映画「午後3時の女たち」
おそらく多くの人と同じように、自分も「タランティーノが選ぶベスト10」という謳い文句に惹かれて観ることを決めた。最初、マッケナ(ストリッパー)がジェフ(旦那)またはレイチェル(妻)と関係を持ってしまい、夫婦の危機が訪れる的な映画かと思っていたが、なかなか関係を持たないまま後半まで来てしまい、結局最後までマッケナが夫婦と関係を持つことはない。面白くなかったわけではないんだけども、もっと大事件を期待していた分、何となく消化不良感が残る。なぜなのか。
この映画のミソは、登場人物の中に誰一人、悪意を持った人間がいないことだ。悪意を持った人間は一人もおらず、それぞれがそれぞれなりの切実な思いを抱えている。旦那とのセックスレスを改善したい、退屈な日常に何か刺激を加えたいレイチェル。住むところを失い途方に暮れるストリッパーのマッケナ。そんな二人が出会い、レイチェルはマッケナをベビーシッターとして雇い、自分の家に住まわせることにする。そこには本音と建前があったにしろ、お互いに相手を陥れようという気持ちはない。(むしろレイチェルには、本当にマッケナを救いたいという気持ちも少しはあったかもしれない)。映画を見ている自分は俯瞰で見れるので、そんなことやめておけば…と思えるが、登場人物達はそれぞれが切実で、だからこそ気持ちのすれ違いがあり、なかなかこちらが期待したとおりの展開にはならない。でも、実際の私たちの生活もそんなものだと思う。他人から見たら些細な悩みでも、自分からしたら切実で、気持ちが大きくなった時に行動してみたりするけど、自分の意図とは違う方向に進んでしまって後悔する。普段私たちが映画を観るときは、この人間がいちばん悪者だなと何となく考えながら観てしまうけれど、この映画にははっきりと悪意を持った人間は出てこない。出てくるのは人間らしさ(臭さ)を持った人間であり、人間らしさに起因したあれこれが、この映画の魅力でもある。