~♪」
「パッとさいでりあ~ だろ?ここは、サイゼリヤ!」

マサキはやっぱりズレていた。


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