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時代小説『ひなげしの雫』(伍)

第五回

子期の姓は「虞」である。呉が出身であった。父親は虞威と言う者だったが、野盗だった。ただ生来の野盗では無く、陳勝と呉広の乱に呼応して、春秋の英雄にかぶれて勢いでなったものだった。それまでは、秦の地方官吏をしていたが厳罰主義の秦の法制と己の無能さが故に秦を見限ると言う、なんとも日和見な父だった。
小さい頃から楚の項燕等の地元の英雄譚を聞いて育った。その熱の入り様は、時々は子期も呆れるほどでどちらかと言うと、虞威の方が夢中であった。
この野盗崩れの父は、己には才覚がないのにも拘わらずに英雄譚の英雄の気分で近くを通る商団や旅人を襲い、僅かばかりの利益を得ていた。
しかし、その内に誰も通らなくなると、食い詰めたので項梁の兵となったが、手柄を焦って突出し手下諸共討ち死にしてしまった。子期は、頼る者を無くし孤児となった。行く宛もなく、ただ彭城を漠然と目的地に定めて北へ向かった。
途中、暫く滞在した村落での事。寝ていると、火の手が上がっている事に気が付いて目が覚めた。飛び起きて、起居していた間借りの厩を出た所に壊れた井戸があったのでそこへ身を隠した。村人の悲鳴や盗賊達の怒声が聞こえる。子期は耳を塞いで、この場を凌ごうと思った。
翌朝、知らない内に眠ってしまっていた子期は自分自身の迂闊さを呪った。しかし、辺りは静けさを取り戻しているようだったので警戒しながらも井戸から這い出てみると、村は全滅していた。野盗も何人か倒れている。
子期は凄惨な光景の村を歩き回った。だが、生きている村人は見つける事が出来なかった。
(厩に戻ろう…)
子期は荷物を取りに厩へ向かっている途中で、倒れていた野盗が息を吹き返して子期の足首を掴んできた。肝を冷やした子期はそのまま転んでしまったが、その掴んだ手が村人のものであってほしいという期待は一瞬にして失望に変わった。

「た…助けて…くれ」

絶え絶えの野盗は、聞こえるか聞こえないか位の声でそう訴えかけてきた。
子期にはその野盗が父に見えた。子期は父が野盗である事を恥じてきた。憎んでもいたのである。
子期は、落ちている呉鉤(青龍刀の様な刀)を拾い、父への憎しみと決別の為その野盗にとどめを刺した。
子期は初めて人を殺めた背徳感と疲労からか、よろめき、尻もちをつくようにへたり込んでしまった。
手にしていた刀は野盗の背中に刺さったまま立っている。それは、父の墓標でもあるかのようだった。息を整え上半身を起こした。ぼんやり、野盗の方を見るとは無く見ていると、楚の兵達がやってきた。人数は多くは無かったが明らかに統率が取れている様子は、素人の子期にも分かった。

「そこの少年。ここで何があった?」

声をかけてきたのはその一団の指揮を執る陳平だった。子期は旅の途中で立ち寄った事や、野盗に襲われて村が壊滅した事。自身は身を潜めていたので見つからなかった事や目の前に斃れている野盗へ、とどめを刺した経緯を伝えた。

「ほぅ…。それは…幸運だった。我らがもう少し早く着いていれば、或いは村人達も助かったかもしれぬ…な」

子期は、これ以上の面倒事に関わりたくは無かったので今、持ち合わせのある体力と気力を振り絞って極力愛想を良くし、その時作る事の出来たやっとの笑顔で陳平に答えた。

「あまりお気にしないでください。今や、この村でのような事は多く、悪いのは野盗の方ですから…」

陳平は、子期の疲労感や事を荒立てたく無い心境を読み取っていた。そして、何よりの気遣いに、
(見どころがある…)
と、思った。

「そうだな…。確かにこの手の野盗達の活動は、この村ばかりでは無いな。今後は更に気をつけるとしよう。…して、少年。旅の途中と言う事だが、何処へ向かっているのだ?」
「何処と言うわけではありませんが、身寄りの無い僕ですので、取りあえずは彭城へ向かおうかと…」

