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なにもかも終わりにしたくなったなら
中3、中1、小4。
かんしゃく。
不登校。
子煩悩な母。
仲良し一家。
子どもが大好きで子どもを一番に考えて
自分のことは後回し。
だけど、3人の子を殺めてしまった母。
昨年末の事件だ。
子育ては悩みが尽きない。
ちょっとしたことで鼻歌をうたったり、
ちょっとしたことでドン底に落ちる。
その日、
体に不調があったのだろうか。
誰かに責められたのだろうか。
嫌なことがいくつも重なったのだろうか。
自分に責められたのだろうか。
自分の間違いに気づいてしまったのだろうか。
正常な思考でなかったのは
間違いないだろう。
感情に身を任せて
うっかり過ちを犯してしまっただけなら、
もっと事は小さく済んでいた。
自分を守るよりも、
誰かの心を守ったのだろうか。
誰も想像できない。
彼女は、重大な罪を犯した。
子どもたちには未来があった。
しかし、彼女が極悪人かどうかは
また別の問題だ。
国民の中でも、
誠実に向上する部分と
怠けて時間を無駄に使う部分を
うまくバランスとって生きている人は
たくさんいる。
しかし、子育てにおいてはどうだろう。
生きづらさのは低年齢化は年々進んでいる。
「子どものために」お金をかけ
スケジュールを埋めている。
もっと。もっと。
あの子はもっとがんばっている、と。
学校に行っているだけで
外出できるだけで
呼吸をしているだけで
ありがたいのに。
親の緊張が強いほど
親の抱える課題が重いほど
子どもは表現する。
泣き
かんしゃく
甘え
指しゃぶり
腹痛
不登校
いじめ
非行
これらは、
愛情不足のサインなんかではなくて、
お父さん、お母さん、
無理しすぎてるよ。
休んでよ。
気楽に生きてよ。
悲しまないでよ。
幸せになって欲しいよ。
そんなメッセージなのだろうと感じる。
うちもありました。
これからもあるかもしれません。
子育て支援に携わる
スタッフひとりひとりは
心を込めて働いている人もたくさんいると思う。
子育てに携わる人、
プロとして母子に関わる人が
変わるだけでは
世の中は変わらない。
ひとりひとりが、
力を抜いて生きること。
それが、悲しい事件を減らして行くと思う。
感情をコントロールできない人だと
咎めれば済むか。
相談する先を増やしたら
それは解決するか。
責任を果たすことばかり
考えていないか。
相手を許し
自分を許すことを忘れていないか。
誰もが罪深いことを忘れていないか。
だから、子育ては全員、
綱渡りだと言っているんだ。
美しく渡らなくていい。
がむしゃらに
みっともなく
命綱をつけて
フーフー言いながら
渡り切ればいい。
その時には、
側にいてくれる人が必要なんだ。
アドバイスなんていらない。
いいよ、そのままでいいよ、
十分にやれてるよ、
そう言ってくれる人が必要なんだ。
この国の子育てが
正しくあろうとしている限り、
悲しい結末は繰り返される。
🕯️
芯が一本通ってるとか
地に足がついているとか
そんな風に私を表現してくれる人もいる。
確かに、ブレやすそうに見えて
ブレないところはある。
でも、こころが弱くなると
ふっと吹けば終わりになりそうな
ロウソクの先でゆれる火のように
自分を感じたりもする。
なにもかも終わりにしたくなったら、
せっかくの命を、
「やりたいけど躊躇していること」に
使うことに決めている。
バンジージャンプ
スカイダイビング
命がけ登山
山伏修行
世界の果ての通学路コンプリート
それで生き残った時には、
生きたいという気持ちで
満たされていると思う、きっと。
そして、それでも元気がでなかったら、
フィリピンのゴミ山で赤ちゃんを育てたい。
食べ物がある。
屋根がある。
平らな場所で眠れる。
それだけで感謝できるはずだ。
わが子がどんなに泣き喚こうが、
ベビーカーに乗ってくれなかろうが、
夜泣きしようが、
それで自分を責めることは
きっとないはずなんだ。
逃げよう。
現実から。
何もかも終わらせる前に。
すっきりさせずに
曖昧なままでいいんだよ。