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自伝 / 死にたいながらも生きていく 

はじめに

こんにちは。くない加です。
今回は、幼少期からメンヘラ気質だった私の人生を振り返って書いてみました。
個人的な出来事を綴ったものですが、読者の皆さまの中にも共感していただける方がいらっしゃいましたら幸いです。

幼少期

祖母

死にたいと思うようになったのは、いつ頃からだったのだろうか。
記憶の中では確か、小学校一年生。いや、年長くらいだったかもしれない。
私は太っていて、無口で、無愛想な子供だったから、友達を作ることも苦手で、先生にもあまり可愛がられなかった。自分に自信がなくて、同級生ともうまく溶け込めず、いつもなんとなく孤独感と劣等感を感じていたと思う。

私の家は二世帯で住んでいて、家には両親と、妹と、母の両親、つまりは私の祖父母と一緒に生活していた。私の母と祖母(母方の母親)はあまり仲が良くなくて、頻繁に言い争いや喧嘩が発生していた。(後から思ったことだけど、祖母はおそらく若い頃から精神を病んでいて、加えてその頃になると認知症、アルツハイマーの初期症状も現れていたようだった。)祖母は精神的に不安定で、調子が悪い時や、何か気に食わないことがあると、いつもイライラして周りに感情をぶつけていた。
怒りの対象が向くのは大体私の母親か祖父で、祖母が暴れた時にはいつも怒鳴り声が響いていて、みんなで祖母を落ち着かせるのが大変だった。
加えて私も不安定で、癇癪を起こして白目を剥き激しく泣き暴れたりしていたから、本当にこの頃の母は大変だったと思う。

祖母はよく死にたいと口にしていた。
母から聞くに、それは母が子供の頃からだったようだ。祖母が死にたいというと決まって家の中の空気が冷たくなった。下手に対応してもまた祖母が暴れ出すだろうから、家族全員が気を遣っていたように思う。私はいつも胃の奥をキュッと痛めて祖母を刺激しないようにじっとしていた。
「もう殺してくれ!」と、包丁を持ち出して暴れたり、夜中まで怒鳴り散らしたかと思えば翌日死にたいと連呼して周りを振り回す祖母に、家族全員が疲弊していた。
死にたいという言葉は周りを困惑させて疲れさせてしまうから人前で言ってはいけない言葉だと、私はこの時学習した。

自傷のはじまり

死にたい気持ちから思い出される、一番古い記憶の中で、私は自分の指をハサミで切ろうとしていた。小学校一年生の夏休み、夕日が差し込む部屋で勉強机の前に座って、母の帰りを待っていた時だった。
急に私の頭の中に劣等感の渦みたいなものが湧き上がってきた。太っている自分にかけられた言葉、人見知りで人前で話せない自分、話すと毒舌と言われ嫌なやつになってしまうのに肝心な時に強くいえないような弱い自分、そんな自己嫌悪の塊みたいなものが、いきなりぐるぐると頭の中を支配してしまって(こんな自分なんて死んでしまえばいい。)そう思って、ペン立てにあったハサミで人差し指を強く挟んだ。
幸い、指は少しも切れずに祖母に見つかってしまい、
「何やってるの?」
と言われて事を終えたのを覚えている。
まさか小学校一年生の子どもが自傷行為をするだなんて思わないだろうから、その時はただのイタズラに思われて事を終えた。
それからのことはあまり覚えていないけど、とにかく小学校時代で自傷行為を試みたのはそれっきりで、あとはひたすら妄想にひたって現実逃避をしていたり、高学年になるにつれて思春期に差しかかるということもあって、憂鬱よりも怒りの感情の方が強い日々だったように思う。時々感傷的になりすぎてしまったら、自分の感情を落ち着けるために、ひたすらに絵や文章を描いて過ごしていた。

