本不生の光輝くものを現代に問う
はじめに
だいぶ前のことだが、ある方が、突然、この寺を訪ねて来られ、ある話をされた。
「人間関係が苦手な自分は、疎外感ばかりが募る中で育っていました。唯一、自分のよりどころとしたのは、見えないところに在す神仏に対する自分の強い思いだけでした。
しかし、不本意なことに、人生の大半をかけて、見えないものへの探究を通して、自分の存在の意義をもとめてきましたが、ある時の一瞬の出来事によって、自己の存在を根底から覆す事態に陥り、一瞬にしてその価値は無に帰してしまったのです。
そう、それは、全く想定外のできごとでしたが、それを前に、自分の意義は木っ端微塵に吹き飛んでしまったのです。
自分の悪業はかくも深いものなのかと、おのれが招いた罪業の前に進退窮まってしまったのです。とりつく島がないとはこのようなことを言うのでしょうか、自分を支える意義など灰燼に帰してしまった現実でした。(※彼はこう語りながら、具体的な状況を話してきたのであるが、ここではそれを記すことは個人に関わることなので控える。)
しかし、ふり返えりますと、自分はこうしたことが人生でしばしば起きていたような気がします。
どうして自分ばかりがこのような羽目に陥るのか。よほど悪い星の下に生まれたのであるのか。見えざるものへの探求に費やしてきた自分自身が、まさかこのようなことになるとは、一体、見えざるものを信じてきた自分とは何だったのか。信仰の前に自分が崩れることはない。そう信じて生きて積み上げてきたものが、ガラガラと音を立てて崩れてしまったのです。
言い知れぬ闇と、行き場のない苦悩。必死に守ってきた自尊心そのものが潰れてしまったかのようでした。
とはいえ、これほどの事態に陥っていながら、その一方で、鉄面皮のように、平然と突きつけられる現実に、しゃあしゃあとして生きている自分がいるのです。しかし、全く、これでは全くの偽善者だという気持ちが奥底にあり、正直、生きた心地がしないのです。絶えず恐怖と葛藤が心の奥で巡るばかりなのです。・・・・・」
そう言って、しばらく、沈黙が続いたが、彼はまた語り出した。
「すみません。先ほど、この街に用事があって来たのですが、ふと、街中を歩いて、気がつくと、この寺の本堂に上がり込んでおりました。たまたま通りがかりにお寺があり、本堂の戸が開いていたので、引き込まれるようにして、来てしまいました。すみません。お断りもせずに・・・・。
自分はどうしたんだろうか。いまさら、こんな、いくら仏様に祈ったところで、悪業極まりない自分だもの、一体、どの面下げてお願いするというのだろうかと、自分に興ざめておりました。ただ、確かに、もう、誰にも会いたくない気持ちが強く、どこかに逃げたかったことは確かです。
たまたま通りがかりのお寺でしたが、中に入ると、妙に落ち着くので、しばらく佇んでいました。
薄暗がりの中、ご本尊の前で、ただボーッとしていたのですが、ふと、経机に置いてある『和文般若理趣経』に目が止まりました。折りたたみの経本で、だいぶ読み込まれ、所々破れかけていました。
なんとなく気になり、その経本を手にとり、読んでおりました。不思議です、実に不思議です。お経の一字一句が心に飛び込んでくるのです。そして、経文のある一節に、目が止まり、何度も、何度もそこを読みました。なぜだか、ただ有り難く、ただ有り難く、心に沁みるものがあったのです。
『般若理趣経』そのものはとても難しいもので、全く読めませんが、和文に目を通す内に、自分のような罪業極まりないものをも見据えているという直感がありました。身も心も自分の犯した罪故に怯えてきたのですが、この経文を手にして深い安堵が静かに湧い来たのです。この経文から溢れ出るいいようのない慈悲の念いが、わが心身に沁みいるばかりででした。
