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朝ドラ あぐり


朝ドラ「あぐり」のモデルは誰ですか? サブメニューを表示 新人の田中美里が演じるヒロイン・望月あぐり(役名)と狂言師の野村萬斎扮する夫・エイスケの個性的な魅力が人気を呼んだ「あぐり」は、1997(平成9)年に放送。 作家・吉行淳之介、理恵、女優・和子の母、吉行あぐりがモデルとなった。 ドラマの原作は、自身の半生をつづった著書『桃梅が実るとき』。

『あぐり』は、1997年(平成9年)4月7日から10月4日まで放送されたNHK『連続テレビ小説』の第56作。主演は田中美里。

原作
吉行あぐり「梅桃が実るとき」
出演者
田中美里
野村萬斎
高嶋政伸
山田純大
馬渕英里何
野村宏伸
磯野貴理子
若林久弥
苅谷俊介
梅沢昌代
山田邦子
森本レオ
菅井きん
松原智恵子
田村亮
名取裕子
草笛光子
星由里子
吉行和子
里見浩太朗
ナレーター
堀尾正明
音楽
岩代太郎
時代設定
明治40年 - 昭和29年
主要な舞台は、岡山県岡山市と東京都(市ヶ谷)と山梨県。
あらすじ

1907年(明治40年)7月10日、岡山に生まれたあぐりはお転婆な少女。だが姉2人と父親を相次いでスペインかぜで亡くし、母親は遺産を騙し取られて困窮する。そんな中、岡山でも指折りの土木請負業の望月家との縁談が持ち上がる。1923年(大正12年)4月、あぐりは女学校在学のまま15歳で望月エイスケに嫁ぐ。

東京帰りのエイスケは家業そっちのけで、遊びや小説の執筆に熱中していた。当初反発していたあぐりだが、やがてエイスケの心優しさに惹かれていく。作家への夢を断ち切れないエイスケは東京に出奔。まもなく関東大震災が起き、エイスケは消息不明になる。あぐりは妊娠が判明。その後、エイスケは無事だったが帰郷を拒否。しかし正月にこっそり岡山に戻ってきたエイスケに会ったあぐりは産気づき、長男・淳之介を出産する。

家族そろって過ごしたのもつかのま、エイスケは再び上京。父親の健太郎は仕送りを止め、あぐりを上京させる。1925年(大正14年)2月、上京したあぐりはエイスケの家を見つけるが、小説を書くエイスケは岡山に帰ろうとせず、あぐりの仕送りを持って出奔。あぐりは上原世津子がマダムを務める「カフェ・セ・ラ・ヴィ」で美容師のチェリー山岡に出会い、美容師になることを決意。4月、上京してきた姑の光代に淳之介を預け、住み込みの内弟子になる。

エイスケは世津子が創刊した婦人雑誌『婦人現代』に協力。あぐりは、チェリーの娘で反抗的な真知子や先輩弟子とのトラブルに巻き込まれながらも美容師修行に励む。エイスケの弟・勇造は自動車技師の夢をあきらめ、望月組の跡取りになる。チェリーのはからいで、あぐりは3年の内弟子を2年で切り上げて通いの弟子となり、子育てと仕事を両立することになる。舅の健太郎は、あぐりの美容師修行に反対していたが、肋膜炎で倒れるほど仕事熱心なあぐりに感心し、独立を勧める。

1929年(昭和4年)、健太郎の援助や周囲の協力であぐりは『あぐり美容院』を建築。店員に辰子、内弟子にとめ、沢子を迎え8月に開店する。当時まだ珍しかった電気パーマネント機を導入し、店は繁盛。二号店も出店する。エイスケも作家として売れっ子になるが、家に寄り付かない日々が続く。

1934年(昭和9年)12月、あぐりの母・美佐が病死。あぐりは翌年の夏、長女・和子を出産する。自由な思想に対するしめつけが始まり、森 潤、世津子が特高に追われて姿を消す。耐えきれなくなったエイスケは筆を折る。日中戦争が長引く中、贅沢を控える風潮が広まる。1938年(昭和13年)、東京の美容室にはパーマネント自粛令が出され、あぐりの美容室もたびたび嫌がらせを受けるようになる。エイスケは株式投資で成功し、自動車や別荘を購入する。1939年(昭和14年)7月8日、あぐりは次女・理恵を出産。翌年の1940年(昭和15年)7月9日、エイスケは療養所の和子を見舞ったあと、狭心症で急死する。悲しむあぐりの前に女流画家の緑川靖子があらわれる。エイスケの子を宿した靖子はパリに旅立つ。

1943年(昭和18年)、金属類回収令であぐり美容室のパーマネント機が供出。1944年(昭和19年)、静岡の高等学校を退学しようとした淳之介は岡山で徴兵され出征するが、体調を崩し喘息の診断で即日帰郷となる。1945年(昭和20年)、建物疎開であぐり美容室は取り壊される。5月25日の空襲で望月家も全焼。一家はとめの実家の山梨に疎開し、終戦を迎える。

1946年(昭和21年)、あぐりはとめ夫妻のブドウ農園を手伝いながら光代を介護していたが、美容院を再開したチェリーの手紙で上京。美容師の教員となるが、周囲の励ましで再び美容院を開店する。

1948年(昭和23年)秋、あぐりは沢田から美容院チェーンの経営に誘われる。岡山では舅の健太郎が病死。その後あぐりは新聞記者の林 晃と再婚。全国チェーンの「ビューティーサロン 光美堂」の副社長となり支店を増やしていく。子供たちがそれぞれ進路を決めていくなか、あぐりはますます多忙を極める。二十店舗達成パーティのあと、挿絵画家になっていた林は絵の勉強のためフランスに行きたいと打ち明け、ある朝旅立つ。あぐりも自分の本当の夢に気付き、光美堂を辞職する。

1955年(昭和30年)5月、あぐりは自分ひとりでひとりの客を相手する小さな美容院「あぐり美容院」を開店する。これがあぐりのたどりついた夢だった。


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