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[掌編小説]あらゆる形で頑張る人たちに、あまねく幸あれ。

 暮れも押し詰まった30日の月曜日、私は仕事納めで出勤していた。
 いつも混み合っている電車はガラガラで、余裕で座ることができた。疲れを感じることなく通り抜けた改札では、駅員が高齢者の乗降客から熱心に声をかけられて困っている。職場のビルまで連なる地下街は閉まっている店舗が多いが、ベンチコートを着てティッシュ配りをする若いバイトの子、店舗の前に看板を出している店員たちがいる。

 ふと息子のことを思い出して、鼻の奥がツンと沁みた。
 7月の猛暑の最中、トートバック1つぶら下げて巣立っていった息子。
 高校3年生の11月、突然大学に行かないと言い出して、それまで続けていた塾通いをやめた。受験票を携えて試験と面接を受けるまでになっていた受験を断固拒否した。そして翌春から自分で探した職場で働きだした。
 それから二年が経って、彼は仕事に行かなくなっていた。
 寝転んでばかりで生き辛さを抱えている様子だったけれど、なんと声をかけるべきか私は戸惑った。まだ反抗期を引き摺っている彼に、母親である私が何を言っても反発されて逆効果だとわかっていた。そっと見守るしかなかった。
 そして真夏のある月曜日、息子は私の実家がある町へと旅立っていった。
『これからは、この町に住んで働く。まずは住むところを探すから』
 メールによると、祖母は高齢なので実家には顔を出さず、当分はホテルで暮らしながら仕事を探すという。
――彼にもっと何かしてあげられることは、なかったのだろうか。もっと話を聞いてあげればよかった。そんな予定を立てていたなら、準備を手伝いたかった。今すぐ彼のもとへ行ってあげたほうがいいのだろうか。
 そんな思いを抱えながら、突然息子が戻ってくるかもと心づもりをしているうちに、彼は仕事と住まいを決めて一人で生活をはじめたのだ。

 時代小説で例えるならば、戦場へ兜や鎧など付けずに竹槍だけを抱えて乗り込んでいく足軽の後ろ姿を見送るように、私は彼の姿を心細く思い浮かべていた。学歴も仕事の経験も不確かなまま、社会へ飛び込むのは不安だらけなのではないか。

 秋になって実家に帰省して、息子と約束して街中で再会した。彼は晴れ晴れとした顔で、新しい仕事、テレビ局のカメラマンアシスタントでの経験を語った。
 彼は私が思っていたより数倍も逞しく育っていた。少しだけ馴染みのある町へ、夢と希望を抱いて住みついたのだ。
『仕事も生活も大変だよ、もっと楽な仕事がないかな?』そう言いながら、彼は誇らしい笑みを浮かべていた。
『楽でもつまらない仕事より、やりたい大変な仕事のほうが充実していると思うよ』そのくらいのことしか言えなかった。
 彼の若さが眩しく頼もしく、少しだけまだ気掛かりだった。

 歳末の街中には、冬でも滲む汗を光らせて働く人がいる。外の現場仕事では、カイロを貼りまくって寒さを堪えて立ち働く人たちもいる。
 そして私も今日は事務や電話応対に励んで、明日は家事に勤しむ。家の中で誰かのために家事、育児や介護に追われる人たちがいる。生き辛さに横たわり、ひたすら耐える人もいるだろう。

 燦然たる月光が降り注ぐように、全ての人の心と身体にほっこり寛ぐような時間が多く訪れますように。
 憂き世を生き抜く人たちに、あまねく幸あれと願わずにはいらない年の瀬である。
      《了》

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