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不思議な氷像現象は人類の意識の変容を投げかけていた

近辺に出現した不思議な氷像現象は人類の意識の変容を促すものであった

 これから記述することは平成20年2月9日から令和4年1月30日に至るまでの間に、10回に渡り、自坊に出現した氷像の記録である。これはきわめて不思議な形をしたものばかりである。
 初めは誰かのいたずらかと思うほどの珍しい形をしていたが、注意して観察しているうち、自然におきる現象であったのである。
 しかも、この記録では、出現のタイミング(予測できなかった)が、まるで大惨事を予見したかのように出現していた。
 とはいえ、それが出現したからといって、事件を予測できたわけではなく、世の中に事件が起きて初めて、どうも、出現した氷像は、もしかすると、この出来事を予見して、警告を発していたのかもしれないと思うだけのものではあるが・・・・ 
 しかし、東日本大地震にせよ、新型コロナウィルスス感染拡大にせよ、プーチンの戦争にしろ、パレスチナとイスラエルの紛争にしろ、事件が勃発して、初めて、われわれはびっくりするが、そうしたものは人的なものにしろ、惑星地球の動きにしろ、潜在的な脅威は長い時間をかけて蓄積されたものの表出なのだろう。それにしても、自坊にちょくちょく出現する氷像はどれをとっても、これらに事象に深く関連しているかのように思えたのである。
 
 あれほど甚大な悲惨な犠牲者が出ていてもなお止まない戦争は、この先、ますます悪魔化したのものの思う壺にはまらざるを得ないのだろうか。残念ながら、われわれはこうした暴力に対してあまりにも無力でしかない。
 そのような中で、一体、この氷像は何を物語ろうとしていたのか、それを探ってはいたのだが・・・・ 
 それとも、たまたまおきた自然現象にすぎないから、もともと意味なぞ探っても無いものなのだろうか?

いやいや、この氷像を見る限り、そうは思えず、むしろますます次のように思えてくるのである。
 (天は世界中に起きていることは全てお見通しであり、見えざる世界からは見透かされている。そして、人類が自らあらゆる欺瞞性による愚行に気づき、その幻想から一刻も早く解き放たれない限り、魂の修行の場は壊滅する。全人類が気づくときはイマしかないことを、この氷像は示していたのではないか)と・・・・・。
 それでは、記録を紹介する。(画像は多すぎるので一部である)

 
第1回目
平成二十年二月九日 (2008.02.09)
新月の早朝、小生が住む寺の手水石鉢に不可思議な形をした氷像が出現する。

氷像:三位一体の神像か


氷像:観世音菩薩か

この日の朝は、かなり冷え込んではいたものの、周辺に、ここ数日雪は降っておらず、また、軒下につららなどは全く無かった。雨水や枯れ葉が溜まった石鉢は従前から境内の庭先に無造作に置いてあるものである。

その凍てついた石鉢の小さな氷の面に、この日、すっくと、まるで観世音菩薩のような像が立っているのに気づく。よくよく観ると、まるで法衣を身につけてるようであった。しかも、三面に目や鼻や口まである顔のようにもみえる。まさか三身一体の聖像かと思われるほどで、非常に驚くものであった。氷像はこの日気温が上がるとともに溶けてしまった。

 しばらくは、これは、偶然の代物か、子どものいたずらだろうとかと思っていたのである。

 しかし、写した氷像を見ながら、この観世音菩薩のような氷像の湧出、不可思議なるものからの奇瑞であるとなれば、これはまことに畏れ多いことである。
 本当のところはどうなのか、わからないので、この日以降、毎朝、明るくなる前から、ずっと観察していたのである。

 しかし、その後全く、そういった氷像は出現せず、やはり、いたずらだったなあと思っていたのである。

 だが、2月22日、忘れかけていたのだが、早朝、手水鉢に氷像が形作られていいるのに気づく。しかも、今度は、観察中、どうも、徐々にではあるが、氷像が水中から伸びて来ているらしい状態をまのあたりにしたのである。

第2回目
平成二十年二月二十二日 (2008.02.22)
満月の早朝、石鉢にインドの「アルーナーチャラ山」と「シバ神の像」とおぼしき氷像が出現する。

氷像:ナーガか シバ神か


氷像:アルナーチャラと萬歳楽山に
降臨するシバ神
氷像:アルナチャラ山
インドのアルナチャラの丘

この氷像を観察して、いたずらによる人為的なものではなく、まさしく、自然に起きた現象であることが明らかになった。
 手水石鉢の湖面から氷の柱が湧出してきて、白龍か、シバ神の神像のようなものが伸び出した。その指し示す先の対面に、三角状の「氷の山」がはっきり出現している。
 ふとこの「氷の山」はどこかで見たような気がして、急ぎ、書斎に戻り、調べてみると、驚いたことに、それは、ラーマナ・マハルシの本の表紙に巻き付けられた山の写真にそっくりであった。実は、小生の書斎には、宗教的に関心のある書物で山積みになっていたのだが、日々、雑務に追われ、これらのものほとんどに目を通す時間がなかったものだが、かの山の姿は記憶にあり、どの本かを探したのであるが、インドにある「アルナーチャラの丘」と呼ばれる聖なる山の写真を見つけ、これだ!と比較して、氷像の山の姿まったく同じ姿ではないか!
 偶然にしては、恐ろしいほど似ている。この山は一体どういう山であろうと調べると、近代インドの聖者ラーマナ・マハルシが生涯こよなく敬愛し、崇めつつ、住んでいた聖なる丘すなわち「アルナーチャラの丘」であると書いてあった。
 ラーマナ・マハルシについてはほとんど知らない。仲人でお世話になった高徳の異常心理学博士が、国立大学教授を退官されるときに、彼が座右の銘にしてきた書物の中で、特に仏教書や宗教に関係する書籍類をまとめて小生にいただいたのだが、その中にも、ラーマクリシュナやシャンカラ、オーロビンド、ラマナマハルシなどのインドの宗教書が数多くあった。実は不誠実にも、小生は雑務に追われ、こともあろうに、じっくり拝読する時間もなかく、雑務の日々に追われていたのである。(あらためて、この教授からいただいたは書物に目をっとすと、驚いたことに、ほとんどの書物には、この教授は読み返した回数が書き込まれていてほとんどは10回以上にも及んでいて、要所にメモ書きも添えられていたのである。それほど大切にしておられた本であったのだ。)それにもかかわらず、小生はほとんどの棚積み状態にしていたのであった。というより、ほんとうのことを言えば、これらの書物はいずれも宗教的に非常に深いものであり、小生のような愚鈍な者が容易に理解できるものではなかったのである。
 氷像出現がきっかけとなったが、ラーマナマハルシは、不生の仏心を指し示した二十世紀最高の正覚者と尊ばれる聖者であった。彼は、十七才で、死との葛藤を超え、精神の至高の座に再生し、不滅の意識を悟得した。以来、生涯ずっと解脱の境地にとどまり、正法を示し続けた人であった。この希有なる覚者シュリ・ラマナ・マハルシは、聖なる山アルナーチャラに瞑坐し、一歩も出ることなく、沈黙の霊明なる光輝を全世界に発し続けていた。その教えは、平易にして、直裁。覚者中の覚者として、世界中に多大なる影響を与え、1950年に涅槃に入ったとされる。
 彼の「不滅の意識」は日本の禅僧盤珪が示した「不生の仏心」に通ずるものでもあることも、このとき理解したのである。

 このような次第で、この日の氷像から、氷像は単なる偶然の代物ではなく、不可思議なる啓示ではないかと思うようになったのである。

 (興味深いことだが、氷像現象は、大抵、新月の明け方、満月の明け方に起きている)

