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友人曰く、今日一日をただ生きるのではなく「生き切る」
以前、前科者を雇う「職親プロジェクト」のことについては、少し触れました。
その活動を積極的に進めている私の知人は――自分が強度な覚醒剤中毒に陥ったときに「いつ死んでもおかしくなかった」ことが何度もあったことから――朝目が覚めると「今日も生きている。嬉しい」という感情が自然と湧いてくるそうです。
私もそんな思いで朝を迎えたいと思っているのですが、なかなかその感情は湧いてきません。
それでも最近は、朝カーテンを開け東の空を見ながら「嬉しい、有り難い」と声に出していると、それに近づいているような気持ちになっています。
でも、正直まだ「生きていて嬉しい」と心底から叫ぶようにはなっていません。
そんな話を別の友人に話をしたら、「私も朝目が覚めると、有り難い。何かのために生きよう」と思うそうです。
その知人は、もう一つ、朝思うことがあるそうです。
「今日も、誰かが幸せになるようにいきたい」と。
それを長く続けているためか、「なんかいいことがある」のだそうです。
いるんですね。こういう人が。
宗教家も学者もない人ですよ。
その友人とお付き合いをしていると、人との関わり方が非常に上手です。
例えば私なら、用件が終われば話はそれで終わりです。
でもその友人は、用件とは関係ない個人的なことまで自然に入り込んでいく。
それで縁がある人なら長続きし、縁がない人なら自然に離れていくのだそうです。
ここで紹介している二人はどちらも経営者です。
朝、生かされていることに喜びを感じ、一日をスタートさせる。
そして、今日一日をただ生きるのではなく「今日一日を生き切る」と言っています。
幸せになりたいと、何かにすがったり、スピリチュアル的なことに頼ったりしたくなるものですが、まず、自分自身がいま生かされていることに感謝する。
そんなことを、友人と話をしていて思いました。