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モンゴル紀行

文章を書きたい欲が出てきました

社会人になり早10年。
気づけばいい歳になり、家族というかけがえのないもの手に入れ幸いにもそこまで不自由のない生活を送っている。

学生時代、あれほど普通の人生(普通に就職して普通に働いて普通に一般的な家庭を築くこと)を送りたくないと思っていたが、歳を重ねるごとに「その普通」を維持することは意外と大変で、「その普通」が実は一番幸せだったりするんじゃないか、と思う瞬間が増えてきている。

ただ、まだミドサーということで学生時代に抱いていた「普通への抵抗」の気持ちが完全に消え失せた訳ではない。厨二病と揶揄されるが「世の中に爪痕を残す何かしたい」という気持ちは頭の片隅に居座り続けている。

そんな矢先、先日1週間ほどモンゴルを旅行した。男友達と2人でだ。
インターネットから遮断された環境で生活をしていたので暇を持て余し、夜な夜な旅行の記録をつけた。
せっかくそこそこの量の文章を書いたので、これが何かのいい機会になればと思い、noteに紀行をアップすることにした。

気が向いたら、今回の紀行とは別に文章を書くかもしれない。



モンゴル紀行

初日

今回、妻子持ちの身ではあるが1週間ほど日本人にはあまり馴染みのないモンゴルを旅することになった。

普段、東京と北海道を行き来しており平日はほぼ仕事で北海道に滞在していて、このお盆の期間も家にいないことは大変忍びないが、「将来息子を連れて行くための下見」という半分冗談半分本気の程で妻には話をした。
職場などで年上の方からは、「子供とどこか出かけられるのは小学校卒業まで」と日々聞かされているので、まだ海外に連れて行ける年齢ではないがもう少し大きくなってその一旦区切りとなる年齢までの間に様々な文化に触れさせてあげたいと考えている。

また、我が家は夫婦お互いに我慢しすぎずに好きなことが出来たらいいねと話していて、お酒好きの妻が友人と夜に飲みに行ったりすることも、友達と旅行に行くのも僕としても快く送り出しいてる。(深夜に飲み会から帰ってきて便所で吐いてた時はさすがに諭したが)

今回、10年以上振りにバックパックを押入から引っ張り出して荷造りをした。学生時代に海外旅行した際にはバックパックを愛用していたが、社会人になってからはもっぱらキャリーケースでの旅行だった。
この8月の時期でもモンゴルの朝晩は寒いようで、バックパックは服だけでパンパンになったので、他の荷物は最小限に留めるようにした。

30歳を過ぎてからというもの、夜にしっかりと睡眠を取らないと翌日の体調がすこぶる悪くなる体になりつつあるが、深夜1時過ぎに羽田空港から韓国仁川に向かい、9時半まで空港で時間を潰しモンゴル首都のウランバートルに向かう、というやや負荷のかかる旅程だった。

妻にお別れを告げ空港へ。毎週月曜と金曜に羽田空港を使っているが、国際線のあるターミナル3は海外の香りがして普段とは違う場所に感じた。

予定の時間通りに飛行機は出発し、少しでも仮眠を取ろうと考えていたが、離陸後間も無くして機内のライトが明るくなり誰も求めていないであろう機内食としてすき焼き丼が配られた。深夜2時過ぎのこと。

機内食で思い出したエピソードが一つ。新卒で働いていた商社の頃、取引先を連れて海外出張をする機会が多くあった。とある会社の課長さんに「家畜のように餌付けされてる感じがするからどんな長時間フライトであれ機内食は絶対に食べない」と頑なに拒むおじさんがいた。
そんな感じのなかなかの変人課長さんで新入社員の僕には刺激が強く、だいぶ攻略するまで時間がかかった。いや、転職する最後の最後まで攻略できなかったか。

そんなこんなでほぼ仮眠は取れず仁川に到着した。島国にいると少し距離があるように感じるが韓国は本当に近い。

朝4時、仁川空港に到着。出発の9時半まで1秒でも長く寝たかったので、眠りやすそうなベンチを見つけ横になった。周りを見回すと同じように飛行機待ちの人たちが警戒することもなく死んだように寝ている。
空港内はクーラーがよく効いているのでパーカーを持ち込んでいたのは正解だった。