第3回目
平成二十年二月二十八日(2008.02.28)の下弦月

氷像:萬歳楽山


 この日の早朝、この手石水鉢に、まるで上空から空撮したような氷の山並み、それもこの近くにある「霊峰萬歳楽山」とその側にある「半田山」を連想させる氷像が出現する。(気温があたたかくなりつつあるので、単に、充分に氷像化仕切れないものだったかもしれないが、小生に強烈なインパクトを与えるものであった。)
 このときの氷像は、まるで日本の霊峰萬歳楽山がインドの霊峰アルナーチャラ山と繋がっているということが示されたようなものであった。

 霊峰アルナーチャラ山は南インド、タミル・ナドゥ州にある山の名称。ヒ
ンドゥー教の神であるシヴァ(破壊と創造の神)そのものといわれ、昔から
聖地として巡礼の対象となっている。チェンナイ(マドラス)から南西約200KMのところにある町、ティルヴァンナーマライにある。霊峰アルーナ
ーチャラ山はインドのシバ神の本体とされ、二十世紀最高の覚者の一人ラマ
ナ・マハルシがビシュヌ神とともに、法眼圓明なる不生の仏心(真我)の光
輝を放ち続けている山である。

 アルナチャラは仏教のアシャラノダすなわち不動明王のことを云い、霊峰
アルナチャラ山は地球に降臨したもうアシャラノダの寶盤山(大盤石)であ
る。

 霊峰萬歳楽山はこの霊峰アルナーチャラ山と霊的に関連していることをこの寺に出現した氷像が物語っているように思えたのである。

 氷像はインドのナーガという神体すなわち蛇神(これは龍神でもあり、か
つ、シバ神でもある聖体)を形状かして示されたと考える。そもそも、龍
(ナーガ)は天地を貫くエネルギーを示すもので、小生が、萬歳楽山に入山
するに際し、最初に出現し、導いてきたものでもある。

 それは、萬歳楽山周辺に残る伝説上でも大白蛇、九頭龍・そして八大竜王
の難陀竜王(春日大明神)が密かに伝えられてきていたようである。

 龍王が現在もこの山を擁護していることを直接伝えられたと思っている。

 さらに、驚くべきことは、寺に顕れた氷像によって、龍神の本体がイ
ンドのシバ神とも通じているのではないかということであった。

 龍の持つ本質は上記のシバ神の破壊と創造のエネルギーを示すが、そのほ
かにそのエネルギーの本質である遍在性を示している。この遍在性の本質は、奇しくも、ブッダ釈尊の親説や南インドのナガールジュナ(真言宗の第八祖である龍樹菩薩)が示した「空・阿字本不生」をあらわすものであると考えている。


霊峰萬歳楽山


  ところで、小生が不思議な導きを得て、萬歳楽山が指し示すものは、「月」と「鷹」と「自由なる意識」であることを感受した経験がある。
「月」は「本初不生」即ち「光り輝くもの」を指し、
「天かける鷹」は如来の境地にたつこと、
「自由なる意識」は「自己変革」をおこし不生の仏心に目覚めることであった。

  こうして、この年、水鉢に繰り返し湧出する氷像を通して、これは「不滅の意識(不生の仏心)」を如実に示しているのかもしれないと思った。
 しかも、三身一体の氷像は小生がこれまで探究している「慈悲」と「愛」と「叡智」の側面をあらわすものと思われたのである。
 そう思うのは、小生の宗教上の背景に、「見えざる世界」から導かれる様々な秘教的伝授が不意に示されることが度々あったからであるが、これについては、たいそうなことではないし、煩雑になるので省く。

 とはいえ、小生の宗教的環境からは、空海の真言密教がいつも側にある以外、世界の秘教等にはに縁がなく、文献上、宗教学的に関心があっただけであった。
 これでは、この一連の氷像現象を紐解く何物も持ち合わせていない。ただ、珍しく、不思議なものと思うぐらいでしかなった。

 平成二十年(2008)に突然、氷像が出現してから、二年が過ぎた或る日。それは平成二十二年(2010)十二月上旬のことだった。
 散歩していたとき、ふと、心の中に「救済のための手はずは整えている。これから遭う者に、ひたすら不動明慈救呪を常念すべきことを知らしめることが大事になる。」というような内的響き声がしたのであったが、意味不明で躊躇していたのだが、その翌日、突然、小生が関係する宗派からの呼び出しがあって上京し、その帰り道のことであった。いつも立ち寄る東京池袋のブックセンターに立ち寄り、たまたま目の前で積み上げ始められた分厚い本を手に取る。J.Jハーッタックの『エノクの鍵』という翻訳本であって、いま、書店に並べ始めたばかりの本だという。仏教書ではないのだが、無意識に手にとって、その前書きを読み始めて驚愕してしまった。
 というのも、そこに記されているものは、このときから34年前であったが、小生の恩師が今わの際に語っていたことと、まるで一致しており、しかも、その数百倍も詳細に記されていたからであった。(えっ!まさかあの話は本当のことだったとでもいうのだろうか?もしそうだなれば、これまでの考えをもう一度あらためなければならなくなる。これは大変なことだ!)と深く動揺してしまったのである。 
 34年前の恩師の話は、このとき側にいた自分しか知らないもので、突拍子もない内容も含まれており、愚鈍なわたしが口外できるものではなかった。恩師の秘教的な体験の内容と全く同等のレベルのものがこの書物に書かれていたのである。しかも、恩師はなくなる直前であったため、駆け足で説明していて、どうにも不明なことが多くあったが、その行間を埋めるように懇切丁寧に書き込まれてある。
 
 まさか、恩師が他界して、だいぶたった、この平成二十二年にこのような本に触れるとはと仰天してしまった。
 それにしても、この本は、あらゆる古代からの密儀や先端科学をキリスト教をベースに書かれたモノであった。ただ、仏教や密教などは通仏教的な視点で書かれており、小生の探究するものとは異なる。
 しかし、わが恩師の語っっていたこととは天上界の構造からその大天使群の会話まで具体的に近いものがあったので、天上界のことは実在するものであるのかと驚いたのである。つまり、どう考えてもこの現象界で恩師とこのハータックという人物が交流が会ったとは全く考えにくいし、両者の経歴や育った文化も異なるので表現にはかなり隔たりはあるものの、語られている内容と構造は同質のものであると思われたのである。
 それにしても、この本は、難解極まりないもので、もし、恩師から、昔、直接似たような話を聞いていなかったなら、まず、読む気にはなれないものであった。 
 
 しかし、もう一つ不思議に思えたことは、この本を手にして、この直後から起きだしくる氷像現象と東日本大震災、その後、頻繁に、小生の自坊で起きる氷像現象と、地球上の異変や疫病の蔓延、悪魔化したものの仕掛ける戦争などと、深くの関連したものであることや、さらに、それを別次元の見えざる世界が見透しであるということを裏付けてくれると思われたことである。

第4回目
平成二十三年3月8日(2011.03.08)

氷像:福島原発一号機二号機危ない!


