なにもない........
朝、目が覚め、テレビをつけると、ニュースキャスターが淡々と語りかけてきた。
「おはようございます。本日は特にお伝えするニュースはありません。事件も事故も、何も起きていません。」
眉をひそめながら、チャンネルを変えてみるが、どこでも同じことを繰り返している。「今日は何もない日」らしい。頭の片隅に引っかかりを感じつつ、ため息をついて新聞を取りに玄関に向かった。
新聞を広げると、思わず息をのんだ。紙面が、ほぼ真っ白なのだ。ほんの数行、「今日は特にお伝えするニュースはありません」とだけ書かれていて、それ以外は余白が続いている。あちこちの欄を見ても同じで、事件、政治、経済、すべてのページが「特に報告することはありません」とそっけなく記されているだけだ。今まで一度も見たことのない、異様な紙面にただただ呆然とした。
「新聞まで…?」とつぶやくと、何かが違うぞ、という感覚がどんどん膨れ上がってくる。いつもならニュースを見ながらさっと目を通す新聞も、今日に限っては読み終えるどころか、読むものが何もない。
散歩がてらコンビニに立ち寄り、別の新聞も手に取ってみたが、どの新聞も同じだった。どれも「今日は特にお伝えすることはありません」だけが印刷されている。しんとした空気の中、レジに立つ店員さんも、どことなく無表情で、ただ機械的にお釣りを手渡してきた。
「何もない日か…。こういう日があると、平和なものですね」
店員がぼそりとつぶやくのが聞こえた。思わず振り返ったが、その表情はどこか虚ろで、生気が感じられなかった。何もない日が続けば平和だというけれど、なぜか胸の奥に不安がわき上がってきた。僕が望んでいるのは「何もない日」なんかじゃないのかもしれない。人が生きている証は、むしろ何かが「ある」ことにこそあるのではないだろうか?
家に戻り、夕方になってもう一度新聞を見たが、やはり何も増えていなかった。テレビをつけても、朝と変わらずニュースは同じことを繰り返している。「今日は何もありませんでした」と、静かに、無機質な声で繰り返しているだけだ。
夜、ベッドに横になっても、心は妙に落ち着かない。もしかして、明日も同じなのだろうか?世界は、少しずつ「何もない」が当たり前になってしまうのではないか?考えれば考えるほど、何もないことの恐ろしさが胸にしみ込んでくる。こうして、人は少しずつ生きる意味すら忘れていってしまうのかもしれない。
そして翌朝、恐る恐るテレビをつけると、画面の中でニュースキャスターが語り始めた。
「おはようございます。本日、全国で…」
その一言に、不安の中にあった心が少しだけ軽くなった。「何もない日」から解放されたことに、今まで味わったことのない安堵が広がった。悪いニュースも、良いニュースも、それがあることで僕たちは確かに生きているのだ。いつもの日常が戻ってきたことが、これほどまでに嬉しいとは思いもしなかった