映画自評:死者と共のロードムービー「葬送のカーネーション」
ここ最近移民関連の映画に縁がある。
「葬送のカーネーション」が移民に絡んでとは知らずに映画館に足を運んでいたのだ。何かあるのだろうか…、まあいい。
さて、この映画の大きな特色としては、主な登場人物が語らず、大事なことは周りが語って済ますこと。ドライバーであったり、ラジオであったりと。とにかくメインの二人は無口。そして西洋的な基準で言えば、表情豊かとは言えない。
以下ネタバレあり。
良い映画とはなるべく状況を言葉で説明しないことが一つ挙げられるとボクは思う。だとしても、この映画は説明がなさすぎる。w
絵本的手法をわざと監督は狙っているのだろうが、それにしてもある程度複雑な状況下にあっての物語のはずなのに、全く説明がないのも困るじゃないかい。w
主人公の二人のセリフは極端に少ない。だが、作品にかかわるメッセージを伝える手法は映画独特の映像そのものであったり、今作品では二人を乗せるドライバーなどのサブの出演者に語らせたり、ラジオに語らせたり、バックに流れる歌であったりと、伝え方にも手法が必ずしも主演者のセリフだけではないことを改めて感じ取らせてくれた。
振り返ってみれば、雄弁であったかもしれない。言葉が必ずしも正確に物事を伝えるとは限らない。言葉というツールがあってなお誤解を生じさせるのが人間だ。
彼らが目指した「国境」も具体的な地域を指していないので、結果的に今作品は全世界で巻き起こっている全紛争問題にも適応できてしまう。
老人が目指した危険地帯は老婆との約束の地、原点の場のはずだが危険であり、周りの言うことを聞かずとも、どうしても帰らなければならない「地」であった。引いては現在の震災被災地に危険でありながらも戻りたい高齢者の思いとは同じなのだろうか。
映画の構成は、旅に出る初めの個人的な他人の祭典から、とエンディングの個人的な自分の祭典で締められるが、老人は終始言語化できなかったが、結果的に最後の終わり方を求めていたのであろう。そのためにハードな旅を続けられていたとボクは思う。
一方、孫の場合。
「早く大人になりなさい」と言われるにはまだ幼い年齢でありながらも、時代の潮流、世間の常識、家族のしきたり、その家族も年老いた頑固爺のみ。
そんな環境の中健気に生きざるを得ない。
彼女も言語化できない漠然としたしたいこと「絵を描くこと」を言葉にして言うこと、抵抗してまでも言うこと、宗教上に反してまでも、頑固爺と言い争えない。
旅の途中で出会う人からもらう食べ物はむしゃぶりついた彼女は、最後の警察での美味しそうで清潔なミルクとビスケットには手を付けなかった。
彼女も頑固であるのと同時に旅の意義を分かっていた。
権威主義でもなく、世間体を気にするわけでもなく、あくまで個人的な思いを通したい。約束を果たしたい。ただそれだけなのに様々な理由が故に果たすことができない不条理。個人ではその不条理を覆すことができないという現状。
この作品では、布に包まれた老婆がいつも二人と共に無言で出てくる。
第三の出演者だ。
洞窟のシーンでは、しっかりとした存在感を持ち、少女は控えに回り、焚火の炎に照らされて無言で語りかけてくる。洞窟のシーンからエンディングまでの存在感は寓話感を交え、彼女の生きた証、もしくは現世とあの世の境の曖昧さを表しているかのようだ。
彼女の存在により、映画史上初の死者が主役級のロードムービーと呼べるかも。
概ね全体的に暗い印象の映画だが、たまにクスっと笑わせてくれるシーンを入れてくれるところもボクとしては好印象だ。
この地方(大雑把な言い方で失礼!)の映画は最近面白いものが発掘されるので見逃せない。これからも注目したい!
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