氷像:大天使のメタトロンの翼か


石鉢に、再び、「氷の聖体」が出現した。
突然であった。なんとも不思議な形の二つ氷像とそのすぐ側に鳥の翼のような氷状が顕れている。
そして、この数日後、


東日本大震災津波と放射能汚染(相馬)


平成二十三年三月十一日(2011.03.11)マグニチュード9.0という巨大
地震が関東・東北太平洋沖で発生、未曽有の大惨事となった。更に、これに
伴う原発の事故は最悪のメルトダウンと水素爆発を起こし、放射能汚染の重
い課題を福島そのもの、日本国土そのもの、地球上世界そのものが背負うと
いう、大打撃を被っている。余震が続く中、巨大地震と放射能汚染の恐怖に
世界は震撼することとなった。

 今にして思えば、3月8日の氷像は迫り来る大震災を暗示していたのかもしれない。氷の海に浮かぶ聖なる幕屋と「不死鳥」の氷像は、津波による原発事故を暗示し、大天使がギリギリところで守護していることを示していたと考えているなどという思いすら湧いたが、しかし、それは、あまりにも短絡的独りよがりの思いであって、信憑性はない。
 それに仮にそれが予知できたところで、このタイミングで実際何ができるであろうか。
 それに、このような氷像出現を人類の意識を含めた地球変動の症状や予兆を示す自然現象の一部であるとしても、それはまるで大宇宙の中で、一本の針を探がしだして、それをどうだこうだというレベルのものであろう。
 
 もともと、小生は「ブッダ親説の教え」を根幹に据えており、見えざる世界に関しては、どんな偉大な指導者のものとはいえ、それを自分のような至らぬものが扱うことで、必ず、幻影と妄想と自己欺瞞に行き着く。このことを最も恐れる。
 とはいえ、近辺にこうした不可思議なる現象が生じてくると、さすがに「どうして?」と問わざるを得なくなるのも正直なところだ。
 小生は、わからないなりにも、どのような些細な現象であろうとも決して侮ってはならないかもしれないという観点で、この氷像現象を見てきた。というのも、大宇宙もミクロ宇宙も全て繋がっているから必ず意味が込められていると思うからである。

 どうだろう、おのれの都合のみでいのちを叩き潰して平気でいる傲慢な人間が、一つ一つの命の尊さを顧みることもなく、破壊行為を果てしなく繰り返している。しかも人間自身がそれを止められないでいる。のを見て、地球や自然がなんとも思っていないということがありうるであろうか?

 いろいろな課題はあるが、小生は見えざる世界と現象世界一つであるのだろうと観ている。
 しかし、この氷像を目撃した時点では、その見えざる意志を推し測りかねていた。

 更に、小生自身はかなり至らぬものだが、それでも、小生の探究の基盤に据えてきたものは雑多なものであるが、その探求の串に据えているものはゴーダマシッダールタ(釈迦牟尼仏)、ナガールジュナ(龍樹菩薩)、弘法大師空海、僧盤珪禅師、世界教師 山口瑞鳳の仏教哲学「ブッダ親説」、さらに、プロティノスや近代インドの哲学者J.クリシュナムルティなどで示される「本初不生」。それに、「般若理趣経の根本義」である「普賢金剛薩た・光り輝くもの」にある。

 しかし、これら推考の基盤からすれば、「氷像現象」は全く無関係のカテゴリーにあり、これをあれこれ推論したところでエラーに過ぎないものかもしれない。
 それとも「見えざる世界」からの導きによるものとしてつながるはずだと思い、理解は全く及ばなぬことながら探究してきた。

 やがて、その後の氷像現象を通して次第に明瞭に導かれる思いがあったのは、「光り輝くもの」の金胎両部不二曼荼羅。ブッダやナガールジュナやクリシュナムルティが示す阿字本不生。さらに、恩師の『人類の意識の変容』。ケン・ウィルバーの『万物の理論・ひかりあるものの創発性』などにヒントを得て、自坊の境内に度々出現する「氷像」は、「先験なる本不生の源流、今に新たなり」を響かせるものであると観じている。

第5回目
平成二十五年二月二十日(2013.02.20)
小生の妹の墓前に出現

氷像:不死鳥(ロシアが危険だ)


 平成二十五年二月十九日夕方、兼務寺の本堂に祀られている阿弥陀大仏の御前にて、ふと、他界した妹の気配を感ずることが多いので、「何か伝えたいことがあるのであろうか?あるのであれば小生ばかりではなく、誰にでもわかるような形でお示し願えるか?」と、ひとには言えないような思いにかられて、しばらく黙想していたのであるが、
 なんと、その翌朝(2013.02.20)のことであった。妹の墓前で氷像が顕れていたのである。しかも、不死鳥のような姿に見えるものであった。妹は生前不死鳥を絵に描いていた。
 氷像の鳥は、ある上空を指しているように思え、コンパスと地球儀で推測してみると、仙台からアラスカ方面を指さしているように思われた。
 この氷像が顕れてから数日して、ニュースでアラスカ上空からものすごい光を発してロシア方面に落ちていく隕石の様子が映し出され、学校の窓ガラスが割れるほどの爆音であった。科学者の解説ではアラスカの上空から侵入していて角度がもう少し違ってたら地球は大惨事になるところだったと伝えていた。


第6回目
平成二十九年二月二十五日(2017.02.25)

氷像:三角四面体マカバ

第7回目
平成二十九年三月十一日(2017.03.11)

再び氷像:三角四面体マカバ現る

 このときの冬は本堂の屋根から落ちてくる雪も多く、かなり残っていたの
だが、一気に溶けだし、埋もれていたものが久しぶりに顔を出してくる。
 朝明けの本堂の中にも、漸う漸うと、陽光が射し込み、凛と輝き、堂内にぬくもりが漂う。経の鐘に呼応するかのようにさえずる小鳥の声にも、待ちわびた春の気配を感ずる。

 境内の岩室大師をお参りし、ふと、その傍らのいつもの手水鉢に目を向ける。
 というのは、昨晩、祈りを捧げる中、本尊を前にして、ふと、物質界と如来界という世界を想定すれば、それは、ブッダが指摘されるように、虚妄なるものにすぎざるものとなるのであろうか。
 だが、ブッダの指摘がまさにそうだとしても、こうして物質界がわが目に映るように、如来界を含む物質的次元を超えた世界もまた、それらを映じさせる何かがあるのではないか?という思いを拭えないでいた。

 確かに、心や意識、無意識の世界、インド古来からの信仰であるアートマ
ンやブラフマン、あるいは古代エジプトのアーメンやアミー。ギリシャ神話
のゼウスやアポロン。プラトンのイデアやロゴス。ペルシャのミトラ神や
ザラトゥストラ。あるいはユダヤやキリストなどの絶対神や三位一体の神、
大天使から精霊など洋の東西を問わず広がる信仰は、いかにそれが広大無辺
で深遠な哲学や信仰であろうと、それらは人類が描いた虚妄にすぎないとい
うのであるならば、あるいは、人類のこれまでの営みそのものが虚妄だとい
うのであならば、はたまた、人間を含む大自然界、太陽系や銀河系、さら
には大宇宙のみならず、ミクロ宇宙からマクロ宇宙に至るまでの有り様はみ
な虚妄に過ぎないというならば、そもそもそういった世界に生かされている
我々とは一体いかなるものだというのであろうか。
 たしかに、ブッダは、このような虚妄なるものを実体だと思い込み、自己欺瞞に陥ってはならない。執着を棄てて、出家すべきことをうながされた。

 では、この世界とは一体何であるのか?単なるマーヤ幻影にすぎざるものなのか?

