【創作・歴史系】折れた旗 1
「足利勢を殲滅します」
南部師行は、主君である北畠顕家の下知を聞いて気の遠くなる思いがした。
南部一族はもともと山梨県南部、今は身延と呼ばれるあたりに覇を唱えていた御家人であった。しかし、釜無川と笛吹川が合流して出来る富士川沿いの土地は狭く、兄弟たちすべてに納得のいく所領が分け与えられるはずもなかった。
師行は鎌倉に兄・時長と、年の離れた弟・政長とともに攻め入ったことを思い出した。
生来、人にへつらうことが得意だった従兄弟の武行が執権を退きながらも隠然たる権力を持っていた北条高時に取り入り、すべての土地を安堵してもらえるように我らをたばかったことから始まった。武行は鎌倉住まいになったことをいいことに、高時側近のサロンともいえる場所へと出入りし、そこで、各国から集められる財と、それをもたらす力に魅了されてしまった。
兄・時長は、異論を呈したが、もはや開拓できる土地も少ないわが所領のこと。時流は、分割してすべての兄弟に土地を分け与えるよりも、相続の代表者が一括で相続して管理するほうが望ましい嫡子相続へと変わっていった。そもそもが、長男一族を得宗として優遇してきた、北条家の秩序意識、これに沿った権力移譲のかたちに武行はつけこんだのだ。
あらゆる御家人は土地をめぐる係争を抱えていた。兄弟間、従兄弟間、あらゆる肉親が相続権をめぐって不満を持つようになった。それは結局、嫡子とは誰がふさわしいのか、という理念の問題だ。誰でもいいならば、うまく立ち回って、その決定権を持つものに決めてもらえばいい、それが武行のやり方だった。
こうした嫡子という相続権の適格性をめぐる争いは、室町になると力でその権利を奪い取るという形に変化し、戦国の世が現れ、家康によって儒教倫理を元にした長幼の序の思想が最終的に決定することになる。曰く、年の上のものが嫡子である、と。しかし、鎌倉末期を生きる師行たちには、そんな未来のことは見通せなかった。
けれど、決定権があるものの理不尽さは理解できた。だから、兄・時長、師行、そして弟の政長は立ち上がったのだ。
思った以上に、鎌倉方の抵抗は強く、高時が本当に暗愚であれば、これほどまでの組織だった抵抗はできるはずがなかった。戦略的に、杜撰だったのは義貞の方だ。あれだけの軍勢を指揮しながら、狭い鎌倉一つ落とせなかった。逆にいえば、指揮の高い少ない精鋭が、統率の取れていない鈍重な大軍を打ち破ることも可能なはずである。
義貞殿に騙されたか、と師行は思ったが、それも己の人生だと割り切った。ただ、師行は転んでもただでは起きない性分だった。鎌倉は天然の要害、都市そのものが砦になっている。そして、それを攻めるにはどうしたらいいか、と野戦中心だった己の戦闘観を更新しようとした。
幕府を滅ぼしたあと、兄は義貞とともに南朝の柱となり、俺と弟は、京に出て、顕家様に仕えることで、一身を立てようとしてきた。そして、遠く、この陸奥で土地を掴むことが出来た。
しかし、北条家を滅ぼした以上、俺たちも残党から命を狙われることになったり、元は仲間だった足利勢と戦わねばならなくなったが、それはそれで人生だろう。人は、みな一人で生きて、一人で死ぬのだ。
「足利勢は足を止めると強い。けれど、速度で彼らを打ち破ります。又次郎、馬を用意してください」
又次郎は師行の通称である。師行が支配している糠部郡は良質な馬の産地で、それを使って軍を進めることで、進撃速度を早めるということなのだろう。相手の迎撃体制が整っていない状況で、そこに突入、混乱の中で、相手の主力を叩く。相対して戦う昔の戦闘観に対して、乱戦に持ち込み、その中で主力を叩く戦法を顕家殿はどこに学んだのだろう。
蒙古襲来の際に捕虜になった武将が、ある寺の僧となっており、そういったところから、学び得たのかもしれない。また、頑固に見える親房の親父殿は、案外海の向こうの事情に詳しいのかもしれない。いずれにしても、顕家殿の戦闘観は蒙古のそれに近い。
師行は、冬の寒さに凍える陸奥ではなく、関東の暖かさを思った。寒さの中で訓練する我が兵は、関東にいけばより力を出すだろう。なぜなら、ここよりは絶対に暖かいからだ。それだけで人は、強くなれるものだ。とにかく、鎌倉にいる直義の準備が整わないうちに、そこを襲う。それを顕家様も念頭においていることだろう。
「入道殿に連絡をとれ!」
師行は、顕家の館を辞したあと、すぐに命じた。
入道殿と呼ばれた伊達行朝は師行の盟友である。
もちろん、所領をめぐってのイザコザは絶えないが、それでも、こういったときには頼もしい。
入道殿と俺、どちらが随行するかわからないが、わが馬を任せられるのは入道殿しかいない。退却戦に優れ、しぶとい。
拠点を攻めるのが得意な俺と、守備に定評のある入道殿。今回は、俺がおそらくは討伐軍に参加するだろう。
とはいえ師行は、常に厭世的だった。死のうと生きようと構わない、そういう姿勢でいた。生まれたところを遠く離れて、生きるとは、その覚悟を持つことだと師行は思った。
(続く)