見出し画像

カリフォルニアに眠る私のひぃばぁちゃん

アメリカに嫁に行った曽祖母



会ったことはないが、私が一番会ってみたい人は曾祖母ゆきである。
その彼女は現在サンディエゴにて永遠の眠りについている。

遠いアメリカになんでも親戚がいるらしい。それは私が小学生の頃に母親から聞いた。だが、実際に私がゆきの形跡を追う事になるのは、何年も経って大人になってからだった。

日本に残した二人の子供


戦後、私の曾祖母ゆきはカリフォルニア州サンディエゴのアメリカ人軍人と再婚した。戦後の混乱の中で、同居していた元旦那の母に無理やり家を追い出され、強制的に離婚させられた。ゆきは子供を取り上げられ、絶望に打ちひしがれた。しかし、ゆきは当時戦後の複雑な状況の中では、故郷の田舎に帰って働くしかなかった。その悲しみの中、再婚相手となるネイティブアメリカンがルーツのエルと出会った。

ゆきは当時、日本人旦那との間に設けた二人の子供がいて、そのうちの一人は私の祖母いよにあたる。ゆきがいよに最後のお別れをしに会いに行ったとき、いよは「自分もアメリカに連れてってくれ」と母親ゆきに懇願した。しかし、様々な事情があってアメリカにいよといよの弟を連れていくこはできなかったのだ。泣き叫ぶいよは木に縛り付けられて、母ゆきとお別れをしなくてはいけなかった。いよは今でもその場面は忘れらないと語る。

大正生まれ女子アメリカでのすごいところ


ゆきは渡米後、アメリカ人旦那エルとの間に、五人の子供を授かった。しかし悲しいことに、エルはゆきとの再婚後すぐ亡くなってしまったため、ゆきは一人で子供たち5人を育てなくてはいけなくなった。だが、彼女は日本に帰っても帰る場所がない。

ゆきはアメリカで生きていく覚悟を決めた。

第一に、子供たちに日本語を一切教えなかった。そして、サンディエゴのカレッジに通った。そして、美術専攻で主席で卒業している。さらに、学校と子育ての傍ら、メキシカンレストランで皿洗いの仕事して子供たちを育てた。

ゆきが話す英語は、ものすごい訛りの日本語をそのまま片言の英語にしたような感じだったらしく、ゆきの子供たちも含めて、聞く方は非常に集中しないとゆきの言葉を理解できなかったらしい。

ひぃばあちゃんを追いかける方法


ゆきは私が生まれた年に亡くなった。ゆきの日本の家族とアメリカの家族は長い間、お互いに消息不明・音信普通になってしまっていた。

ゆきのアメリカの家族の一人を見つけたのは、今から約20年前の私の誕生日だった。私はその頃にはどうしてもアメリカにいると思われる家族に会ってみたいと思うようになっていた。しかし、誰を見つければ良いのか、名前も苗字も知らない。

・・・とりあえず、一冊残っていた写真アルバムに記載されていた名前と、ゆきの再婚後の苗字を何パターンも組み合わせて、何千人もfacebookから一通一通メッセージを送った。おそらく5000人くらいには送ったのではないか。

すると、ある日ゆきの息子の娘であるというケリーという女性から「私はあなたが探している家族の一人だと思います!」と返信があった。

・・・こんなにうれしい誕生日プレゼントが後にも先にもあったであろうか?

そして、その後、日本で初めて日本とアメリカの家族同士が再会することになる。とくに、いよと父親が異なる弟のマイクとは、お互いに言葉は通じないが、涙しながら語りあっていたその姿に私も涙した。マイクが「お母さんをあなたから奪ってごめんなさい」といよに言っていた姿は何とも言葉にできない。

心霊現象的なありがとう


長い間、誰もゆきのサンディエゴのお墓を訪れることはなかった。私が日本からの家族として数十年ぶりにゆきの墓参りをしたときのこと。風もないのに、ゆきのお墓の上の松ぼっくりの実が私の足元に落ちてきた。その同時刻、私が帰国後祖母いよから聞いた話によると、なんといよの家の何年も触っていないオルゴールが勝手に鳴り出したというのだ。その鳴りやまないオルゴールを聞きながら、ゆきが来たのかなと感じていたと言う。きっとゆきは、曾孫の私が墓参りに来てくれて嬉しかったことを伝えたかったのだと私といよは信じている。

真の居場所「日本」を見つける


ゆきの息子のマイクは、家が貧乏だったことからかなり苦労した人生を歩んだ。兄弟仲も悪く、家族はバラバラだった。マイクの父親エルは、ネイティブアメリカンの子孫であったこともあり、マイクの見た目はほとんどアジア人だった。そのため、よくいじめられた。なぜかいつも自分の居場所はここ(アメリカ)ではないと感じながら育った。彼自身が初めて日本に来た時は50代であったが、「自分の居場所はここだったのだ!」と肌で感じたという。それ以来マイクは、サンディエゴさえ離れたことがないくらい旅行嫌いだったのに、今では日本へ毎年のように一人で来るようになった。

日本とアメリカにある財産


ゆきが二人の子供を日本に置いて行ったのは悲しい事実。その残された子供たちが日本で相当な苦労をしたこと、同様に、アメリカのゆきとその子供たちが戦後のアメリカで血のにじむような努力をしたのも事実。しかし、様々な現実を乗り越えて、ゆきの家族がそれぞれ日本とアメリカにいて、今繋がっていることはゆきが残してくれた素晴らしい財産である。

ゆきの大事な宝物たちを再び結び付けるために、英語を学ぶことが私が生まれたミッションの一つだったのかなと今では思っています。

ひぃばぁちゃん、サンディエゴまでまた会いに行くね。待っててね。


いいなと思ったら応援しよう!