 この不可思議な氷像出現の現象を見て、今更ながら、現象と見えざる世界
である潜象をブッダはどのように示されているのか、素朴な疑問が湧くのを抑えきれない。

 確かに、こうして、夕べに、祈りを捧げるながらあれこれか思考している
自分も、自分という自我である限り、ブッダが指摘される自己欺瞞に陥るこ
とは避けがたい。
 しかし、一方、如来性や仏心という慈愛の根源を、虚妄にすぎない我々が
一体どのように自覚できるというのであろうか。出家修行者がこれまでどれ
ほどのものがこれを超越できたというのか。

 さらに、この日、本堂の本尊の前で自問していたのは、最近、物理学や天
文学などで話題になっている「物質とダークマターとダークエネルギー」に
関することであった。

 我々が所属する大宇宙は、加速膨張しており、それが時間の方向、すなわ
ち、先験よりいまに経過し消失する歴時性を決めているのではないかという
思いがあった。
 こうしたことは門外漢なので、正確には述べられないが、その物理学の理論によれば、この宇宙で(ビックバン以降138億年を経てなお加速膨張している宇宙内)で、「物質」はわずか5%だけで、残りの25%はダークマター、70%はダークエネルギーでみなぎっていなければ、物質の局所的宇宙は顕現し、存在することはなかった。そのダークマターとダークエネルギーは見ることができない未だ正体不明のものであるが、それがなければ銀河は現れないという。というのは、銀河の構造を計算すると、普通の「物質」だけでは足りないことがわかっていて、見えている物質の重力だけでは星は散らばってしまい、銀河を形作ることができないということが明らかとなったというのである。
 大宇宙の物質化で考えられるのが、光を通さず反射もしない何か暗いもの、ダークマターの存在が考えられるとして、観測を続ける内に、ダークマターは密集すると近くの光を曲げる重力的な力を持っていることがわかってきた。そうした何らかの力を及ぼすダークマターについてわかっていることは、検出できないので、粒子の雲ではない。
ガンマ線を出さないので反物質 (アンチマター)ではない。周囲に影響を及
ぼす力はたくさんあるものの、ブラックホールほどではないので、ブラック
ホールではない。最近は、ダークマターは光を受けない未知の粒子なのかも
しれないともいわれはじめている。

 小生は大宇宙の顕在化はこのダークマターの重力を伴う局所化の壮大なプ
ログラムのようなものが背後にあって、いわゆる、ミクロ宇宙の素粒子、電子、原子、分子などからマクロ宇宙の星雲、銀河、惑星、身近には太陽系の地球などに繰り広げられる壮大な天地創造の進化の営みから起こっているのではないかと思う。
 この壮大なプロセスは、いわゆる、天地創造神やイデア、ロゴ
ス、叡智、神、ブラフマン、アートマン、アーカシックレコードなどの、い
わゆる、遍在から局所へ、局所から遍在へカルマの輪廻を想定する古代宗教
を連想させる。
 だが、もし、それが事実であるなら、ブッダ釈尊は「虚妄」を以て一体
なにを指摘されたのであろうか?

という際限もない愚問が生じる。

 さらに、ダークエネルギーについては、ダークマター以上に不明なもので
はあるが、小生には、極めて興味深いものである。

 1929年に天文学者のエドウィン・ハッブルが銀河から届く光の波長を
調べ、赤い方に偏る現象を発見。この赤方偏移は遠い銀河ほど大きく、近い
ほど小さくなるので、ハッブルは「宇宙が膨張していることが原因」と結論
づけ、空間が広がることで光の波長が伸び色が変わったと考えた。

 近年、飛躍的に発達しつつある天体観測により、なんと、大宇宙はビッグ
バン以降、決して膨れ続ける風船のような閉じられた宇宙ではない。
 そういう宇宙は膨張するがやがてスピードはゆるくなり、やがて止まる。そこから縮小し始めビッグクランチに至ると考えられてきたが、観測技術が発達するに連れして、その見解は全くひっくり返ってしまった。
 縮むどころか、宇宙はますます加速膨張しており、閉じられた宇宙ではないことが明らかになった。この、重力に反して、加速度的に膨張させているダーク(見えない)エネルギーが、どんどん流れ込んで新しい宇宙空間を新生し続けているというのである。
 このダークエネルギーには全物質よりも大きな、アインシュタインのいう
「重力に反する力」よりも大きな力があり、生まれ続ける粒子で大宇宙空間
は満ちているが、それは現れてすぐに消えるものだという。そしてこのダー
クエネルギーが大宇宙の加速膨張の方向と時間の歴時性を方向づけているの
先験的エネルギーではないかという。

 この物理学上の理論は、小生にとっては、非常に革新的に思える。
というのも、この理論は最も難解であった「ブッダ親説」を裏付けるものであるからだ。

 いわゆる、「時間の歴時性(過去・現在・未来の時間ではなく、先験が今に経過し消失しながら新たなるものが創造し続ける」というブッダの親説を裏付けるものと思えるからである。

 現代の大宇宙に関する物理学や天文学を研究する科学者たちは、こうした
ダークエネルギーにより、大半の宇宙にはダークマターや物質の顕現できる
余地は少なく、我々が観測している宇宙のようなものは重力と反重力の微妙
なバランスの状態が出現してはじめて起こるという全宇宙にとっては極めて
まれな現象、すなわち天地創造の営みであり、今ここで、人間として、壮大
な宇宙を解明しながら目撃できることは、稀有のこととして喜びを感じてい
るという。

 物理学者は風船やシャボン玉などを例に説明しているが、大宇宙が加速膨
張していてもその中にある星雲や惑星や物質なども比例的に膨張するのでは
ないという点は、猛スピードで走る電車の車内と同じことなのだろう。地球
や惑星の自転公転の巨大なスピードもその体内にあっては一緒に動いてる限
り、その中での動きに限られている。このように、加速膨張していることを
体感することは、そもそも、その外との関係をみない限りわからない。

 これが、宇宙内の進化の基盤なのかも知れない。しかも、こうした重力と
反重力の微妙なバランスのとれた宇宙はきわめてまれであり、ほとんどは、
現出しない宇宙なのだという。

 とはいえ、このような最近の物理学や天文学の理論に興味が湧くのも、いわゆるブッダの親説とこうした大宇宙の現象の解明がどこまで共通した展開になるかが知りたいと思うものである。

 さて、この寺に度々出現する氷像は、「見えざるもの」を思わざるをないものである。そこで、見えざるものをどのように理解すれば良いかについては、氷像に遭遇して以来、何故このようなことが示されているのか、絶えず思索してきた。

(もちろん、「見えざる世界」を直視するものは、見えているのだから、このような愚なる思索は行わないだろう。しかし、開き直りではないが、自身を含め、見ること適わぬものばかりのこの現象界で、これをどう理解するかというのが小生の主題でもある。)

 おそらく、今後、科学の進歩は、見える世界と見えざる世界のという関係が、まず、ダークエネルギーとダークマターと物質との関係の解明によって一般的には示されてくるのであろう。

 少なくとも、死に際にその生命体が発信するさまざまな信号は肉体的・物
質的レベルのものに過ぎないとしても、物質を取り巻くダークエネルギーやダークマター内の現象である。ダークエネルギーやダークマターは見えざるものであってもその存在は否定できなくなってきているといわれている。

 いわば、物質化現象は海面(水面・川面でも良いが大宇宙的広がりの象徴
で海面と言っているにすぎないが)に浮かぶアワのようなものである。

 ぶくぶくとアワが生まれるかたわら、パチパチと割れて消失しし続ける。これは現象の喩えであるが、ブッダ親説の「先験より今に経過し消失する」現象のたとえでもある。

 ここで、小生が問おうとしているのは、ぶくぶくと生まれた泡の一つが、パチッと言って消失するときのことである。
 現象界の事実では、泡は消えたということでしかないが、その泡を生み出していたものは、もちろん泡が消えたからといって消えるものではない。泡の元である池や川や海といえど永遠ではないからいつかは消えることもあるであろう。さらに、物理学的に仮定されるダークマターもダークエネルギーもまたしかりであろう。
 その生成生滅は泡のように一瞬であるものもあれば、大宇宙のように発生
して何兆億年後にというものもあるであろう。

