【エッセイ】美術論、そしてしょっぱい美術展

大学時代、教養学部の総合科目で、「美術論」という講義を聴講していました。

印象派のモネの絵画は、それまで価値のあるとされた、宗教的な人物像なりエピソードなりを描いた伝統的宗教画から解放され、空や光や水面や雲や睡蓮といった、自然や環境の織り成す風景を生き生きと描いた作家であり、積藁や、ルーアン大聖堂などの連作によって、一つの対象が刻々と光と影により変化していく様を絵画で表現したといったことを、美術批評の先生が、講義で淡々と話されていました。

ただの美術史ではなく、絵画の視方や、その奥にある思想を語るといった講義でした。絵画を規定する額縁と、絵画の対象の関係は、まさに額縁が、鑑賞者のいる世界と絵画の世界とをつなぐ窓であり、画家の視座でもあると習った記憶があります。静物画のコンポジションというものは、例えば、りんごや洋ナシを盛った皿では、重なりあって構成されているが、その重なりによって描かれていない部分の存在こそが、絵画を引き立たせているといった話や、対象は背景によって成り立ち、むしろ絵画のコンテクストに注意を払うべきだといった、田舎の高校から出てきた私には聞いたことのない話で、とても面白い講義で楽しみだったことを思い出します。

講義に感銘を受けて、絵画を観ることも、高校まであまり経験がなかったこともあり、美術館にも実際に足を運んだりもしました。先生のいっていた、絵画は遠くからみると、全体の構成がわかり、間近でみると、絵具の塊と、画家の荒々しい筆跡や、精緻な点描の点だけであり、それは、感情まで伝わってくるものでもあり、両方ともが絵画の真実であるので、近寄ったり、遠ざかったり、じっくりと鑑賞しなさいと言われていました。そのとおりに、近寄ったり、遠ざかったりして随分とじっくり眺めていたと思います。




さて、ちょうど同時期に、渋谷の街を歩いていて、若い女性が、「絵画展をやっています。無料ですし、よかったら見に行きませんか。」と、声をかけてきました。授業で受けて興味をもっていたし、どんな絵が見れるのだろうと、何の疑いもなく、女性についていきました。ビルのエスカレーターで降りて行くと、ギャラリーがあり、大きな絵がいくつも展示しています。

「どんな絵がお好きなんですか」と女性が質問してくるので、私が「印象派の絵画とか好きですね」と答えると、女性は話を続けます。「そうなんですね、今日は現代絵画の展覧会で、世界的な作家の作品なんですよ。この作品は、世界で各賞を受賞したんですよ。」と一枚の大きな絵の前に、案内されました。カラフルな色がちりばめられていている絵画です。

「この絵画の価値がわかりますか。実はここだけの話ですが、うん百万円するんですよ。すごいと思いませんか。でも、あなたはとても絵画がお好きで、名画を鑑賞する眼があります。今日は、あなただけに特別にうん十万円でお譲りしたいんです。ここだけの話ですよ。すごくお得だと思いませんか。」

いくら絵画が好きでも、貧乏学生にそんなお金もないし、女性の話も筋が通ってないし、絵画展でもなく、これは何かの詐欺まがいの商法だと気づいたのですが、のこのこついてきたのがまずかったと思いました。

「素敵な絵だと思います。ただ、まだ学生で、お金もないので、ちょっと買うのは難しいです。」

「お金はありませんか。ローンを組んでも買う価値はありますよ。資産としてお持ちになったら、値上がり益も十分期待できますよ。今、お金がないとしても、買い時ですよ。」

「あの、私の部屋は六畳一間のボロアパートなんです。こんな壁一面の絵画は、そもそも部屋に入りませんよ。」

「アパートを引っ越して絵が入る部屋をお借りになったらどうですか。そこまでしても買う価値は絶対にありますよ。私が断言します。」

なんだかこれはとんでもないことになってきたなと思いました。女性はいくら言っても、食い下がってきて、このような押し問答が数十分続いて、最後は、「もう勘弁してください。」と無理やり、私は走り出してエスカレーターを走って登って逃げるように帰りました。ちらっと見ると、女性は私を睨みつけていました。とっても怖かったです。




もちろん、大学の美術論の講義や、美術館での名画と対峙する経験は、私の人生を豊かにしてくれました。大人になって、パリのオランジェリー美術館で、壁一面のモネの睡蓮を目の当たりにして、大感激したものです。いつかまた、フランスを訪れたら、モネが晩年を過ごしたジベルニーという村にも訪れたいとも思います。

ここでは、ちょっとしょっぱい思い出もおまけでついてきたというお話でした。

(おしまい)
#エッセイ #美術論 #モネ #美術展  


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