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学校図書館に『目玉の話』があった話と、目玉の話の話


私の学校の図書館に置いてある海外文学はなぜか光文社古典新訳文庫出版のものが多いので、もしかしたらと思い探してみたら、ありました。バタイユ小説の白眉『マダム・エドワルダ/目玉の話』。

バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』
中条省平訳

えぇ…(困惑)

随分あっさり見つけてしまった。この本が許容範囲だと言うのなら世の大概の本はあらゆる蔵書基準を簡単に満たしてしまうと思うのは私がまだ青いからでしょうか。そもそもコイツは他の海外文学作品と並んで学校図書館を住処としても許される書物なのでしょうか。

正気かしら。ならば少なくとも学校側はラノベ禁止云々言っている場合ではない。

まあこちらとしては何の不利益も被っていないのでこの件でとやかく言うことはありませんね。気を取り直して目玉の話の話をします。


『目玉の話』の話

もはや説明不要なのではないかと思うほどの著名なトンデモ本(矛盾)です。
内容をご存じない方がいればぜひ今ササっと調べて察していただきたい。そして苦手だと思った方はここでUターンをお願いします。

中条省平訳、光文社古典新訳文庫出版のこの本は『マダム・エドワルダ/目玉の話』の二作品が収録されています。数ある作品の中で、この二作品がセットで一冊の本にまとまっているということがまた感慨深いですね。

『マダム・エドワルダ』という作品は1941年に同作者によって書かれた短編小説です。彼の作品を解釈するうえで欠かせない「死」と「エロス」という根源的なテーマがこの作品にもしっかり流れています。ちなみに裏表紙のあらすじ欄によると「極限のエロスの集約」だそう。何とも潔くて素晴らしい書評!
そして読み終わった直後の感想は「なるほど、分からん。」でした。

一方で目玉の話。何から話せば良いのか分かりませんが、マダム・エドワルダと比較してみると、表現がかなりストレートな分かりやすい文章で構成されているというのが正直な感想です。実際作中で何が起きているかというのも嫌というほどはっきり理解できる。これがまた恐ろしい所ですね。特にラストのトラウマシーンなんかもし目の前で起きたら発狂ものですよ。視覚から得る情報というのは強烈なもので、それが(表現の仕方にもよりますが)文字の羅列に置き換えられると、途端にすんなり理解されてしまうことがよくあります。

この二作品が非常に対極的な性格を持っていることは言うまでもありませんが、面白いのは、両作品が「死」と「エロス」という共通の題材をテーマとしている上に、その向かうところも表面的には大差がないということ、つまり、”究極の到達点としての死への望み”が双方に見受けられるということです。しかしそこへ向かう姿勢に両者の決定的な違いがあります。

マダム・エドワルダの最後は「残ったのは皮肉な気分、そう、死への長い待機……」という文章で締めくくられていますが、一方、目玉の話では全体を通して、あらゆる破壊的な状況がいつも「僕」とシモーヌとその周辺によって形作られていくのが一目瞭然。前者は死をひたすら待機するのに対し、後者は積極的にそれを求めているのです。この、あらゆる考察厨の恰好の餌食「共通点の中に見出される相違点」要素がこの一冊にふんだんに盛り込まれているので、例に漏れず私としてもよだれを垂らさずにはいられませんでした。


思ったよりも長くなってしまった。本当は「学校に目玉の話あってほんまにワロタwwwww」程度のことが言えれば満足だと思って書き始めたのですが、折角だし本紹介でもするか…などと軽い気持ちで続けたら中々止まれませんでした。


以上です。気になった方は是非読んでみてください。多分そこら辺の本屋で探すのは至難の業なのでネットで注文された方が圧倒的に早いと思います。ちなみに初稿の題は『眼球譚』で、訳出的にもかなり味が違うと思いますがそちらも是非。



読んでくださった方ありがとうございます。

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