友人と読書と私、の私的見解(仮)
友人と読書の共通点。
友人は、当然私自身ではないから、異なるところが数多あるけれど、彼女彼らの中に、いつだって私自身の一部を確認できる。
友人とだけ限定せずとも親兄弟、夫・子供など、自分自身を取り巻く他者全部を含むといいかもしれない。
私が、彼女彼らを大切に思い愛しく欲する所以は、そのことが大いに関係しているのではないだろうか?
読書も同じように感じられる。
惹かれるその書物の言葉の中に、その言葉を選び書き残す著者の中に、必ず自分自身を見出すことができる。
「この著者はもしかしたら私の代弁者ではないだろうか!」などと人の褌(ふんどし)を借りて、「そうだ、そうだ」と戦った気になる時もある。
小説の中であれば、登場人物のほんの些細な動きの中に、著者が選んで記したその表現の中に、自分自身を垣間見る。
自分だけでは、自分自身をなかなか把握することができないけれど、友人との交流を通して我を顧み、読書を通してすっかり埋もれてしまっていた自分を発見する。
私のおすすめの読書方は、凄く気になる著者に出逢えたら、できるだけその著者の全著作を読むことです。全部とは言わないまでも、おおかた読む勢いで。
どんどん読み進めると、学者も小説家もエッセイストの中にも、この著者の通底した核たるメッセージ、この著者の大切に感じていること、この著者が何を不服とし、何が分かって何が未だ了解できないのかが、断片的に見えてくる。
手を替え品を替え、何度も同じことを伝えたがっていることが、こちらに伝わってくる。
しかし、ここで読者が分かった気になってはいけない。それは、ただそのようであると知っただけで、”分かった”ことにはなっていない。それは自分自身から湧き出た感ではないのだから。
では、どうすればいいか?
その伝わってきた断片を、薄ぼんやりと自分の内に大切にしまっておいて・・・というよりは、むしろ私と共に並走する、一緒に走らせる感じ。
それと一緒に生きて生活している間に、ふっとしたことで「あれは、これか!」と、時々かなり了解に近づく時が来る。
もしかしたら ”分かる” ことができる糸口は、このようにして他者を通じてしか得られないのかもしれない。だから人間は社会的動物でありえるのかしら?!
であるならば、読書に限ることはない。
本だけでなく、詩も唄も音楽も絵画も演劇もダンスもリズムも・・この世のありとあらゆる色々は、誰かの 「分からない!でも分りたい!」 が形になった表れなのかもしれないな。。
そう考えると、世はなんと哀しく愛しきものの集合なのだろうか!
「あぁー!」とか「おぉー!」とか言いながら一人で感動してしまったが、なんだか詰めが甘そうだし自信がないので、今は (仮) にしておこうと思う。
今夜も読書しよう。