 物質現象からすれば単に生まれたものが滅するにすぎないと見える。

 エネルギー不変の法則がどの単位の宇宙まで適応するかは小生にはわからないが、少なくとも、これらのものはそのような生滅という現象は波束と局所化の仮の現象でしかないとされる。

 物質もダークマターもダークエネルギーも名状しがたい全的存在の根底、
すなわち根本、物質的・ダークマター的・ダークエネルギー的生滅の背景、
それは、時空に限定されていない根本、存在の本、本不生。いかなる意識のレベルにおいても補足しきれない大いなるものが背後にある。

 ここで、問題になるは、全体性である。先験なる本不生は人間のあらゆる
意識のレベルで把握されるものではないが、全体として矛盾なく統合されて
いるのは、何らかの普遍的意識のようなものが機能しているとみられるが、
しかし、もちろん、人類が考え出す意識のレベルではない。

 だが、あらゆるものに具わっている繋がりや応答をしめす反応から、さまざまなレベルの信号を発せられているという現象は現実に存在している。

 人間の言語や脳科学的反応おける応答、すなわち対話の原理がミクロ宇宙
からマクロ宇宙に至るまで厳然と機能しているという理論があるが、ここで
問題にしていることを考えるうえで、物理学における「対話の原理」はヒン
トを与えてくれる理論の一つである。

 局所内に条件付けられているものはその中で収束するものであるが、本質
的にそれで止まらないものを考えざるを得ないのはそうした何らかの繋がり
を無視できないからである。

 物質がパチッと消滅してそれで終わりか。と言うことである。

 ブッダは「消滅するものに執着するな」と言われた。その執着の背景にあ
るものは生命の五蘊である。五蘊であるわれわれのあらゆる五官六根の経験
に基づく記憶の反応と概念による虚妄性であることをブッダは指摘された。

 しかし、消滅しても、終わりではない。その終わりではないもの。それを
問うている。

 もちろん、ブッダと物理学を一緒に論ずることは専門分野的にはカテゴリ
ーエラーであろう。しかし、ブッダの直観も宇宙物理学も人類の真理探究の
一環であることに変わりはないのだから、究極的には相即不離にあると思う。

 ブッダはなにを示されたのか。少なくとも大宇宙の進化のプロセスをブッ
ダはどうごらんになられるのだろうか。

 J・クリシュナムルティの革命的視点や、ブッダや龍樹の革命的真理では、「万物やそれを感受する脳や記憶や思念や意識、心など通じて実感しているものを実体と視ることは虚妄である」とされた点に帰ってしまう。龍樹が示す、真諦と俗諦は、こうした愚問を終わらせるためのものであったのか。すなわち、なぜ、宇宙に空間や時間の関係性が繰り広げられているのであろうか?
 たとえば、薪を集め、風呂に水をくんで、火をともし、風呂を沸かし、入浴するという現実に行われていることが虚妄、すなわち架空のことだとでもいうのではあるまいに・・・・もしそうであるならば、生存そのものも虚妄に過ぎないこととなる。ダークエネルギーからダークマターを経て、物質化するプロセスもまた虚妄であるなら、こうして思考している自分もまた虚妄にすぎない。それとも、あれこれ考えていること自体を虚妄というのであろうか。しかも、釈迦牟尼仏もクリシュナムルティもこの世に実在し活動された人物である。

 長くなったが、如来の前で、そのような自問自答をし、思案に暮れて
いたのが正直のところであった。
 埒が明かない自分の思考が萎えて、ついつい、願わくば本尊、われに、その本不生の真実義を差し示したまえと投げ出すほかなかった。祈るしかすべはなかった。

 そして、この後、その如来からの応答であるかの如く、
平成二十九年二月二五日と三月十一日に、例の手水鉢に氷像が出現したのである。


聖像:神聖幾何学マカバ下降


氷像:神聖幾何学マカバ上昇


 この時、まさに脅威的であったのは、二度とも、示された氷像はすべて「三角錐の四面体」であったことである。

 自然に生じたとはいえ、このときの氷像は、明らかにピラミッドの三角四
面体である。まさしく、ハータックの『エノクの鍵』で解説されている神聖
幾何学「マカバ」そのものが氷像化しているのかとさへ思われて驚きを禁じ得なかった。


氷像:アードナイ(ヨッドヘー ヴォッドへー)


 この寺に度々顕れ続けるこの三角四面体の氷像を前にして、単なる「氷の
三角錐」の自然現象では済まされない特異性を感じざるを得ない。これは由々しき事態なのではないかとさえ思うのである。

 このようにして、平成二十九年二月二十五日と三月十一日と立て続けに出現してきた三角四面体の氷像は、彼ら(恩師とハータック)の指摘する「地球上における人類の意識の大転換をはからねばならないときが、いま」であることを示唆するものであると確信する。
 もし、彼らがいうように、天変地異を予見するものであるなら、これから地球上でいかなることが起きてくるというのであろうか。厳粛ながらも非常に緊迫した面持ち今日まで過ごさざるを得なくなっている。なぜなら、この氷像現象出現以来、世界では明らかに、大地震、異常気象、新型コロナウィルス感染、ロシアに依るウクライナ侵攻、ウクライナとパレスチナ紛争な
ど不穏な情勢がますます事実化している。これらは、すでに、昭和四十七年
から昭和五十一年頃に、人類が愚かにも突き進むであろう惨状として警告されていたのである。


氷像:破壊された都市か


 こと、今日に至り、まさに、自然現象に過ぎない氷像といえど侮るなかれである。

 わが祖師である空海は「森羅万象すべてが如来の説法」であると述べ
ている。
 まさに、自然現象のありのままを通して「如来の声」を聞かねばならないと思っている。

 専門職を標榜する優れた宗教者や学識者や著名人は数知れないが、こ
うした見えざる世界の声に対する謙虚さを知らない。不遜極まりないが、ここはきわめて重要であると思っている。
 彼らの専門性はあらゆる宗教の経律論の背後にある深い哲理と直観性。その根底に流れる「慈悲」を以て、真俗二諦を直視し、虚妄や欺瞞を打破し、人類社会に革命をもたらしてこその存在ではないのか。小生、彼らの末席に
も着けぬ愚者だが、激しく自戒せざるを得ないことを感じている。


 さて、ここで、「この氷像の神聖幾何学の造形が指し示すものとは何かについて」だが、愚考ながら、いくつか考えられることを挙げておきたい。ただし、この氷像の神聖幾何学の造形として「マカバ」や密教における「三角火輪」としてみた場合の小生の推論にすぎない。



①ダークエネルギーからダークマターそして物資化のプロセスに、それ
こそ「マカバが宇宙レベルで作動する」ということ。

②「マカバが顕れるとき、人類の意識は次元移動せざるを得なくなる大転換期に入った」ということ。

③「マカバが現れるとき、人類の核戦争が一触即発にあり、人類の不調和な意識を浄化するプロセスが現実化してくる。この時求められるのは、人類の意識の変容と大転換をもたらす叡智であること。

