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「足下を疎かにしない」は「前向きに生きる」に繋がる
今朝『禅の言葉』を開いたら「照顧脚下(しょうこきゃっか)」の言葉が目に入りました。
雪の新潟では、前の日の水たまりや踏みつけられて固くなった雪が、凍ってしまうことがあります。
歩いている時、その上に足をおくと、するっと滑ってしまう。
足下をきちんと見て歩かないと、転倒して怪我をしてしまいます。
まさに「脚下照顧」です。
本では「照顧脚下」は、「脚下照顧」「看脚下(かんきゃっか)」と同義と記す。
本文では「前向きに生きなさい」「高い目標を掲げて生きましょう」ということは大切なことですが、「足下(あしもと)をおろそかにしていませんか」。「ふと立ち止まって自分の足下をみて見ましょう」と問いかける。
文章の後半部分で「禅では日常のすべてが修行であり、日常の中や身近な足下にこそ真理があると考えます」と説明しています。
「あしもと」には、同じような意味で「足下」と「足元」があります。調べてみたら、「足下」は足の真下。「足元」は「足下」より範囲が広いとありました。
私は、この場合の「足下」は、地に足をつけて生きること。すなわち「人の日常の生き方」を指していると思いました。
そう解釈すると、「しっかり地に足をつけて未来に向かって生きる」となり、「前向きに生きる」「高い目標を掲げて生きる」と「足下」が繋がります。
それが分かると誰かが「前向きに生きる」と言った場合でも、「足下」をしっかりと見ながら生きなさい、という意味も含まれ、「足下」をしっかり見なさいと言った場合でも「前向きに生きる」の意味も含まれることになります。
それが「禅では日常のすべてが修行である」という生き方ではないでしょうか。
写真 内宮 宇治橋