Asahihouenkangi

あるがままの自分を見つめることを通して 普遍的ひかり輝くもののいのちの源泉である本不生…

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あるがままの自分を見つめることを通して 普遍的ひかり輝くもののいのちの源泉である本不生を探求するものです。

最近の記事

いのち 日々に新たなり

いのち 日々に新たなり 朝晩めっきり寒くなってきて、あれほど暑かった日々が遠い過去のように思われる。しかし、咲き残るコスモスの花がひとつふたつ、微風に揺れ、まだ、草木や土にぬくもりが漂う。  野良仕事も、収穫を終えて、一段落なのだろうか、何かしら安堵した優しい土の香が心地よい。思わず、ありがとうと、土いじりをしたこともないものでも、土に触れて感謝する。  東の峰々にかかる雲の合間から、一条の朝の光りが差してきて、広く、深く、森を林を田畑を家々を町並みを、紅玻璃色の深く優しい

    • 不思議な氷像現象は人類の意識の変容を投げかけていた

      近辺に出現した不思議な氷像現象は人類の意識の変容を促すものであった  これから記述することは平成20年2月9日から令和4年1月30日に至るまでの間に、10回に渡り、自坊に出現した氷像の記録である。これはきわめて不思議な形をしたものばかりである。  初めは誰かのいたずらかと思うほどの珍しい形をしていたが、注意して観察しているうち、自然におきる現象であったのである。  しかも、この記録では、出現のタイミング(予測できなかった)が、まるで大惨事を予見したかのように出現していた。

      • 祈り その2

         世界中の人々が新型コロナウィルス感染症の猛威にさらされるなか、ローマ教皇が大聖堂の中でひとり祈りを捧げておられる光景は忘れがたい。  誰もいない伽藍の中でただ独り静かに祈りを捧げておられる。  まさに人類は絶望の淵に立たされているのだと思わざるを得なかった。  このとき、世界を救った医療従事者は昼夜をお惜しまず、絶望の淵に立つ患者の生還を期すべく、懸命に対応している。その姿は大天使のそのものであったが、その役割を担えるものは少なく、現場はまさに壮絶極まりないもであった。

        • ダス ゲベート いのり

           あれは、大学の宗教学という研究室で学ぶ機会を得ていた頃だった。  4年生になり、6月の卒論指導会までに「論題」を提出しないと今年は卒業はできないから必ず出席するようにとの通知があって、のこのこと出かけたときのことであった。  実は、寺に住み込み修行をしながら、この大学に入学し通っていたのだが、寺の忙しさにかまけて、卒論の準備どころではなく、後回しにしていたのである。  しかし、最後通牒が届き、道すがら、さて、何を卒論にするか?このとき小生はのもっぱらの関心事は「霊能者の霊感

        いのち 日々に新たなり

          平和を問う

           われわれは、どうも、いつでもどこでも、ひとりであろうが複数であろうが、絶えず、人間関係で悩み苦しみ、相克している。口げんかぐらいならまた始まったくらいのものだろうが、これが民族間や国家間の激しい対立ともなると、核兵器使用までも辞さない狂気の沙汰に変わる。  つい、今し方にパンデミックを起こした新型コロナウィルス感染症は、何十万何百万のもの犠牲者が出てしまう悲惨極まりないもので、人類史上かつて味わったこともないような世界規模の感染症をまのあたりにして、追い込まれているときは、

          ある不思議なひびききが心の奥でしている

           平成27年の暮れから平成28年にかけて、或る不思議な響きが心の奥でずっとしていることがあった事を思い出している。  それは、音というより無音に近いもので、鈍重な響きであり、何かが、どこからか語りかけてきているようにも思えた。しかし、言葉として明確なものは何一つ分からないものであった。  しばらくの間、その響きは、明らかに、ますます、何らかの意思を伝えようとしているかのように、繰り返し響いていた。(気のせいか?病気か?)しかし、体には特段の変化は見られない。ごく普通であった

          ある不思議なひびききが心の奥でしている

          苦しみのそばで光り輝くものとは・・・

           なんということだろう。  まるで幼稚な子どもに核爆弾や人工知能を持たせたかのように、ならず者の支配者の横暴を誰も止められず、ただ、跋扈するがままに、しかも、兵器による地獄の惨状の脅威に曝されている当事者のほかは、どこか遠くの映像を見るかのように他人事でしかない自分の無力さにどうすることもできずにいる蒙昧な自分自身を見るとは。  おお!人は神の名の下に、イデオロギーに過ぎない正義や掟の名の下に、大惨事を引き起こしてなおわが神を見、わが正義を見、生きものの苦しみ見ようとはしない

          苦しみのそばで光り輝くものとは・・・

          混迷の時代を超えて

           この年は境内の草木がいつになく鮮やかで、はっとするような輝きを見せていた。  ある日の夕方であった、ふと、見上げると、真っ青な空に二羽の鳳凰が互いに向かい合って舞を舞っている。そのツガイの鳳凰のちょうど真ん中には光り輝くものが不思議な光を放つかの様であった。  この光景を見て、思わず息を呑む。  だが、しかし、これは高層の筋雲が上空の風になびき、刻々と変化するものにすぎないのだが、まさに極楽浄土に舞う鳳凰と光り輝くものの威光が輝いていて、いかに自然のなせる業とはいえ、神々し

          混迷の時代を超えて

          自我を捨てれば、光あるもの、これ一心なり  

           「ショウジュマル、ショウジュマル、ショウジュマルや」と何度も呼んでいる。こんな山奥で、いったいどうしたのか?迷子になってしまったのだろうか?  そう思いながら更に寺があるであろう方向に降りるにつれ、「ショウジュマル!」と呼ぶ声が近くなり、もう少しだと思った途端、目が覚めた。  ああ、夢であったか。しかし、「ショウジュマル」という声ははっきり耳に残っている。さて、夢とはいえ「ショウジュマル」とは初めて聞くが、はたして、いったい誰だったのだろう。  起きてから、妙に気になる

          自我を捨てれば、光あるもの、これ一心なり  

          光り輝くものとの遭遇

            奇しくも、東日本大震災直後、2011年8月29日であった。小衲、ある寺で不測の事態が生じ、その寺の総代達に請われてその寺の本堂に入ることがあった。震災から5ヶ月は経っていたが、まだ被災したままの庫裏や本堂内を見回り、内陣の裏にある位牌堂に入る。  そこには、等身仏の阿弥陀如来が祀られていた。かなりの古い仏像である。裏堂に祀られているのが不思議なほどの大きな仏像であったが、よくみると、どうしたことか、この阿弥陀如来の御眼から涙が滴りおちているように見える。(なにか光の加減で

          光り輝くものとの遭遇