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アポリネール / プーランク 《進もうもっと速く Allons plus vite》 —— 翻訳、解説、覚え書き

翻訳

Apollinaire : Allons plus vite (1917)アポリネール : 進もうもっと速く (1917)

そして夕べがやってきてそしてユリの花たちは死ぬ
私の痛みを見るがよい晴れた空よお前が送ってよこすのだ
憂鬱なひと夜を

息子よ笑みを浮べよおお妹よ聴け
貧しき者たちよ大きな道を歩め
おお欺きの森よお前が私の声に
魂を焦がす焔を湧き上がらせる。

グルネル大通りには
労働者たちと経営者たち
5月の林のそのレース模様よ
大げさに威張るのはよせ
進もうもっと早くとにかく
進もうもっと早く

勢揃いしている電信柱が
あそこの河岸を伝ってやってくる
その胸元ぼくらの共和国が
置くのはこの5月のスズランの花束
河岸にみっしりと生えた

ポーリーヌの恥しげに作るしな
労働者たちと経営者たち
そうだそうだよ眠れる美女
お前の兄弟は…
進もうもっと早くとにかく
進もうもっと早く

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解説


Apollinaire 1917 / ♪ Poulenc 1938 : Allons plus vite アポリネール (1917) / プーランク(1938) 《進もうもっと速く》

    シンポジウム 「第一次大戦後の音楽史」によせて
    —— F.プーランクとH. ソーゲの歌曲による幕間コンサート
    (2019年9月7日 国立音楽大学) の解説より抜粋

プーランクは1919年、20歳のときに《動物詩集》を作曲して以来、1956年の《2つの歌曲》にいたるまで、37曲のアポリネールの詩による歌曲を出版しているが、1938年に発表されたこの《進もうもっと速く Allons plus vite》ほど、彼がこだわり続けて歌曲となったものは他にないだろう。

この詩は、1917年3月から1918年10月の間に全16号を発行して終った文芸誌 Nord-Sud の第3号(1917年5月15日)に掲載された。プーランクは1935年にその作曲に取り掛かるずっと前の、10代の終りにこの雑誌でそれを読んでいた。彼はこの雑誌に関係した人々と交流を持ち、1918年にはアポリネール自身による朗読会に出入りして個人的会話を交し、その「声」に魅かれた。そのような瑞々しい体験の中で、《動物詩集》のような曲集は産み出されるが、《進もうもっと速く》のほうはアポリネールの詩についての原体験と言えるのにもかかわらず歌曲になるには長い時間がかかった。思いたって作曲に集中するのは1935年のことだが、当初のスケッチの破棄を経て完成するのは1938年のことであった。

描かれる情景は、詩の文言からは今の日本の私たちにとって焦点を結びにくいものであるが、同時代の人々にとっては歌詞の中のいくつかの語だけでも1917年のメーデーを鮮烈に喚起したであろう。"les ouvriers et les patrons 労働者と経営者" 、デモの旗を隠喩である "arbres de mai 5月の林"、メーデーの象徴である "muguet スズラン" 等々。また、Boulevard de Grenelle グルネル大通り"という地名は響きを優先して選ばれたものだという可能性も否定できないが、当時の新聞を調べると、通り沿いの住所に労働組合の組織の事務所が置かれ、会合が盛んに開かれており、そこにデモの隊列がいたことは容易に想像できる。

1917年の5月のパリはいつになく騒然としていた。総力戦による経済の疲弊、物価高騰で労働者の不満は限界に達し、労使紛争が噴き出てきた。戦争放棄を訴える兵士たちや、二月革命後のロシアの労働者たちと連帯して、戦争そのものを終らせたいという政治的な動きもあった。ゼネストの要求が高まるが、労働組合の指導者たちの方針はまとまらず、煮え切らない状況の中、散発的にストが広がる状況となった。全力で動けないままの「もっと速く進もう Allons plus vite !」という気持は、多くの人々に共有されていただろう。

