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短編小説【夕餉の灯火〜見返り柳後日譚〜】
音羽は所謂”源氏名”である。当然ながら、本名がある。
本名は”つた”と言った。
吉佐は、年季の開けて市井で暮らすようになった音羽を”おつた”と呼んだ。
「おつた、オメェ何か食うあてでもあんのかい?」
新吉原の大門を抜け、弁天池で再会し、近くの飯屋で軽く祝の酒を共にして別れを言ってから既に二月ほど過ぎていた。
吉佐は、隠居先の両国から少し離れた深川に、おつたの借家を世話した。
この二月の間、吉佐は別に病気でもないのに殆ど日を開ける事なくこの深川に足を運んでおつたの様子を見に来た。
「旦那…遊女ともあれば三味を教えたり、髪結いなんかもできるんですよ?」
「しかし、なんだか気が揉んじまってなぁ…」
「そんなに心配しないでくださいまし。ほんの少し…猫の額ほどの蓄えもありますからね。しばらくはなんとかなりますよ。」
「そうかぃ…ところで、はりこは元気にしてるかい?猫の額で思い出しちまった…」
「旦那…はりこじゃなくて、とら吉ですよ」
はりこはおつたが借家に引き取った。
名前を知らなかったおつたは、知った時は妙な名前だと笑った。引き取ったついでに、名前を改めていたのである。
二人は歩きながら、隅田川の花火を
目指して話していたのだった。
花火を見上げ、喜ぶおつたの横顔が強面の吉佐の表情を柔らかくさせていた。
(…一体、いつぶりで…)
華やかな花火の咲く夜空を、見るとはなく見ながら、吉佐は色々と思いを巡らせていた。
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