いま、まさにいま、世界はあらゆる生きるわれわれ自身の行動と責任にお
いて改革していかねばならないのである。

④犠牲者に対する魂の救済シス「大宇宙の進化がマカバによる互換重
合涉入を通して、ダークエネルギーが歴時的に今に経過し、ダークマターと
物質界という全く新しい創造世界に刻々に創生していること」を自覚させることである。その、エネルギーの顕現は、宇宙の進化とともに歴時的に常に「いま・ここ」に刻々と顯れるものであること。
 すなわち、天地一切が局所化する時間と空間における進化であろうと、遍在性において、つねに、いま・ここ。如来も素粒子も常に、いま・ここにある。
 顕現し消失するプロセスによって、常に新たな歴時的互換重合による涉入の現象が起きているという実相を理解することによって、負の循環を断ち切ることである。

 この寺に度々出現する氷像の三角四面体出現の自然現象をまのあたりにし
て、そう受け止めざるを得ない。

 ところで、いかに、光り輝くものである遍照金剛からのマカバが働いても、誤った人類のエゴが、地球環境を破壊してきたことは、過去に何度も経験しており、地球自身にその痕跡が残っている。今回も、また、そのような危険性を孕んでおり、天変地異がその警鐘を鳴らしているのであろう。

 なお、小生がいう「光り輝くもの」とは、人間釈尊が光り輝くものである遍照金剛となられた五相成身観を根拠に、人類ひとりひとりが自己凝視(究極的に釈尊の五相成身観)によって自ずから「光り輝くもの」となることを意味していることを補足しておきたい。

 二つの三角四面体の正反の回転から読み取れる私見の一部を記す。

 二つの三角四面体の正反の回転は神聖幾何学におけるマカバ(密教では金胎両部不二の五股金剛杵マカバザラの動体と推量する。)が光り輝くものの中で見えざる大宇宙と小宇宙において互換重合し、現象宇宙が刻々に創造されている。
 つまり、マカバは「阿字本不生の先験より今に経過し消失し続ける」実相のなかで、ビッグバン以降、大宇宙のダークエネルギーからダークマターそして物質を新生創造し続け、森羅万象を導き、時間・空間・次元における現象(虚妄性)をミクロ宇宙からマクロ宇宙全てにおいて、互換重合涉入して、時間・空間・次元の変換を自在にし、超越して、光り輝くものとしてが森羅万象が創生されていることを示している。
(例:遍在性と局所性、梵我、斥力と重力、陰陽、金剛界と胎蔵界、男性原理と女性原理。など)

 神聖幾何学体の三角四面体は光り輝くものをあらわし、光の三原色から七色の光・無数の色光に偏光するが、一切のものと現象が光り輝くものの中で統合されているものであり、それは宇宙の本質と本質と器と働き(体・相・用)を通して光り輝くものすなわち普賢金剛薩埵が宇宙を刻々に新生創造していることをあらわしている。すなわち、マカバは一者であり遍在であるも
のを光り輝くものとして顕現させている。

 マカバについてはプラトンにおいても「万物を構成する元素として、地
・水・火・空気の四大元素を考え、正六面体(地)、正二十面体(水)、正四面体(火)、正八面体(空気)」を当てている。
 仏教の五輪卒塔婆においても、地(□・正六面体)・水( ○・正二十面
体)・火(△正四面体)・風(月)・空(寶珠)にも通じるものであり、三角は火輪すなわち光であり、金胎両部不二は二つのマカバが不二であることを示していると考えている。

第8回目
平成三十年一月二十二日(2018.01.22)法圓
この寺の墓に複数氷像出現


氷像:龍族の覚醒
氷像:八咫の剣 倶利伽藍剣


氷像:見よ!


氷像:神を観よ!


氷像:アルナチャラ アシャラノーダ 不動明王
の剣


 この日は、お墓参りをされてた檀家さんからの通報があり、氷像が複数ヶ所で発見された。
 お墓の水鉢に氷の聖像が出現しているというので、確認すると、まさに、不動明王の剣のかたちをした氷の柱が上に伸びていた。しかも、この方の携帯の写真にはお線香の煙ではあるが、なんとも不思議に不動明王の梵字カン
マンまで写し出されているので、この氷像は、「不動明王の剣」であると思わざるを得なかった。
 通報を受けて、ほかにないかと寺墓地を探したところ、この日は複数のお墓に不思議な氷像が出現していた。
 ちなみの他寺を調べて見たが、お墓に出現されているものはなかった。


第9回目
令和四年一月二十二日(2022.01.22)早朝

氷像:鳩 平和の象徴

 令和四年の正月は例年にない大雪が続き、寺もすっかり雪に埋もれていた。突然、檀家さんから「自分のお墓に不思議な氷の像が出現している」という知らせを受ける。

 早速、その墓所を確認したが、この写真のように確かにはっきりと出
現している。ほかの場所を確認したが氷像が顕れていたのは此処だけであっ
た。
 この冬は例年になく大雪で、いつも出現している寺の境内の手水石鉢はす
っかり雪に埋もれてしまっていた。
(この雪がすっかり溶けるまでは氷像現象は見られないだろうと)と、全く
忘れていた。ところが、この日、墓所に氷像が現われているという知らせに
は、さすがに驚く。大雪で、大半のお墓は全く大雪に覆われていたからだ。
しかし、この方は、毎日、欠かさず墓参をしておられ、雪を片付けていた。


氷像:大惨事!平和が脅かされ、世界が危ない!


 とはいえ、知らせを受けて、この氷像を見て、内心、非常に「危惧する思い」があった。というのも、この氷像が「鳩」に見えからであった。水面
の氷上に映るその影は、まさしく、平和の象徴である鳩そのものに見える。しかし、赤いものが水面に映っているので、不吉な予感がした。(これはお墓の側の南天の木実の影であった)
 もしかすると、いま、世界は、逆に、「平和」がいちじるしく脅かされ、非常に危いということとであろうか?・・・われわれ人類の愚かさが再び戦争を引き起こしかねないことの警告なのであろうか?しかも、いま最も懸念されているるのは、「核戦争の危機」である・・
・・そういった危機がやってくることを、見えざる世界は、この氷像を通し
て伝えているのであろうか?

心中穏やかならざるモノがあった。小生が、そういう懸念を抱くのには理
由がある。それは、何度も前述するよ
うに、昭和五十一年五月に、恩師が、病身をおして、たまたまそこにいた小生に向かって語られていたことが、ここのところずっと気になっていたからであった。


(恩師は昭和五十一年六月に他界。恩師の「最後のことば」であっ
た。この内容を直接聞いた者は他には小生以外、誰もいなかった。小生も長い間このことは黙してきていたものであるが、氷像現象がここまでリアルに示され、しかも、2022年2月突如としてロシアによるウクライナ侵攻がはじまり、戦争が勃発。しかも、プーチンはこともあろうに核戦争を示唆し、これに追随するならず者国家はみなそれに倣って自国の権利を守ろうとし始めたのである。この大変な時代に直面し、小生としては、氷像の示唆するものもあって、この記録は公開しておくべきかもしれないと思うに至った。

 それは、昭和五十一年五月も終わりにちかい頃、ひとり、そのビルの三階
の事務所にいた小生の側に、五階から降りてきた恩師が傍らに座して、こう話されたのである。

「地球における人類の物質的に偏った意識と行為が、今後、地球上に大き
な天変地異を引き起こす引き金となる。
 人間の最大の問題は、これまでもそうだったように、欺瞞に満ちた宗教や権力主義的イデオロギーが傲慢にも闘争や破壊や搾取を繰り返し、人間ばかりではなく地球そのものを破壊していく。
 地球そのものにも意識のあることを忘れてはならない。人類の乱れた意識
が天変地異を引き起こすのである。
 自然の中の一部でしかない人類が、自己中心的欺瞞と搾取を繰り返すこと
で、世界の格差は深まるばかりで、搾取されるものの悲嘆はますます増大し、それが混乱の引きがねもなる。いまや人間は、おろかにも、核戦争のボタン押しかねないところまできている。核戦争のボタンを押してしまったならば、取り返しはきかないくなるであろう。これまでの戦争と全く異なる惨状に陥る。これをなんとしても止めねばならないと天上界の大天使達は躍
起になっている。
 しかし、この世での小生には、もう、時間も体力も残されていない。この事態を止められないのであるならば、やむを得ない。小生は天上界に赴いて、天上界から人類ひとりひとりのこころを内側からこじ開けてでも、人類にこの危機に目覚めさせ、意識の変容を遂げさせねばならない。

