鍵を落とした
鍵を落としました
今日はヨガ教室の日だった。
ふとカレンダーを見ると、「ヨガ 生涯学習センター」と書いてある。
いつもの公民館が生涯学習センターに変更になったのだった。
これは忘れてはいけないと、手の甲に大きく書いた。
公民館までは2キロほどある。
少し遠いがウォーキングを兼ねてはるばる歩いている。
生涯学習センターはそれに比べると少しだけ近い。といっても1.5キロはあろうか。
6月中旬。暑い日だった。
私はヨガの支度をすると家を出た。
そして変更になった生涯学習センターではなく、いつもの公民館の前にいた。
間違えた。
手に書いたのに。
暑いのに。
自分に呆れ、悔し涙を飲み込んで、私は引き返したのでした。
それにしても暑い。
ヨガで老いた体を動かすうちに、先ほど炎天下を延々と歩いたせいか、吐き気がしてきた。
普段動かさないところをいろいろあーせよこーせよと言われる。
つらい。
途中でよほどリタイアしようかと思ったがなんとかやり終えて、ほっとして帰路に着いたのだった。
さてここまでが序章です。
悲劇の本番はここから。
再び炎天下1キロ半を歩き、やっと家に着いた。
扇風機をつけて座椅子にそっくり返ってコーヒーでも飲みながらテレビを見よう。
鍵を取り出そうと私はポケットの中をまさぐった。
???
ポケットの中にあるべき鍵の固い感じがない。
ポケットはぺしゃんこ。
ない。
鍵がない。
鍵がないーーー!?
多分生涯学習センターに忘れた。
マスクを和室の畳に置いて、その上に鍵を置いたのは覚えている。
ヨガが終わってマスクをして月謝を払ったのだ。
あの時だ。
あの時慌ててマスクだけして、鍵はそのまま置き忘れた。
生涯学習センターに電話をしよう。
予備の方法で家に入り、生涯学習センターに電話をした。
100%そこにあると信じていた。
「探してみます。折り返し電話をします」
センターの女の人の声を聞きながら、車で取りに行こうと考えていた。
そしてしばらくして電話があった。
「よく探したんですが、鍵はありませんでした」
目の前が真っ暗になった。
その時はもう私の頭の中は、生涯学習センターに鍵はあると思い込んでいたので、私は車を飛ばして学習センターに飛んだ。
トイレかもしれない。
帰りにトイレに行ったのだ。
学習センターを再びくまなく探す。
和室とトイレ。
でも、ない。
和室を開けてくれた若い女の子は、気の毒そうな顔をしていた。
がっくり肩を落として老婆(私です)は家に帰ったのでした。
さて帰宅して1番先に考えたのは、無意識にかばんの中に入れたのではないかということ。
私はかばんの中身を全部出して確認してみた。
ありません。
これはもう道に落としたとしか考えられない。
私はもう一度歩いて生涯学習センターまで行くことにした。
しかし暑すぎる。
熱中症にならないだろうか。
私は倒れないだろうか。
しかしその時は自分のテンションは異様な感じになっていて、今ならいけると謎の自信がわいてきていた。
ヨガの時あんなに感じていた吐き気もない。
私は再び炎天下に飛び出した。
道路をくまなく探す。
目で歩道をなめるように。(想像するとキモチワルイが)
しかし、ない。
ない。
倒れるかな自分、と思いながら歩いた。
熱中症で倒れたら救急車来るかなあなんて思っていた。
とにかくそんなこんなで、生涯学習センターに着いてしまった。
なかった。
ああ、なかった……。
帰らなきゃ。
暑い。
とぼとぼと帰路を帰る。
再び歩道をなめるように探す。
人生はプラスマイナスゼロだというしなあ。
そんなことが頭に浮かんだ。
鍵を落として暑い中探し回って、結局なかったなんていうマイナスがあったんだ。
これからいいことがあるかもしれない、と考えだす。
息子が就職できたのがいいことかもしれないと思う。
娘に赤ちゃんが生まれるかもしれない、なんて突拍子もないことすら考える。
これはひょっとしていい小説が書けるかな。
なんてもう願望が出るわ出るわ。
願望が出るわ出るわ。
訳もなく2度言いました。
そんなふうに家に近づくのだが、そこらあたりで、もうこんなに探したのだから満足だと思えてきた。
見つからなくても納得できる。
がんばったのだから。
ああ、がんばったなあ自分。
鍵なんて拾っても、どの家かわからなきゃつかえないもんな。
ただの鍵の形をした金属だもんな、などと言い訳のようなことも考えていた。
とにかく、頑張ってダメだった受験生のように、頑張ってダメだったスポーツ選手のように、ダメだったけど頑張ったもんなと自分をほめていた。
家に帰ったら水分を取ろう。
こんなに炎天下を歩いちゃった。熱中症案件だ。
生涯学習センターへ1往復。6キロは歩いたろうか。
とうとう家が見えてきた。
と、勝手口扉の手前、小さい門のようなところに、
あれ? 鍵?
鍵!
それはあった。
灰色のコンクリート地面の上にそれはあった。
同系色の灰色の鍵、それに銀のくまちゃんのキーホルダー。
キーホルダーはもっとピカピカだと思っていたが、実際よく見ると灰色だった。
コンクリートと全く同じ色。
よく見なければ分からない出で立ちだ。
そうか、こんな色だったんだ。鍵のくすんだ色を見て、今さらながらそう思う。
じわじわと喜びがわいてくる。
やったー‼ という飛び上がるヨロコビではなかった。
うれしい感じが静かにじわじわときた。
あって、よかった。
私は熱中症が心配だったので、家に入り冷たいお茶をコップ一杯飲んだ。
ああ、あった。
まわる扇風機を見ながら、また思った。
それから大きくため息をついた。
頑張ったなあと、うれしいため息だ。
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