中学時代

条件付きの価値

中学校に上がって、中学デビューを試みた思春期の私は、多少の社交性を身につけて人と関わるようになっていた。
これまでの、人見知りで太っていて根暗な自分というセルフイメージを払拭するかのようにダイエットにも励んだ。明るく楽しい自分になりたかった。私は今までの自分では考えられないくらい、人前で笑うようになった。面白いキャラになりたくて、ギャグを言っておちゃらけた。お笑い芸人のネタも頻繁にTVで見て研究するようになった。時々、自分がまるで道化師のように思えて、本当は根暗で人見知りな性格なのに、必死にキャラクターを演じているのがバレてしまったらどうしようと恐怖した。クラスで目立つポジションにいる子たちと関わるたびに、陰キャである自分が見透かされているような気がして胃の奥の方がキュッと痛んだ。それでも平然とボケたりヘラヘラして過ごした。

それなりに体型に気をつかうようになって、自分の体に満足してきた中学1年生のある晩、母親に体重を聞かれた。
私は自分が全く太っていると思っていなかったので、素直に答えた。
「45kgだよ。」
すると母は言った。
「へぇ、意外と(体重)あるんだね。私が中学生で同じくらいの身長だった時は42kgくらいだったのに。そういえばあんた最近よく食べてるもんね。」
ショックだった。
自分ではもう十分だと思っていたのに、まだまだ周りから見たら自分はデブなんだ。母親が42kgであったのならば、私はそれ以下の体重でなければいけない。そう思った。
当時13歳、身長157cmにして体重45kg 、BMIは18.3と全く太ってなどいない。
しかし、体重の他にも顔立ちやテストの点数、50m走のタイムまで母親の過去と比べられることがあった私は、母親に絶対に負けたくなかったのだ。
痩せなければいけない。
ちょうど学校にも慣れてきて、少し勉強をサボりがちになっていた頃だった。
今の自分はだらしなくて太っていて弱くてダメダメで生きている価値のない人間だから、自分はもっと頑張らなくてはいけない。でないと人に認めてもらえないんだ。そう強く思った。
元々完璧主義的だった私だが、その時からさらにその傾向が強まった。加えてADHDである妹が勉学に励まないことや、激太りしてしまったことを家族の中で詰められているのを見て、この家ではバカとブスとデブには人権がないのだという極端な思い込みをするようになった。
私はより一層自己管理に努め、勉学、そしてダイエットに励んだ。どちらも数字で管理がしやすかったので、少しでも良くなれば自分を褒め、できない時は自分を責めた。
完璧でないだらしなくてダメな自分など許せなくて、そんな自分には生きている価値などないと思った。
0.1kgでも体重が増えたら朝から死にたくなった。そんな自分に罰を与えるように食事を抜いたり、爪で腕を傷つけたりした。
完璧主義は他人にも強要するようになった。
少しでも自分の決めたルールに反する人を見ると、ものすごくイライラした。
加えてその頃、過敏性腸症候群(ストレスや緊張によって便秘や下痢、おならが頻繁に出るようになる病気。自分ではコントロール不可な症状)にも悩まされるようになり、頻繁に行われる集会が地獄のようだった。

私はマイルールを守れて結果を出せた時にのみ自分の価値を見出し、少しでも気に入らない自分になってしまった時は激しく落ち込んだ。
条件を満たせなければ、生きている価値などないと思い込んでいた。

高校時代

愛すること、愛されること

高校に進学して新たな友達を作った私は、はじめて人に悩みを打ち明けるようになった。同じ部活の親しい友人に、今まで悩んできた過敏性腸症候群のこと、そしてダイエットを始めたはいいものの、食べることが怖くて罪悪感を感じるようになってしまい、すごく苦しい時があるけどやめられないことなどを話した。
友人は最後まで私の話を聞いてくれた後に、
「今までよく頑張ってきたんだね。」
と、優しく言ってくれた。あまりにもそれが嬉しくて嬉しくて、私の心の中にあった氷の塊が、じわじわと溶かされていくような感じがした。
それからも友人は時々心配して声をかけてくれたけれど、基本的にはまたいつも通りふざけ合っておしゃべりをしてくれた。私はそれがたまらなく嬉しかった。
その友人からは、人を愛するというのはどういうことなのか、たくさん教えてもらった。彼女は人に与えることを、とても自然に行なっていた。本気で人のことを心配し、好きだと言って笑っていた。
そこに打算も疑いもなかった。ただ目の前の相手をいつも見ていた。
だからといって人に合わせすぎることもなく、嫌なものは嫌だといって、時々弱さも見せてくれた。
なんて魅力的な人だろうと思った。
人に愛される人というのはやはり、目の前の人のことも、そして自分自身のことも、同時に愛せる人なのだと、この時彼女と出会って感じた。