 おお!キミよ!聞き給え!決して、忘れてはならないことがある!。

 この危機的状況を回避すべく、意識的に連動している地球も、また、見えざる世界にある如来や大天使たちも、いま、必至に対策を講じているということを・・・。
 昨夜、わたしは、大天使たちの重要な会議に出ていたのである。キミはこ
の話しに怪訝をいだいてはならない。キミ自身も、見えざるものをみ、聞こえざるものを聞き、語られざるものを語るものでなければならないのだよ。

 いいかね、見えざる大天使たちは、いま、非常に真剣である。人類の傲慢さと欺瞞性が飢饉や疫病、異常気象や大地震、はたまた卑劣で残虐な戦争を起こしているのである。こうした人類の誤った方向性が、本来の地球という魂の貴重な修行の場を破壊してしまっているのだ。
 このままで行けば、この地上に生きているものばかりでなく、地上に縁のあるあらゆる魂が塗炭の苦しみに陥ることになるであろう。
そうなってからでは遅いのである。

 キミよ、よく考えなさい。これまで、人類はいったい何をなしてきたというのであろう?釈迦やイエスのような覚者が顕れてきたとはいえ、彼らの本当の教えは、いまに、いかされてきているのであろうか?
 その弟子たるを標榜する彼らがしてきたことを見てみたまえ。
彼らはイデオロギーや宗教により自己の正当性ばかり主張し、正義を標榜
しながら、本来の普遍的な教えの真実を見失っていとしか思えない。
 宗教であろうがイデオロギーであろうが、そのそもそもの原因は、われわれの自己保存と自我我欲にあるのだ。このことを自覚せず、ひたすら権威に依存し、逃避する自己欺瞞に陥ってきた姿をさらしているではないか?

 こうしたエゴイズムは物質界にあるもの達の恐怖心をベースに、とうとう、人類は、神や大義や正義をかざした偽善の下に、人々の心を食いものにして、平気で自他を抹殺し、侵略と戦争を常に正当化する、全くのならず者となり下がり、この蛮行を繰り返し、世界を取り返しの利かない窮状にますます追い込むのである。

 しかし、キミよ、よいかね。
 大事なことは、いくら、如来や仏陀や菩薩や大天使群が見えざる世界からこの現象界に警鐘を鳴らし、気づかせようと救済に必至であっても、この現象界に生きているものの責任は、この世にあるわれわれ自身にあるのだ。これは、誰も変えることはできない鉄則なのだよ。
それは、われわれ自身でそれを止めなければならないということだ。われわれ自身がこの深刻な問題に気づき、どう行動していくかにかかっているということだ。この世界はこの世界に住むものに全てが託されているということだ。
 それゆえ、もし、この世界で、狂気に走るものがあれば、たちまち連鎖的に戦争に突入することも起こりうる。
 この世界に地獄をもたらすか、極楽をもたらすかは、ひとえにいま、ここに生きるわれわれ自身にかかっているのだ。

 ゆえに、人類ひとりびとりが地獄の沙汰となるような狂気の意識を悔い改
めねばならない。意識の変革を起こさねばならない。このままでは、百千万
劫にも遇いがたい、大宇宙でも希なる、かけがえのない魂の修行の場である
「地球」そのものを破壊してしまいかねないのだ。

 それゆえ、大天使たちは必至である。
 わたしはまもなく見えざる世界に帰らざるを得ない。だが、それでも、みえざる世界から、この地上に生きるひとりひとりの心をこじ開けて、警鐘を鳴らし、光り輝くものとして、人々の意識を直し、その変容を促してくつ。」と。

この恩師の話は実に壮大ながらも壮絶極まりないものであった。この話を
聞いた者は、その時、たまたまたったひとり側にいた小生だけであった。
 おそらく病が重く、数多くいる高弟子たちの大半はこの日は忙しく不在であった。
 たまたま、小生がそこに居合わせただけなのだが、とにかく、誰でも
良いから、この見えざる世界の重要なる意志を、事実として伝えておかなけ
ればならないという。恩師の切羽詰まった状況であり、鬼気迫るものがあった。
 そののち、ただ呆然としている小生を見て、軽く笑われ、穏やかな口調に戻られたのであった。
 この恩師はいつも、小生を見かけると、不異に、語りかけられることが多かった。
 なくなる直前はいつも側に小生をおき、「キミは、これから五年の間にわたしの話を裏付ける二十冊もの重要な書物を手にすることになる。それで、私の話の内容が奇異なものではないことをを理解するであろう。そのときは多くの人々も人々も理解することになるであろう。
 キミよ!よいかね!小生が去っても、純真なこころを護って、心が毒されることのないように、一歩一歩精進していきなさい。私の元にいたのだ!見えざる世界が見えて、聞こえて、話せるものとなりなさい。」

この後、恩師は、最後に「ドクターストップがかかっているのだが病身をおしての講演をしなければならないのだよと告げられてでかけたのだが、それ
から程なくして、昭和五十一年六月に他界された。恩師四十八歳、小生二十
九歳であった。

第10回目
令和四年一月三十日(2022.01.30)早朝


氷像:神聖幾何学 三角四面体 マカバ
世界が危ない!


氷像:マカバ 現るとき 世界に大惨事が・・・



一月三十日早朝、今度は、全く予測もしていないところに、別の氷像が出現したの
である。本堂の正面の階段脇の桶であった。写真のように、あの「三角四面
体」が複数出現していたのである。例によって、すぐほかのところを探してみたが、やはり一ヶ所だけであった。しかも、いつもの「手水石鉢」はまだ雪に埋もれたままであった。ということは、今回は、
まるで、(大雪で皆覆われてしまっており、氷の現象を出して気づかせよう
にも現象を起こしようもない。しかし、ことは重大な局面にある。安閑としていてはならないのだ!なんとしても気づかせねばならない。そのため、再び三角四面体を示すべく、まるで手当たり次第に可能な場所を見つけ、おまえが気づく身近なところに現象を出したのだ!)といわんばかりのようであった。
 この直後、ロシアによるウクライナ侵攻が始まったのである。

 この日の早朝、勤行を終えて部屋に戻ると、そこに、不思議な書物二冊届いていておかれてあった。読み人知らずの『不可知の雲』」という書物とヘブライ語で書かれた『イザヤ書』であった。この経緯と内容については後日また記入できる日があれば書くことにするが、内心、(嗚呼、これは、滅びに至る人類のために「光り輝くものの、救済のための最後の書」なのかもしれないと観じていた。

『不可知の雲』中世の修道院で読み継がれてきた書で、あった。
そこには「人類ひとりびとりがひたすら神・光り輝くものの慈愛に
気づくべく、欺瞞の雲を晴らすために、あるがままの観想に導くもの」であったのである。
そしてヘブライ語のイザヤ書を手元に取り寄せたことには理由があった。

