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東京という名の戦場

先日大学の友人と会った際、彼からこんな話があった。
実は1ヶ月ほど前から精神的な理由で仕事を休んでいて、来月には仕事を辞め東京を離れ実家に戻るとのこと。

友人が遠くに行ってしまう寂しさは当然ながら、それとは違った寂しさを覚えた。


僕自身、地方の田舎から大学入学のため上京し、気づけば早いもので15年近くが経った。人生の半分近くを東京で過ごしていることになる。

「東京はゴミゴミしていて通勤の満員電車では皆がイライラしていて、全体的に血が通っていない感じがする。」と地方に住んでいる人は東京のこと揶揄する。確かにどれもそうだ。

ただ、これだけ地方から人が集まるのには理由があるわけで、魅力である側面にも目を向ける必要がある。

僕が感じている東京の魅力は、「選択肢の幅の広さ」だ。

1番分かりやすいところだと、職業の選択の幅だろう。
それだけじゃない。飲食店は都内に15万店舗あるし、電車で数分移動しただけでガラッと街の雰囲気が変わり遊びに行く場所も多い。子供の教育なんかに関しても選択肢が多く、国内のほとんどの都道府県にも新幹線なり飛行機なりで一本で繋がる。

選択肢が多いと飽きがこない。

しかし、その選択肢の幅の広さは良い面だけでなく残酷な面も持ち合わせている。
どうしても他人との比較を生みやすくなる性質があると思っている。

「彼はとても贅沢な生活をしている、彼女はいつもキラキラしている、僕なんて、私なんて、、」

よく語られるSNSの弊害のそれと似ているかもしれない。

「発展途上国の子供達は貧しいのにみんな笑顔で幸せそうだった」なんて話があるが、スラム街に住んでいる人は普段触れ合う人は皆スラム街の人であって、自分の置かれている状況は周りと同じでそれがスタンダードなのだ。モノにありふれてる人が彼らを見て貧しいと相対的に勝手に感じているだけに過ぎないことも多い。

一方、東京(日本)は社会保障がしっかりしているが故に同じ空間、同じ箱の中に裕福な人も貧しい人も混在する機会が多く、残酷にも身近で「違い」を見せつけられてしまう。

つまるところ、選択肢の幅の広さは自由度がある一方でその自由度が心の豊かさを虫喰む存在になり得る可能性があるのではないか。


話は戻るが、彼が実家に帰ると聞いて感じはのは、同胞を失う寂しさだ。

彼も僕と同じように、18歳の頃、右も左も分からず知り合いも居ないこの大都市にやってきて、そこからコミュニティーを作り、やがて社会に出て最低限の衣食住に必要なお金を自分で稼ぐようになった。

順風満帆な社会人生活を過ごしていたら「実家」が側にない、というのは大したことないと感じるかもしれない。ただ、もし人生立ち止まる時間を作りたいと思った時、実家が側にないと逃げ場がないのである。

社会人になって年数が経つと年収もそれなりに増え、人によるが一人暮らしといえど家賃はそれなりの金額になるだろう。
それに息をするだけでも腹は減るので食費がかかり、光熱費、通信費、移動費、稼ぎがなくてもそれなりにお金がかかる。

日々の支出を抑えようにも一度上げてしまった生活水準を下げることはなかなか難しい。それまで出来ていたことが出来なくなることは想像以上に精神的ストレスがかかる。

これが実家にいれば生活のクオリティーを大きく下げることなく日々の支出をかなり圧縮することができる。
下手したら掃除洗濯3度の食事をすべて親が世話してくれることもあるだろう。最高の休息場だ。

お金の面だけではない。
自分のことを理解してくれる存在が家にいる、というのは辛い時こそとても大きい。

そういったこともあり、地方の田舎からやってきて逃げ場のないこの大都会東京で奮闘する人には勝手ながらに僕は仲間意識を持ってしまう。
だからこそ、彼には30歳そこそこでまだ戦場から離脱してほしくないのだ。

戦場から離れることはいつでも出来る。
ただ、一度、戦場から離れたら再びこの地に戻ってくる可能性はかなり低い。いつだって戦うのは怖いし、痛いし、辛いからだ。

そんな想いを抱きながら、自分はもう少しこの戦場で見えない何かと戦おうと思っている。

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