この後も時々私は死にたくなったが、いつも彼女がそばにいてくれた。
ふらふらと車道側を歩いていると、「危ないよ」と言って手を引いてくれた。駅のホームで憂鬱な顔をして立っていると声をかけてくれた。
私は死ぬことを考えるのがバカらしくなってしまった。いや、彼女に対して失礼であると思うようになった。

大嫌いで自信のなかった自分の身体も、部活である陸上を続けるうちに好きになってきた。あまりにも彼女がそばにいて笑ってくれるから、私は自分自身を、少しずつ愛せるようになった。この世界には安心できる場所があるのだと思った。自分自身を受け入れ、愛するようになり始めて、私は周りの人たちや、日常を大切に思えるようになった。
死にたい気持ちは、いつの間にか消えていた。

幸せとは何なのか


家で頻繁に祖母が暴言を吐いて暴れていた頃、家の中が荒れずに、ただ家族で平穏に過ごせることこそが、私にとっての幸せだった。お父さんと、お母さんと、おじいちゃんとおばあちゃんと、妹と、私。みんなで一緒にご飯を食べて、お出かけして、テレビを見る。私が言ったことにおばあちゃんもお母さんも笑ってくれて、「ああ今日は大丈夫だ。みんなニコニコだな。」と、ただただその一瞬の平和を噛み締めていた。
いいことがあった日よりも、嫌なことがない平凡な日々が好きだった。いいことがあったら、代わりにまた不幸な出来事が襲ってくるような気がして怖かったから、とにかく何事もない日々を送れますように、と毎年こっそり初詣で祈っていた。

中学校にあがって、過敏性腸症候群に悩まされるようになると、集会がなくて、症状にも悩まされずに平穏に過ごせる日々が私にとっての幸せとなった。加えて大好きな美術の時間があったらもう最高だった。
その頃の私は少しの余白と描くものさえあれば、水を得た魚のように落書きを楽しんだ。
腹痛やオナラに悩まされずに1日を終えること、絵を描くこと、そして友達と馬鹿話をすること。それこそが当時の私にとっての最高の幸せな時間だったのだ。

高校生になって、祖母が施設に入り、過敏性腸症候群も自ら編み出したメンタルコントロール方法で少しずつ対処できるようになった頃、私は努力して結果を出すことこそが最大の喜びであり、幸福であると思うようになった。
また、最高の友人達に囲まれて日々を過ごせたことが本当に幸せだった。
今まではマイナスがゼロになることが幸せや喜びだったのが、ゼロがプラスになることが幸せであると言えるようになるまで、私の周りの環境は良くなったということだ。 

私は劣等感を感じながらも、そんな自分を変えるべく、また不満を感じているこの田舎な地元から抜け出すためにも日々勉学、部活に励んでいた。やり方を変えて工夫したらその分点数が上がったり、部活で陸上のタイムが速くなっていくのは嬉しかった。自分の人生がどんどんいい方向にいっている気がして興奮していた。
また、陸上を始めたことで身体に対する巨大なコンプレックスや食への恐怖も少しずつ薄れていき、カロリーのことを気にし過ぎずに友達と「美味しいね。」と言ってご飯を食べること、食べられるようになったことが、本当に本当に幸せだった。

私はできるようになったんだ。私は普通に食べられるし、家も平和だし、自分で自分をコントロールできている。大丈夫、少しずつ私は自分の力で人生をよくできているんだと、自己効力感に満ち溢れていった。
このまま私の人生は、すごく上手くやれるんじゃないかと、本当に心からそう信じていた。