 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の惨状をまのあたりにして、激しい
憤りをおぼえる。国連や安全保障条約機構などの国際的安全の規範を完全に
無視し、しかも、核兵器によるせん滅をも辞さないという構えで戦争起こす。
 しかし、これに対して、この挑発に乗って世界大戦に及ぶことのないよう必死の対応をとっている世界だが、未だ侵略の蛮行を止められずにいる。極悪非道の破壊と無差別攻撃を繰り返すプーチンの戦争をだれも止められない。何ということか!このように愚劣極まりないならず者の侵略の前になすすべはないというのか。恐ろしいことであるだけに、世界は全く無力であってはならないはずなのに・・・・。

 この切羽詰まった状況に、『不可知の雲』のなかで「ただ聖寵のみにより得られ、あなたが用いるように神から促された言葉以外は、祈りに
用いるに他の言葉を以てしてはなりません」と言う表現にであったのだが、では、「ただ聖寵によってのみ得られる祈りの言葉」とは何か。
この書を精読したが肝心の聖寵による祈りの言葉が記されてはいなかった。
観想によって体得せよということなのだろう。
 そう思いながら、この書を傍らに置いて立ち上がる。すると、ちょうど脇に積んであった『エノクの鍵』の翻訳本に手が触れ、その本がバサリと落ちる。そして、偶然にも、あるページが開かれ、そこに、ヘブライ語の不思議な文が示されていた。調べて見ると、それは、「イザヤ第6章3節」にあることばである祈祷文らしい。これを確かめるために、ヘブライ語のイザヤ書を取り寄せたのであった。

 (これは、令和6年の現在においてもなお驚くべき内容の文が記されていたのであった。)

「イザヤ第6章3節」
ヴェカラーゼエルゼヴェアマル
カドーシュカドーシュカドーシュ

ヨッドヘーヴォッドヘーツェヴ
ァオット
メローホルハアレツケヴォドー

(そして声を上げて互いに言った聖なるかな聖なるかな聖なるか
な万軍の主ヨッドヘーヴォッドヘー全地に彼の光が満ちている)

このタイミングでたまたま開かれたヘブライ語の文を見て、まさに、これは「ただ聖寵のみにより得られ、人類に対し、神から促された言葉」であるのかもしれないと感じたのである

 さらに紀元前八世紀に預言者イザヤによって書かれたこのイザヤ第6章
3節を調べてみると、その第6章に11節からの内容は、まさに、いまロシ
アによるウクライナ侵攻の惨状とオーバーラップするものがあり、戦慄が走
った。

「イザヤ第6章11節」
「彼は言った。

町々が廃墟となり、住むものが全くいない。家々には全く人影がない。

そして、大地は荒廃し、崩れ去るときまで。
主は、人々を遠くに移される。
国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。
なお、そこに十分の一が残るが、それも焼き尽くされる。
切り倒されたテレビンの木、また、樫の木のように。
しかし、それでも切り株は残る。
その切り株とは、聖なる種子である。

小生にはヘブライ語の聖書は全く不案内である。したがって、
これが聖書の文脈上、何を意味するのかその全体についてはわからない。こ
の後に救い主インマネール(イエス)出現がの予言されているという。よっ
て、小生のような門外漢が、この世界に分け入ることは不遜きわまりないも
のである。そもそも小生には至難の業である。

では、なにゆえに、いま、ここに、

ヴェカラーゼエルゼヴェアマル

カドーシュカドーシュカドーシュ

ヨッドヘーヴォッドヘーツェヴ
ァオット

メローホルハアレツケヴォドー

なるものが明確に示されたのであろ
う。

門外漢であるからこそ、『不可知の雲』がいうように、「ただ聖寵のみに
より得られ、あなたが用いるように神から促された言葉以外は、祈りに用い
るに他の言葉を以てしてはなりません。」と恩寵が顕れたとしか言いよう
がない。

 調べていて、さらに、驚いたことには、国連ビルの礎石には、このイザヤ書2章4節が刻まれているという。
They shall beat their swords into pl owshares,

「イザヤ第2章4節」
主は国々の争いを裁き、多くの民をいさめられる。
彼は剣を打ち直して鋤きとし
槍を打ち直して鎌にする
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことは学ばない。

彼らは剣を打ち直して鋤とし、

and their spears into pruning hooks;

槍を打ち直して鎌とする。

nation shall not lift up sword agains nation,

国は国に向かって剣を上げず、

neither shall they learn war any more.

もはや戦うことを学ばない。(イザヤ2:4)


床板に神紋あらわる

 ブッダは「人間ひとりびとりが自己をあるがままに観察する気づきを持っ
て悪業深い自我の性からの脱却」を促された。「真実の中に偽りを観じ、偽
りの中に真実を観じ、真実を真実観じ、偽りを偽りと観ずる」ことで、人類の変革を促されている。「世界は自身であり、自身は世界である。」自我の欺瞞性を棄てて、いのちに対する深いに洞察によって自己変革を人類ひとりびとりがおこす日はあるのであろうか。

 ブッダは語る。「人間というもののありとあらゆる不安、暴力、絶望、恐
れ、強欲、たえまない競争心を抱え込んだまま、社会と呼ぶ一定の構造をつ
くりあげてきたという事実。その社会には、それに特有の道徳性と暴力性が
備わっている。よって、人間として、人は世界中で起きているどんなことに
も――戦争や、紛争や、内外で起こっている葛藤に対して責任がある。われ
われ一人ひとりに責任があるのだが、われわれの多くがそれを本当に感じて
いるかどうかは、疑わしい。」と。

読み人知らずの『不可知の雲』も、
その全体を通して、ブッダの気づきに
通じる観想法が脈々と示されている。

そして、この度の「恩寵」によって示された祈りの言葉
カドーシュカドーシュカドーシュ
ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
メローホルハアレツケヴォドー
はたまたま偶然では片付けられない非常に重要な見えない世界からの「恩寵」のように思えてならないのである。

 この度のプーチンの戦争のみならず、こともあろうにヘブライ語の国家イスラエルとパレスチナの戦闘で、人間がこしらえたイデオロギーや宗教がいかに非人道なるを畏れず、大惨事を引き起こしてもなお平然と自国の論理を展開している姿を見て、罪の裁きを原理とする互いの宗教の恐ろしさと、エゴなるものを頂点とする逆ピラミッド型ヒエラルキーの構造の非人道性というか、いのちをいのちとも思わぬ人類のあさましさをまのあたりにした。
 ある時のことだったが、学校の前で、授業中にもかかわらず、ある宗教の信者がスピーカーをかついで大音量で「罪を悔い改めなさい。死後あなたはキリストによって裁枯れる」などと豪語していた。その場を通りがかったある人が、彼のそばに行き、「誰が裁かれるというのか、あなた方がなしている傲慢不遜な行動こそが裁かれるのではないのか?」と逆に問い詰めらていた。
 
 令和6年の今日、人類のいまと未来に人類がおかしてはならない平和のためのありようを覆す根本カルマの問題の遭遇している。
 人間は戦争ばかりしていて平和の時代はほんのわずかだったとあるものが語っていたが、それで達観していてはならないものがイマ問われているような気がする。

 氷像現象と現代問題を取り上げるべく、あえて、駄文を弄したが、
何か打開策を見いださねば人類は今日明日にも滅んでしまいかねないのではないか?
 そう、愚者が案じていると、彼の如来から

ビルシャナブツビルシャナブツ
ビルシャナブツ
ヴェカラーゼエルゼヴェアマル
カドーシュカドーシュカドーシュ
ヨッドヘーヴォッドヘーツェヴァオット
メローホルハアレツケヴォドー
ギャーテーギャーテーハーラーギ
ャテーハラソーギャーテーボージ
ソワカ

の声が響いてきたような気がした。
 

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