プーランクが、以前から心に留めていたこの詩の作曲に、1935年に本格的に向かったのには、時代の空気もあるだろう。終戦直後の躁的防衛のような「狂乱の年代 les années folles」は大恐慌によって終りを告げ、33年のドイツでのナチス独裁政権成立のあと、フランスでも危機が抜き差しならぬものと感じられるのがこの年である。そして、36年の人民戦線内閣に至ることになる政治的な共闘が模索され始めていた。政治の時代が大戦の記憶を呼び寄せていた。

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覚え書き

(初出 2019年9月8日 Facebook)

昨日のシンポジウムのプーランクとソーゲの歌曲による幕間コンサートに解説を書き、訳はプロジェクターで投影しようと思ったが、スクリーンとの位置関係で演奏鑑賞のじゃまになる判断してとりやめたので、昨日のテクストの一部とともに、訳とそして、調査はできたが載せられなかった小ネタも含めて覚書として。

《進もうもっと速く》と訳したアポリネールの1917年の詩にプーランクが1938年に曲をつけた Allons plus vite がやや難渋。

この詩、単にグーグルで検索するとまず、プーランクの歌曲の詩として最も頻繁に出てくるが、アポリネールの詩としての成立や来歴がいまいち分かりづらい。作曲家がだれか詩人の詩に曲をつけるさい、その詩をいつどうやって知ったかが問題となる。この時代の詩がだいたいたどる履歴は、詩人が詩を書く → 多くは雑誌に発表 → 自分で詩集を出す際にその中の一編として出版する → 後に編纂されるもっと大きな詩作集に収録される(複数あり、最後は権威ある全集)…だが、作曲家がそのなかのどの段階でその詩を知ったのか、その途上に改訂はあるのか…。

この曲の翻訳と解説は、ます詩についてのそのあたりの情報をたぶんがっちり書いてあるはずのプレイヤード叢書版が手元にないまま手をつけたため、どの詩集にあるのかの調査に、いささか手こずったが、詩集に収められたのは 1925年の遺稿詩集の Il y a (Messin)とは判明。そして 初出の雑誌、そのスキャンデータまで米国の大学のデータベースから得ることができた。そして、この詩とプーランクの特別強い関わりに気づくことになる(これについては解説に書いた)。

次に苦戦したのが、唐突に出てくる二つの固有名詞 Boulevard de Grenelle と Pauline.

「Boulevard de Grenelle グルネル大通り」 のほうはこの時期のアポリネールについてのある研究論文から(Peter Read 2016)、直接ではないがなんとか解決がついた。まず、その文献によって、そもそもこの詩が1917年のメーデーを背景に書かれていることを理解する。

そこにグルネル大通りについては特に書いていなかったが、その場所について、17年前後の新聞記事のデータベースを検索すると、メーデーのデモの記事は出てこなかったが、共産党機関誌の『ユマニテ』その他から、その72番地に労働組合の集会所が置かれていること、さらには、Salle Franco-Russe フランス・ロシアホールと呼ばれているものもあったことを知る。そこで、その文献のメーデー説によって得られたイメージがいささかなりとも鮮明になる。これも解説に軽く入れられた(ちなみに今はその場所には冷凍食品屋さんのPicardがある)。

この文献からはさらに、末尾から3行目の唐突な Ton frère は、自筆原稿の研究から、もともとは「 Ton frère est mort un trou au front お前の兄弟は死んだ、前線の穴」だったこと、それを検閲の問題か、最初の2語だけ残し、あとをばっさり切ったので、詩として破格のものになった…ということを知る。
確かにデジタルで公開されている自筆原稿を見ると、上記の句がみとめられる。

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書き換えるよりもたしかにこのほうがただならぬ痕跡が残る。そういう匂いがするときは要注意というのも学ぶ。反則わざたが訳にやや反映。