高校卒業後、浪人生になった。
環境が変わり、慣れない場所で予備校に通いながらの一人暮らしが始まった。
コロナ禍の閉塞感、また受験や将来への不安などのストレスからか、今まで大切にしてきた、自分をコントロールすることと、自分と向き合うことが、本当にできなくなってしまった。自分を厳しく律しようと思えば思うほどストレスを感じ、自分との約束を守れない日々が続いていった。
この頃の幸せとは何だったのだろうか。
思い返してもよくわからない。

無事受験を終えて、"憧れ"だった芸大生になれた後も、なぜかずっと幸せではない感じがしていた。
最愛のパートナーである、愛猫のとらを亡くしたからだろうか?
それもそうだが、もっと何か大切なものが欠けてしまったように思える。
一人暮らしを始めて、もう家は平穏になったし、過敏性腸症候群は落ち着いたし、好きだったはずの美術の道にも足を踏み入れている。バイトでお金だって稼げるし、門限もないから以前よりずっと自由に行動もできる。彼氏も出来た。なのに、ずっと、空っぽなのだ。昔より満たされている。けれども、ちっとも幸せじゃなかった。
それは私が孤独感を感じているからなのだろうか?一人暮らしで乱れた生活習慣のせいなのだろうか?あるいは先の見えない将来への不安?成人して、これからのしかかってくる責任に対してか?

私は、不幸がなければ幸福を感じられない人間なのだろうか。
満たされない。
空っぽで、虚無感があって、生きているのか死んでいるのかわからないような憂鬱が、だらだらと3年くらい続いている気がした。

幸せとは本当に何なんだろうか。
幸せとは、環境やその人に起こっている不幸な出来事とは、全く関係のない所に存在しているものだったのだ。
マイナスを埋めて、埋めて、ようやく平らに近いところに立てたと思ったら、目指していた輝かしい未来という幻想は、いつの間にか私の前から溶けるみたいに消えてしまった。
衣食住も保証され、いざ自由を自分の意思で掴み取る権利を与えられた途端に、私は狂った方位磁針のようにぐるぐるぐるぐると行き先を見失っていた。
これからどう生きたらいい?
幸せを見失ったこの世界で、私はどうやって戦って生きていけばいいのだろうか。

死ぬくらいなら壊してしまえ

生きる理由を見失った私は、しばらく引きこもったのちに自己破壊的な行動をより一層とるようになった。無気力で誰にも会わずに死んだように過ごしたかと思えば、イライラして衝動を抑えきれずにカミソリで手首を傷つけたりもした。恐怖や痛みを前より感じにくくなったのかもしれない。将来なんてどうでもよかった。もう死んでもいいと、川にかかった橋の上で1人泣いたりもした。この世界に私の命を繋ぐ理由なんて、何一つないように思えた。

ふと思った。ならば全て壊してしまえと。
その時は死にたい気持ちは落ち着いていて、むしろ少し興奮気味だったかもしれない。
死にたいと言いながらも、その場に留まるのは何故だろう。どうせ死ぬのも怖くないのならば、ずっとやりたかった世界一人旅に出かけよう。いや、むしろ死の恐怖を感じるような、ドキドキする刺激が欲しい。
それこそが今の私に必要なものなのではないか?
こうして私は大学を休学して旅に出ることを決意した。
休学などありきたりといえばありきたりな選択であるが、私は無意識に不安だからという理由で現状維持を選んでいたのだった。
苦しい現実を打破するためには変化が必要だったのに、私はそれを恐れて避けていたのだ。休学届けを出すと、これから自分は大丈夫なんだろうかという将来に対する漠然とした不安と共に、微かな希望が見えた気がした。バックパッカーや一人旅についての書籍をめくるうちに、これからの挑戦に興奮していく自分がいた。まだもう少し、この挑戦が終わるまでは生きていたいと、そう思った。

希死念慮との和解

21歳の今思うこと

死にたい気持ちのメリットに気がついた。
ずっと死にたい気持ちと一緒に生きてきた。
私がこの感情から受け取ったものはなんだろう?

