八本脚の蝶

先週(2020/06/23)に買った八本脚の蝶を、ついさっき読み終えた。何故買ったのが文庫化された2月ではなく、いまだったのだろう。わからない。
文庫化が決定したと言う報せから発売日までずっと楽しみにしていた。しかしいざ発売日に手に取ってみると「今ではない」という感覚がもくもくと沸いて棚に戻す日々が続いた。かれこれ4ヶ月だろうか。
ふと、電車に揺られて雨粒が窓を辷っていく様を見て「いまだ、今しかない」という自分の声が聞こえた。電車を飛び降り雨のなか本屋へ直行。棚に差し込まれた『八本脚の蝶』一冊と、最近発売された本を抱えてお会計。お気に入りのワイン色をしたカバーをつけてもらった。
それから毎日まいにち、朝の通学時間学校の休み時間や空きコマ帰りの電車でゆっくりと読んでいた。

前半は化粧品のこと美術のことぬいぐるみ のこと、と随分朗らかで楽しげな記事がつづいていた、のに。
どのくらいだろう、真ん中あたりから一気に引用や哲学めいた言葉が増えた。気づいていた死の雰囲気から目を逸らして気づかないふりをした。

そしてついさっき、二階堂奥歯が死んでしまった。
ついに終わってしまった。消えてしまった。
物語には始まりがあり、終わりがある。
どんな速さでどんな細かさで読んでいても終わりは必らずやってくる。
それでも、これほどまでに明確な終わりが示されていた『物語』を今までに読んだことがあっただろうか。
左手の頁が少なくなって、右手の重さが増すごとにえも言われぬ不安感が襲い、心臓の鼓動が早まっていく。
すぐそこにある終わり、そして最期を、わたしの体は鋭敏に感じとっていた。
小一時間ほど首を吊っていました、という一文が飛び込んできて心臓が跳ねる。もし、ここで彼女が亡くなっていたらこの左手の頁は存在しなかったのだろうか。物語は終わりを告げ、燈された灯は煙をたなびかせてわたしを絡めとっていたのだろうか。存在しなかったかもしれない彼女のその先を、わたしは『読む』ことができる。その思いだけで、痙攣するように拍動する心臓を胸に抱えたまま震える指先で頁をめくる。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い、の羅列。
怖い、としか表すことのできない恐怖。筆舌を尽くしても他人に理解させる形で綴ることのできない彼女だけの恐怖が『怖い』の文字に詰め込まれていた。ひとつの『怖い』にこめられた恐怖はいったいどれほどの重さで深さで昏さだったろう。わたしに覗き込む強さはなかった。

明日を恐怖する中で、必死に自らを奮い立たせるために引用された膨大な数の書籍たち。
彼女を作り上げた物語、その登場人物や景色があと一歩を彼女に踏み出させないために既の所で彼女を留めていたように思えた。
でも、逝ってしまった。彼女の意思に基づいて彼女は向こう側へいってしまった。彼女を作り上げた物語たちを、彼女を読む者たちをそこにおいて。

最後の句読点から無限に続く真白な頁。
それは彼女が生きるはずだった明日だった、と同時に彼女がに恐怖した明日だ。
わたしは、その空白に、いや空白に見える彼女から彼女を読み取らなければならない。何故だかそう思った。

「たしかに、だけどやっぱり三十男はきたならしいな、自分で自分を殺すなら二十五歳までだな」と誰かが言っていた。
二十五歳で、自分の意思で自殺した二階堂奥歯は、ちゃんと気が済んだから死ねたのだろうか。

理由を告げずに逝くことは、遺された者を呪縛する。自分はなぜ気がつかなかったのか、自分が悪かったのではないか、自分が他ならぬその死の原因なのではないか。死者は答えない。だからこの呪いは本質的に解かれることはありえない。 [虐殺器官]

ところで、この点において彼女は遺されたものに呪いを残していくことはなかったと思っていいのかな。

私の何倍も何倍も何倍も書籍に触れた二階堂奥歯の死に触れて、私はこれからもたくさんの物語を覗こうと決意したのでした。手始めに週明け大きな本屋さんに行きます。何を買うかは今から悩みます。
この時間がたまらなく好き。


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