【エッセイ】カップ麺と自由

カップ麺は、如何に精巧に製造されていても、例えば有名店の監修であったにせよ、本物の店とは似て非なる麺であり、店では決して供されることのないという事実。そこに存在するのは、「店で供されることのない麺」と「店で供される麺」との間に横たわる埋めがたい断絶。この単純な事実を、私たちはまず謙虚に受け止める態度が必要だと思います。


その上で、その断絶を、私たちは本物の麺と比べてどうかなどといった論評や批評の類の野蛮な行為に陥ることなく、むしろ、軽快さと、幾分の驚きと感性で愉しむことに集中することが、カップ麺を巡るしなやかな知の運動であり、私たちに求められるディーセンシーに他ならないのです。


カップ麺のフタを半分まで開き、粉末の調味料とカヤクを万遍なくふりかけ、沸騰した湯を高らかに注ぎ込む躍動感。カップの内側のラインぎりぎりまで沸騰した湯を注いで素早くフタを閉め、液体スープともうひとつの主役である具材をフタの上にのせて、じっくりと温める間は、ただ食べたいという早まる衝動を抑えること一点のみに収斂する意識。フタを開く時間は、3分以上であっても、それ以下であっても上手くはならず、この自律的な規律こそが、実はカップ麺の最大のスパイスだということを暴き立てる快樂。


3分経ったら素早くフタをあけ、液体スープを注ぎ込み、麺とスープをしなやかに絡め、温めた具材を麺の上に盛り付けて完成です。あとは好みで自由に食べればよいのです。よいのですが、3分という厳密な時間があったからこそ、この自由を謳歌できるという経験は、実は自由を規定する概念そのものであることに、私たちは改めて遭遇することになるのです。


さあ、召し上がれ。

(おしまい)

#エッセイ #カップラーメン #評論 #自由

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