ポーリーヌ Pauline のほうが、そう簡単ではなかった。

語学的な意味はとれる。しかしなぜ 「Pauline honteuse 恥らっている」のか、なぜ、「la bouche en coeur しなを作っている」のか…。いったいポーリーヌとは誰なのか。アポリネールの人間関係(女性関係)を調べていくが、どうも有力候補がみつからない。1907年から11年まで彼のパートナーだったマリー・ローランサンの母親の名はポーリーヌだが、どうもこのコンテクストにうまく入らない。

だんだん詰んできた。A-pollin-aire という名前のもじりなのか、そんな牽強付会のことまで考えながら、手がかり尽きかけたころに、なんのことはない、英語の文献にポーリーヌという名とアポリネールを同一頁に並べる文献があるのを見落としていたことに気づく(Daniel Albright  2004)。ただし実在の人物というより、1914年に作られた当時のスター女優 Pearl White が主演する「Perils of Pauline」邦題では「ポリーンの危難」というシリーズものの映画のタイトル・ロールとして。

このシリーズものの映画について、フランスでの公開を状況を調べていくと新聞記事から1916年7月封切りというのは分かる。フランス語のタイトルは「Exploits d'Elaine エレーヌの冒険」。ここでややがっかり。これではポーリーヌにならないではないか。夥しい記事の数で、1916年後半の大ヒットというのは分かるが(Perils of Pauline とExploits d'Elaineの関係は仏と米でまたややこしく違う関係にあるがこのあたりは省略)。このタイトルや女優の名前でアポリネールとの関係を調べていくが新聞記事では特に繋りは見出せず、もう一度もとの英語文献に戻ると、そこにしてある、この映画のポーリーヌ=エレーヌが、《パラード》の中の、あのセーラー服のアメリカの少女のモデルになっている説明は、他のいくつもの文献から確証できる。《パラード》の製作者にとっては、あれはポーリーヌと意識されていたわけなので、原詩の「La bouche en coeur Pauline honteuse / Les ouvriers et les patrons 」は、この戦争や労使闘争の中で、皆アメリカ映画にうつつを抜かしている文化状況へのあてこすりだろうというのが推測できる。

というか、《パラード》について調べたとき、ちゃんとこの辺りを丁寧におさえておけば、同年のアポリネールの Allons plus vite の中で Pauline を見かけたときピンときたはずで、こんな回り道をすることはなかったと反省…。それ以前に、この映画そのものが第一次大戦あたりの文化史をやるときの必須教養だったようだ。

このあたりが分かったところで、同時代の視覚的イメージを確認。

1917年のフランスのメーデー自体の動画や画像というのがこれがまた難物で、旗が林やレースのようになっているものどころか、そのときの光景がなかなか見つからない。1917年で出てくるのはロシアのものばかり。↓は1936年の人民戦線のときのしかもメーデーではないときのものだが、こんな感じがいちばん近かっただろうと思われる。あと、両大戦間のフランスのメーデーのデモで旗を使うのは珍しく、出てくるのは横断幕ばかり。どうも党派や機会によって違うよう。1917年のメーデーの画像資料の調査とともに、この問題は今後の課題。

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The Perils of Pauline はYouTube で動画が見られるが、シリーズもので、エピソードが複数あるので、「恥しげにしなを作る」というのがどのあたりをイメージしているかは分らないが、まあこんなところ、というのをキャプチュア。

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…と、こういうのを調べていると1曲あたりでもとてもたくさん時間が要る。それによい注釈書が要る。この曲についても、まだ、なぜこの語なのか解決のついていない問題もいっぱいある。「ユリ」、「眠れる森の美女(教会のことを指していると、上記の論文では言っているがほんとにそうなのか)」etc。にしても、詩の訳でもなんでも、辞書さえあれば訳はでき、自分の好きな文体でそれっぽくやれば一丁あがりというわけにはやはり行かない。

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