映画時評:「せかいのおきく」こそ世界に飛び出す日本の映画じゃないのかい。
「perfect days」が世界名を轟かせたのはまだ記憶に新しい。
トイレ系で言うなら「せかいのおきく」こそここ最近での日本映画として世界に名を馳せてもいいのではと思える映画と観て思えたので紹介したい。
自分が知らなかっただけなのか、いつどこで映画宣伝され公開が始まり、全国のどこの映画館で放映されていたのだろう。
ボクはたまたまあるミニシアターに興味があり、そのミニシアターで映画を観るつもりだった映画一つだけ見るだけではもったいないので、もう一つ「ついでに」選択した映画がたまたまこの「せかいのおきく」だったわけなのだ。消却法で他の映画を消した結果この映画と出会うことになったのだ。
観たら役者さんはそうそうたるメンバー。監督さんは阪本順治じゃないか。
やる気あるヤン。
以下ネタバレあり。
芸能事情は疎い方なので知らなかったが、「中次」がいいところでUPになるとお父さんの顔がチラつくのはミスキャストじゃないか。w
まずは言いたかった。
純愛映画として観ても、時代背景映画としてみても、職業差別問題映画としても、もちろん複合してみても全てが素晴らしい。
何よりも映画の特性を存分に生かしている点、映画には臭いがしないところを活用しているところがいい。w
形がリアルに見えてしまうのはちょっとね…。
美術さんは苦労したことだろうし、苦労が実った作品になったと思う。汚わいのために白黒映画にしたのだろう(?)が、汚わいの質や量を再現した史上最高の美術さん達だ。作るためにはどれだけ観察をしたことだろう。
さてさて肝心な内容。
ストーリーの要として激動の時代背景があるのだろう。変わりつつある時代と、分からない人々、付いていけない人々。その中にあって自身を貫くあまりに武士と真逆の立場の人間の杭を打たれる人生。それぞれに多少の欠点がありながらも懸命に未来を見て生きようとしている(と感じた)。ここではお菊の父親のことと下肥買いの矢亮のこと。その生き方を間近で見て疑問に思いながらもある所では尊敬の念も持っている二人が恋に落ちる。
だが、そんな二人の身分の差はこの変化の時代にあっても恐ろしくもかけ離れている。身分差別が表面上無くなった現代では考えられないほどの困難を抱えた恋だったはずだ。
ただの身分の差どころの話ではなく、映画では伝わりにくい糞尿の身体に身に着いた臭いはきっと耐え難いものがあるだろう。
生理的な拒絶反応は相当なはず。
好きになった彼が汚わい仕事に対しプロ意識が芽生えたが故なおのことその糞尿臭のエグサは現代の衛生的な生活を営む我々の想像を絶するものがあるだろう。映画では描かれてないがハエが集るエグサも半端じゃないだろう。
それを越えての純愛なので、身寄りが亡くなり、声が無くなったおきくにすれば、自身の判断に全てがかかるわけだから、己の人生にこの時代にあって女性が一人で責任を取る覚悟を持って恋愛をすることにこそ純真性を感じた。
また一方、汚わい屋の男性側の真摯な態度の方が寧ろ武士的だ。
職業が汚わい屋だからと言っても仕事に向き合う態度、行動、学ぶ姿勢、ダレ切って博打ばかりを打つか、陰謀策を打つかに暮れるくらいばかりの武士より武士らしい。今の政治家か!
汚わいの自然循環に対する考え方も尊さを感じつつ、豪農と思われる農村の人の汚わい屋への差別的な態度、武士の差別的な態度、長屋の一部の人の態度は、汚わいに対する感覚がモノがモノへと帰る自然循環と考える思想が既にその時の共通認識ではなかったと思われる。
大昔から日本にアニミズムの思想があったことから、自然循環思想は日本人には馴染深いモノだったはずだ。それが時代末期になると階層思想がはびこり見た目で判断するような時世になってしまう。まさに現代と同じく。
臭いモノには蓋を。
見たくなければ目を背け、自分でしたくない作業は下人に蹴ってでもさす。
汚わいの先輩はそれでもメゲナイ。
夢を抱いている。
言葉がなくとも二人の愛は成就する。
広角カメラで3人が森の奥の方へ歩きながら抜けていくシーンはモノクロでありながらも暗くは思えない。むしろ明るく感じる。
いい映画に出合えた充実感に浸り、余韻を楽しむ。