違和感に目を向けるきっかけ、束の間の現実逃避、心を表す言葉の追求、今を生きる理由探し、人生をどう生きたいのかを考えること。

それらは全て、死にたい気持ちが与えてくれたものだった。

死ぬことばかり考えていたから辛い現実から目を背けることができた。いいことがあったら、あの時死ななくて本当によかったと、涙を浮かべて深く感動することができた。死にたい夜を超えたあとの、空は本当に美しかった。祖母の気持ちを想像することができた。死にたくなるくらいの苦しい気持ちを処理するために、たくさん本を読み、自分の感情を適切に表す言葉を探し求めた。いくつか詩として昇華する方法を学んだ。
また、人生の最終到達点である死を迎える前に、やっておきたいことを考えた。おかげで自分が進むべき方向が見え、苦しくなったら軌道修正をすることができた。

希死念慮はいつも私を崖っぷちまで追い込むのと同時に、生きていくための道を照らしてくれていたのだった。

私の人生は希死念慮に支えられていた。

成人した今、私はまだ何者にもなれていないし、子供の頃に想像していたような大人にはなれなかった。中高生の頃の私が見たら絶句するくらい体重だって重いし、二の腕やお腹に脂肪だってついている。お金の使い方が下手くそで服もあまり買えないし、おしゃれでもない。
今までたくさん失敗もしたし、人に迷惑もかけたし、たくさん間違えた。情けない所だって何度も人前で晒している。
それでも。それでもやはり、私は自分の人生が誇らしい。たくさんの死にたい日々を乗り越えて、ここまで生きてきた自分を褒めてあげたい。
幼かった私が今でも声を上げて、満たされない気持ちに泣き叫ぶことがある。つられて落ち込んでしまう時もあるけれど、それでも最後は不安がる少女を抱きしめて、私はまた前を向いて歩いていく。

自分の弱さに劣等感を抱き、何度も死にたいと叫んだ少女は、それでも日々を生きていくことによって、少しだけ強くなれたのだ。

私はそうして大人になった。

これからもきっとそうやって、命を紡いでいくのだろう。

おわりに

あなたはいま、死にたいだろうか。
あるいは過去にそういった気持ちになったことがあるだろうか。

もし少しでも私がこの自伝を書くことで、楽にできる気持ちがあるのならば、作者にとってこれ以上に幸せなことはない。

私は側から見たら恵まれた家庭に生まれ、友人もいて、何不自由なく過ごしてきた人間だ。だからこの自伝を読んでガッカリしたり、腹を立てたりした人もいるかもしれない。「こんなに恵まれているのに、なに悲劇のヒロインぶっているのだ」と、思われた方もいるだろう。
世の中には虐待を受けて育ったり、病気や障害があったり、貧困に苦しんでいたり、どうしようもなく理不尽に苦しんでいる方たちがいる。世界は残酷だ。私もきっとその一部に加担していたり、巻き込まれたりしている1人の人間であるのだろう。
生きていることは、苦しいことでもある。気軽に励ましの言葉なんてかけることはできない。

ただ、それでも今を生きているあなたに、精一杯の敬意を表したい。

いま、つらい子供であるあなたへ。もしくは身体は大人になったけれど、まだまだ心の中で、小さい自分が顔を出して泣いているあなたへ。
あなたはこれまで本当によく頑張ってきたのだろう。苦しくても耐えてきたのだろう。その全てを抱きしめたい。なかなか難しいかもしれないが、今日は少しだけ、自分を褒めてみてあげてほしい。

今回は、取り急ぎ21歳の時点での私の人生について書いてみた。
書いたのは今より少し前でやや落ち込んでいる時期だったから、少し事実よりも悲惨に捉えて書かれているかもしれないことをここで伝えておく。
想定よりも長くなってしまったので、ここまで読んでくれたあなたに感謝申し上げる。

読んでくれてありがとう。
それではまた明日、元気でね!


2024年9月23日  くない加






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