子期は簡単に説明を続けたが、父が野盗であった事や項梁の麾下にいて戦死した事等は伏せた。野盗にとどめを刺した時に、父親とは決別した。故に、父の姓を名乗るのもやめた。

「どうだ?私達も彭城へ向かうところだが、良ければ君を食客にしたいと思っている…私の所へ来ないか?」
「え?」

全く予想だにしていなかった言葉に、疲労感とは違った、呆然としてしまった子期は話す事も忘れ、しばらく陳平を見ていた。

「いや、驚く事は無い。私は君の様に見所のある若者が好きなのだ。まぁ、今は下級の役職だが、今に天下の宰相になるつもりだ。私の元で働いてはみないか?」

子期にとっては渡りに船の話である。我を取り戻した子期は、頷きながら承諾の返事をした。

「そうか。良かった。私は陳平と言う。君の名は?」

陳平は歩み寄りながら、子期に近づくと手を差し出した。子期もその手を取り立ち上がると、

「僕は…子期です。ただの子期です。姓は捨てましたので、子期とお呼びください」
それ以来、子期は珍平の食客となったが実際には年若い為、保護されていたと言うのが実態であった。
虞姫と言う陳平の策に協力する女性に仕える話を聞いていた子期は、再び虞の姓を名乗るの事になるのではないかと少し暗鬱な気分になっていた。大志…と言った大仰なものも持ち合わせてはいないものの、父と同姓を名乗るのには抵抗がある。
しかし、先程見せた虞姫の笑顔はそんな子期のこだわりを氷解させるに余りあった。
(元から…拾われた命。陳平様へのご恩もあるけど、この方の為に身命を捧げるのも良いかもしれない)
それまで、何となく仰せつかった使命だった感があったが、可憐で儚げであるこの虞姫という人を守っていく。そんな純粋で愚直な想が芽生えていた。

いたわりながら虞姫を邸内に移すと子期は甲斐甲斐しく世話を焼いた。流石に着替えまでは手伝うことは憚られたが、食事や移動の世話を気づく範囲でこなしていく。これには少し虞姫も恐縮して、

「そんなに一生懸命にならなくても平気よ?少し休んで」

と、言ったくらいだった。

「それでは…」と自室に引き下がろうとした時、何者かの気配を感じ取った。子期はすかさず近くにあった棒っ切れを手に取ると、虞姫を背に守る姿勢で辺りを警戒した。

「どうしたの?」

虞姫には感じる事が出来ないらしく、突然の事に驚いているようだった。

「いえ…何者か…数名の気配を感じます。近頃まで空き家だったこの家をねぐらに使っている者共かもしれません。ご用心を…」

虞姫は愛想の良い、出会って間もないせいもあり、少年らしい子期の顔しか知らない。これまでの道のりは子期を逞しくもし、旅で得た護身の術が染み付いていた子期であったので、「守る」と決めた以上は相討ちを覚悟でこの足を挫いた、美しい人を守らなくては父にも劣ると、自分を奮い立たせていた。
(三人…入り込んでいるな…)
じりじりとひりつく感じは、旅の途中で何度も経験してきた。しかし、向こうは一気に襲い掛かってくる感じがしない。様子を見ているように、徐々に間を詰めてきているようだ。
殺気…と言うまでのものは感じない。殺す気ならとうに襲ってきている筈である。
(…なるほど…)
思い当たることがあった。しかしながら、それを実際に目にするまでは気の抜けない様に更に戒めた。
虞姫は怯える風でもなく、ただ薄く微笑を漂わせ子期の武芸に身を任せていた。
(何かあっても…子期に無理なら私にも無理なんだし)
虞姫は諦めの境地というよりは、どこか達観していたのかもしれない。子期が察した侵入者の目的や人数等は気にもしなかった。
あるのはこの時代。生きるのか死ぬのかだけである。

