「【良質な依存を目指す】討論集会傾聴からの気付き」
にゃーさんの集会を聴いて居た。
私にとって依存という言葉は、優しく送り出した元カレの様な居心地の悪さがある言葉で、外に出すのも、いつも躊躇いがちだった。
理由は、私の好きな言葉から紹介しなければならない。
有名すぎるある方の言葉らしいのだけど、人間関係に持続性を期待するとき、いつもこの言葉をツールとして使わせてもらっていて、このツール内で参照すべきパラメーターの内、最も比重が大きいのが「依存」だ。
でも、今回の集会での皆さんのお話を聞いて、眼を塞ぐだけは、ていのよい諦観かもしれないと疼きだし、少し揺らめくジェンガを、勇気を出して抜いてみようと思った。
ゲームを、始めよう。
今回の集会にも「良質な」とまくらが付くことから、そもそも依存には積雪の如く負のイメージが憑りついてしまった。
「抗力に対するニュートラルに戻れぬ変容継続性」
これが依存の正体だ。
つまりこの性質を与えるものが無くなれば、抗力は自身を襲い、ダメージ、負荷、マイナスベクトルを清算しなければならない。
これが負の積雪の正体だ。
さて、ではこれを加味した状態で、「それでも」依存を肯定していこうと思う。
まず①、マイナスベクトルは(理論上あり得ない)という状態。
そして②、マイナスベクトルを望んでいた状態。
最後に③、マイナスベクトルは(そもそも)無いという状態。
①と③が同じに見えるが、説明を添えさせてもらう。
①は絶対的な期待値や信仰、③は虚構、ロールプレイという状態だ。
①の状態を、私たちはもう知っている、当たり前すぎて気づきもしないことがある。それは酸素や、太陽光といった自らが潰える期間を補って余りあるリソースに依存する場合だ。
大資産家の子息は、死の床まで家に依存し続けたし、世界中で神サマへの潰えぬ依存は、日々のニュースを賑やかす。
②は特殊な事例になるが、破滅衝動者や、悲劇快楽主義がこの状態に陥る。自らで「何とかなる」悲劇ではもう刺激が足りないのだ。
またその中でも稀有な例としては創作者、芸術家が「それもまた一興」の裸ノーガードで糧として本気で奈落に飛び込みにくる場合もこちらだ。
③は、本気で依存をしながら、心を分けて繰れる超級者の所業で、極上のオトコ、極上のオンナ、と呼ばれる部類の精神構造セレブレティーが立てる場である。マジで映画のシナリオの中を生きている彼女らである。
①②③の前提の前に、確認をここで採らなければならない。それは、例えば「良質な依存を目指す」の対象者はどちらかという事だ。
恋人、親子、雇用、政治、形態は多々あれど、A→B or B→A の関係は共通だ。ここでは「自他」で示すとすれば、「自にとって良質な」なのか、「他にとって良質な」なのかで、視点は大きく変えなければならない。
与えるもの(与依存体)と、与えられるもの(被依存体)では立ち位置が変わることは自明の理で、力流も変わって来る。それを踏まえたうえで、次の段階へ進もう。
与依存体の立ち位置
共依存や、無意識化の、という問題があるが、ここでは構造をシンプル化して構築する。
与依存体の目標は、「有用性の確保」だ。
判り易い例としてMrs.チョウチンアンコウの例を見てみよう。
思ったより内容がハードで申し訳ないが、依存を与えるサイドも、「種の継続」という切り札の前では無力なのだ。
与依存という保証カードを切り続ける事で、その先にある何かを求めているのだ。これは親子の無償の愛や、恋人同士の真実の愛という一見美しいものにも当てはまる。
ドライな意見で申し訳ないが、私はその枯れた場所に咲く花が好きな好事家なのでご笑納して欲しい。
被依存体の立ち位置
被依存体の目標は、「継続性の保証」だ。
こちらは分かりやすい。「このまま時間が止まったらいいのに」というあれだ。つまり関係性の崩壊、カタストロフを先延ばしにする事に心血が注がれる。
ただこの心血は「努力」によってではなく、多くが逆支配的な呪詛システム、奴隷の道徳によってラインが引かれるところが多い。←ここがこの「依存」というシステムが孕む事となった、遥か天地開闢より込められた大いなる呪いなのだ。
思考ワクチン「愛のある主従関係」
この与依存体に科せられた冷徹と、被依存体に科せられた呪いによって、阿鼻叫喚の襖絵は彩りを増し、かくして「依存」という格式はその禍々しさを手に入れたのだが、これを打破する思考ワクチンが、私にはあった。
それはめくるめく加被虐倒錯性癖の世界。その世界における一つの真理として、市井の隅に眠っていた概念兵器だ。
:性的表現警告:R18文章作品です。
愛あるSM生活(但しSさんは処女) 作者:天木つゆ
02 https://novel18.syosetu.com/n9148fj/2/
03 https://novel18.syosetu.com/n9148fj/3/
性的描写のあまりない、感覚概念を垣間見れる部分のみを抜粋させていただいた。長文になりますが、一読していただきたい。
象徴的な描写がある。
与依存体と被依存体は、パワーバランスから前者が権力を持つように見えるが、こちらの「愛のある」SMメソッドでは、それが潜在的に逆転している。
これを依存の構造的呪いに沿わせることで、一縷の光が見えてくるのだ。
しかしここで、大大前提を一つ掲げなければならない。それは。
依存であろうと、なかろうと、どの場所、どの時代、どの形態の両者であろうと。「愛と敬意をもって接する事」がなければ、このメソッドは容易く崩れる砂上の楼閣だという事だ。
与依存体は「愛」のもとに、被依存体を依存させ、その対象が居なければ到達しえない目標を目指す。
被依存体は「愛」のもとに、与依存体の権威と効力を認めその継続に努力しなければならない。
このダブルサイドの両輪が、今回の【良質な依存を目指す】の終着点なのではないか?とここに一端の結論の錨を置き、停泊とさせていただく。
テーブルクロスを広げれば、世界経済や、宗教とグローバル社会にまで、この依存の花たちは根を伸ばす。「自では無い、他」その何と単純な構造へのアプローチを、私たちはこの街がまだジャングルだった頃から、変わらない愛の形として探しているのか。
Quieter/クワイエッタ