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李登輝元総統の「私は私でない私である」はどんな意味

台湾の李登輝元総統は、書籍に署名を依頼されると座右の銘である「我是不是我的我」の言葉を添えていたそうです。
読みは「ウォシーブシーウォダウォ」で、日本語では「私は私でない私である」とのことです。
これを知って私は、私風に解釈してみました。
 
最初の「私」は、普段私達が言っている「私」で、肉体を持って個人として生きている「私」です。
2つ目の「私」は、最初の「私」ではないけれども、例えば夫であったり妻であったり、子供であったりする自分がいます。
また会社員であったり、国民であったり、何かの集団に属している「自分」もいます。
直接的に最初の「私」ではないけれども、もう1つ「私」と言える存在で生きています。それが「私でない私」です。
一言で「私」と言っても、いろんな関係や役割を持って「私」は生きているので、そうしたことを全てまとめて「私である」と私は理解しました。
 
「私は私でない私である」の言葉の凄いところは、自分は個人として生きているけど、それだけではない。多くの私でない私(自分に関係するすべての人々)と共に生きている。いや、そう思って「生きて行こう」という宣言だと感じることです。
 
私は「魂はある」と信じている人間なので、「私は私でない私である」を別な表現をすれば「私は魂を持った人間として、この世で精一杯生きる」となります。
よく、「人は何のために生まれてきたのか」という問いかけがあります。
その答えの1つが「私は私でない私である」に込められた「生き方」ではないかと私は思いました。
これは屁理屈ではなく、むしろ真実ではないかと思います。

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