8時ごろ目が覚めると空港内は陽の光で明るくなっていた。ウランバートル行きの搭乗ゲートで今回モンゴルを一緒に回る友人と合流。家族にLINEをした後、機内に乗り込んだ。
日本では南海トラフ地震への注意喚起がされているので、自宅が東京と言えども何もないといいのだが。

機内の席に着くと隣の席はモンゴル人のおばさまだった。なかなか強めの香水が鼻をツンツンさせるが、ギリッギリ耐えられるレベルであった。
今回の旅行に合わせて2週間ほど前にメルカリで購入した司馬遼太郎の「モンゴル紀行」を読んでいると、何やら気になったようで香水強めのおばさまが笑顔で話しかけてきたが何を言っているか分からなかったので、とりあえず下手な作り笑顔だけを返した。

飛行機は仁川を出発し、中国の煙台→天津→北京の順で上空を通過した。
煙台というと、極寒の真冬に度数50度を超える「白酒」を浴びるほど飲んだ商社時代のほろ苦い思い出が呼び戻される。レストランで倒れ車椅子で運び出されたこともあった。
あの時、食事を共にした取引先の中国の人たちは元気にしているのだろうか。

ほどなくしてウランバートルに近づくと飛行機は雲の下に潜り始め、雲を抜けるとモンゴル高原が姿を現す。毎週飛行機の窓から見ている北海道の景色は「大地」を感じるが、モンゴルの大地は全く別の印象で、遊牧民族と農耕民族の違いを感じざる得ない。畑は人間の手で大地が加工されいてる。
加工されていないモンゴルの大地は、大地を超えて「地球」を感じさせられる迫力があった。

空港に到着すると機内では久石譲のsummerが流れていた。

モンゴルへの入国審査はいたってスムーズであった。
羽田空港で預けたバックパックも無事に仁川でトランジットできており、受け取ることができた。

到着口を出ると我々の名前を書いたカードを持ってる女性が2人立っていた。1人は今回の旅行のことでメッセージをやりとりしていたアヌさんで、もう1人はここから1週間僕ら2人のために専属でガイドしてくれるトゴソさんだ。2人とも流暢な日本語を話す。

空港内で両替を済ませ、売店で水とビールを買った。
今回のツアー代もその場で両替したのだが、現地の通貨にしたところなかなかの札束になった。モンゴルは硬貨はなく全て紙幣であり、1番高額な紙幣でも日本円にすると1000円である。
アヌさんに「その札束持ち出して逃げちゃいなよ」とジョークを投げかけたが誰が見てもわかるほどの苦笑いであった。モンゴルに来てそうそうに滑る。
ちなみにモンゴルの平均月収は5万円ほどのようだ。

空港の外に出るとトゴソさんの旦那さんが車をスタンバイさせていた。旦那さんも日本語を話す。2人とも日本に留学し東京で出会い、日本で結婚したとのこと。
ちなみに旦那さんの名前はアムラさん。ドンピシャの世代ではないが、安室奈美恵で覚えることにした。

今回のゴール地点であるリアル遊牧民のホームステイ先は車でウランバートルから西に5.6時間かかるため、初日は空港から2時間ほど車を走らせたゲルキャンプ場を目指すことになっている。
事前に知っていたがモンゴルは右ハンドル右側通行でありこれまで何ヶ国か訪れているが初めてのパターンだ。走っている車のほとんどが日本車で占められていた。

途中、ウランバートル市内を横切ったが、ひどい交通渋滞であった。
モンゴルの人口の半分以上がウランバートルに集中しているようで、電車もなくインフラが追いついていないため渋滞が社会課題の一つになっているようだ。

街の中に巨大な施設があり何かと聞くと、火力発電兼巨大な暖房設備らしい。ウランバートルは冬になるとマイナス40℃にもなる。想像が難しい温度なのだが、この巨大設備から張り巡らされた温湯管を通して各家庭にお湯を送り部屋を温めているらしい。発電所の燃料はモンゴル産の石炭。冬は大量に石炭を燃やすので大気汚染の問題もあるようだ。
ここモンゴルでも何年後かには石炭から別の燃料に変えざるを得ない時代が来るのだろうか。

そんなこんなで渋滞を抜け市内を脱出するとあたり一面に草原が広がり、その中を走る一本のアスファルト道を家畜が飛び出てくるのを気をつけながら進んでいく。草原を眺めていると所々に白い点がある。ゲルだ。
中国語では包、中央アジアではユルトと呼ぶらしい。
馬、羊、牛とそしてゲル。モンゴルにやって来たことを存分に感じさせてくれる存在だ。