子期は相変わらず警戒をしながらも、姿を現さない侵入者の動向を警戒していたが、何か確信して構えを解いた。

「お戯れを…どうぞ姿を見せて下さい」

一呼吸おいた後、入り口の戸が開く。現れたのは陳平であった。

「子期。やるではないか。この様な武芸の心得があるとは知らなかったぞ」

そう言いながら部屋の中に入ってきた。
子期は主人である陳平に傅こうとしたが、それを遮った。

「子期。心掛けは嬉しいが、今やお前の主人は虞姫である。私に臣従の礼は不要だ」

それを聞いて、子期は沈みかけた姿勢を戻し立礼にて会釈した。

「うむ…それで良い。すみませんでしたね、虞姫。驚かせてしまいましたか?」

冷静な様子の虞姫に内心、感心しつつ陳平は尋ねた。

「いえ。特に驚きはしませんでしたが、子期が勇敢なのには驚きました」

ニコリと答えた虞姫は、労いの眼差しを子期に向けると、子期は少し照れた様にはにかんだ笑顔を見せた。その表情は勇士から少年に戻っていた。
続けて虞姫は、陳平の来訪の理由を尋ねた。

「実は、虞姫が一人で屋敷を出掛けた辺りから、密偵を貼り付けておりました。私のような策士は、己の企図した計画が狂うのを嫌います。ですので、これは策士としての習性ですのでご容赦を…」

軽く頭を下げた陳平だった。確かに陳平は未だに下級の軍属であるが、庶民の虞姫や子期にも隔てない態度を取り続けていた。この時代特別偉くなくても尊大な態度の者がままいる中、慎ましい態度を取る者は珍しかった。
(こういう態度が、この人を信じるきっかけになったんだわ…)
虞姫も陳平と言う、謎の人物の策に乗ったのは何も叔父の家から出たいが為だけではなかった。この陳平の物腰の柔らかなところが信用に足る、と判断したのである。勿論、虚勢であるかもしれないその態度は、全幅の信頼までは寄せられずに、普通の人間よりも数段信用できると言った程度である。

陳平の話によると、項羽と会った後、どの様な話があったのか、何が変わって今後どうすべきかを考える材料が欲しいとの事だった。
虞姫は頷いて、これ迄の成り行きを陳平に話し始めた。感じた事も織り交ぜながらに。
陳平は当初は、虞姫を項羽の愛妾となる様に仕向けるべく画策していた。項羽と面会させて、興味が虞姫に向くようにと、そう考えていたのだが何の奇縁か、虞姫はそうした常套的な会談の手順を悠然たる運命で切り拓いてしまった。しかも、愛妾と言う立場ではなかったが、項羽の義理の妹としてその愛情を注がれる事になったのは僥倖だったし、それと同時に陳平は驚嘆もした。
(しかし…これほどまでとは)
虞姫をあの群衆の中で見つけた自らの直感にも似た感覚。それが間違では無かったと、少しはその直感に懐疑的でもあったが今は確信を得ることができた。
(虞姫を西施か…或いは、褒姒にと思っていたが、自分で辿り着いてしまうとは…天晴な娘だ)
陳平は口にこそ出す事は無かったが、今日の出来事に満足していた。

「子期も、項羽将軍にはまさか使用人とは言えませんでしたので、一族の者と偽りました。咄嗟の事でしたが、将軍も弟の様に思うと言ってくださいましたよ」
「それは重畳…良かったな、子期」

子期に目をやると、恐れ入った顔をしているので少し微笑んだ陳平であった。

「項羽将軍は明日の朝、使いをよこすと…そうおっしゃいましたが私はご自分で参られる気がしております。明日より、項羽将軍と一緒に暮らすのですね…何か色んな事が一度に起きて、私も目が回りそうな一日でしたが…でも、何だか充実していました」

虞姫はそう言いながら、また少女の無邪気が顔を覗かせようとするのを感じた。

「りん…」

胸の内で鈴を鳴らすと、虞姫はこれからの暮らしが楽しみだとも思った。叔父から離れて、たった一日の間に出会いが沢山あった。そして、何よりも大きな運命に出会った。それは少女を女に変えるには十分なきっかけとなり得たか、虞姫には分からなかったが彼女自身にとってはそれで満足の行く理由であった。

「それで、陳平様のご希望は項羽将軍の判断を惑わせるように仕向けることでしたね?」

それを聞いた陳平は少し考え始めた。

「…そうですね。確かにそうは申しましたが…虞姫…申し訳ございませんが、ほんの僅かで構いません。考える時間を頂きたい…」

陳平は答えると、部屋の中をゆっくりと徘徊し始めた。

(続く)


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