今回なぜモンゴルに行こうと思い立ったのか理由を思い出せないのだが、僕の世代が最初にモンゴルに触れたのはおそらく国語の教科書で読んだスーホの白い馬だろう。
モンゴルの遊牧民族たちのその記憶が、ドラマVIVANで呼び戻されたのか、そんな感じだった。

夕方にはゲルキャンプに到着した。あたり一面草原の中のキャンプ場だ。
司馬遼太郎のモンゴル紀行によると、「モンゴルの草原は本物の草原の香りがする」ようで楽しみに車から下車し、めいいっぱい空気を吸い込んだのだが、残念ながら鼻の効かない僕には本物の草原の香りは分からなかった。
ただ、濁りのない空気の透明度はよく分かった。強いて言えば、若干甘い香りがしなくもない気がするが気のせいな可能性が高い。

寝泊まりするゲルに案内され、荷物を置き遅めの昼食をとることにした。
観光客が泊まるゲルということもあり、初ゲルではあるがあまり高揚はせずテンションをあゲルことはできなかった。

昼飯はtheモンゴル飯。
盛り盛りに積まれた羊のブロック肉と羊肉のスープだった。

モンゴルの食文化は面白く、最近は少し変わって来たようだが、歴史的に見ても野菜は食べない。遊牧民族であり農耕民族ではないため、長い歴史の中で定住して野菜を育てることはしてこなかったからだろう。
つまり超絶の肉食であるわけだが、豚や鶏はほとんど飼育されることはなくそのため豚肉や鶏肉を食べる文化はないそうだ(ウランバートルの都会の人は除く)。これも移動が伴う遊牧文化では、豚や鶏は生活を共にするのが難しいからだろう。
ちなみに、馬肉も食べないらしい。馬はあくまで移動手段とミルク。

食堂のフリードリンクコーナーにミルクがあったので飲んでみたが塩が入っていた。ミルクに塩を入れて飲むようで、ただ正直言って全然美味しいと感じなかったので早々にごめんなさいをした。

話は変わるが、モンゴル語の字体は、ロシア語の字体に似ている。
トゴソさん夫妻に聞いたところやはりロシア文字を使っているようだ。以前はアラビア語調の文字を使っていたが、1960年頃にソ連からの圧力を受けロシア文字が導入された。
そのため、若い世代は過去の文字を読めないらしい。見た目はアジア人のようで、字体含めロシア文化が色濃く入り込んでいる感じがしている。
ちなみにロシア語と字体は同じであるためロシア人はモンゴル語を読めるが意味は理解できないらしい。

16時ごろに昼食を終え、そのうちすぐに夕食の時間になるらしく、腹をすかせるためキャンプ場の裏の丘を登ることにした。

15分ほどかけて丘を登ると360℃の草原を見渡すことができた。圧巻である。草花がただただ生えているだけで木は一本もない。
この景色を見ながらあえて普段の仕事のことを思い出してみたが、この景色の前では非常にバカバカしく思えた。
仕事で思い詰めてしまう日本人はとても多いが、ぜひモンゴルの本物の草原の香りを嗅ぎにきてもらいたいものだ。ちなみに、この後に及んでも本物の草原の香りは僕には分からなかった。

夕飯の時間である20時前にはゲルに戻った。
この時間でもあたりはまだ明るい。日本からだいぶ西に位置しているこの国であるが、日本と時差が1時間しかないのでそりゃ遅くまで明るいわけだ。
夕飯は羊肉とお米をスープで混ぜたような食事であった。美味しいのは美味しいのだが、これからの1週間3食が羊肉メインかと思うと、その想像だけで胃がムカムカした。

21時になると空は暗くなり星が見ている。東京で見る夜空よりも圧倒的に星が多くあるが、キャンプ場の明るさもあり、まだまだこんなもんじゃないと思い、明日からはさらに奥深くモンゴルを進むため星空の楽しみを持ち越すことにして、早々に就寝した。
夜は夏でも寒いので厚手の服を持って来て正解だった。
ただ、ゲルの中は暖房がなくても暖かく布団一枚を被れば熟睡するのには十分だった。

2日目に続く。


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