むろん、これまでの自分の罪深を消すことはできないが、そのために絶望のどん底に落ち込んだものをなおも包み込む慈悲の光をかすかに垣間見たような心地がして、心底、洗われるような思いがしたのです。
このとき、心底、このような尊い般若理趣経に巡り会えて、本当によかったと思い、有り難かったです。
それで、ぶしつけながら、お礼を申しあげたくて、お声かけさせていただいた次第です。」
と言って、話しが済むと、彼はそのまま帰っていった。うっかり、名前も居所も聞かず終いであった。
辺りは、もう、相当、暗くなっていたことを覚えている。
さて、般若理趣経は真言宗で、僧侶がとても大切にとなえてきた大事な経典である。ただ、その真実義を理解することは、ご存じのかたもおられるかどうかわからないが、専門の僧侶ですら、甚だ難しいとされる。(ただ、般若理趣経は膨大な経典群の中では初心者用とされている。しかし、これは釈迦牟尼仏の根本的正覚知からきているものであることを専門の僧でも知る者は少ないようだ。)
彼が寺を尋ねてきてから、既に十数年は経っている。それ以来、あらためて理趣経を学び直すことにしてきた。
実は、東日本大震災の前年から萬歳楽山山頂で理趣経法の供養すべきことを山自身から促されていたこともあって、理趣経を『ブッダ親説の本初本不生』を基底に理解しようと、試行錯誤をしてきたのである。小生はもともと浅学非才の者であり、この探究にあたっては、希有の先達方の識された理趣経和訳などをどれほど参考にさせて頂いたことか。その学究の深さと偉大さには頭が下がるばかりである。
故に、先ず、先人のこうした学究に深く感謝を捧げたい。
とはいえ、上記のような来訪者の話から、現代に理解可能な般若理趣経を世界に問う必然性を感じてならなかった。
小生が、初めて『般若理趣経』の手ほどきを受けたのは、昭和四十三年八月、東京都在住のある高徳の大阿闍梨の門を叩いたときであった。爾来、般若理趣経は真言宗の根本経典として今日に至るまで小生の拠り所としてきた経典のひとつである。
しかし、小生の宗乗では、般若理趣経は、誠心をもって読誦し、書写することはあっても、至らざるものが和訳して誤ってはならないものであると、和訳そのものを厳しくいさめられている。
よって、こうしたものは仏教学の泰斗以外は世に明らかにできない難解さがあった。
しかし、上記のように、この理趣経は現代のわれわれにこそ理解されるべきものであるという強い思いを禁じ得ない。
小生のような無学なものでは全く歯が立たないものであるというだけでは済ませられないものがあるのではないか。
開き直って、逆に問いたい。仏教学者でも何でもない小生のようなものがわからなくて、どうして経文でありうるのかである。(読者はあきれて笑うだろうが)
何としてでもこの経を現代に問わなければならない。それも、ブッダ親説の要諦、光り輝くものの臨在を謳歌する般若理趣経をである。
まさに混迷の度を深める現代にこそ問わなくてはならない経典なのだと思う。
そのような思いで般若理趣経を生涯かけて見つめてきた。いくら年月をかけてもさっぱりであった。だが、不可思議なるものからの教示をいただくことが度々起こり、とかくくじけそうになるのを叱咤激励していただいた。
洋の東西を問わず、時代を問わず、不可思議な叡智の輝きのようなものが、小生に問いかけてきているような気がしてならない。
愚劣な人間同士の戦争をいまも引き起こす「原罪」とはいったい何であるのか。神やイデオロギーの名のもとに人を人とは思わず、いのちをいのちとも思わぬ神の裁きを人が下すという人間の欺瞞性こそが、当の「原罪」ではなかろうか。
この自己欺瞞をを打破してこそ、光り輝くものの臨在がかなうという強い確信がこの般若理趣経には込められており、人間の自身の魂に向けられているものであった。
人間自身にこそ革新が必要あることを示しているものが般若理趣経であると理解する。
おお!そのように般若理趣経を紐解いたとき、不思議に「大神咒」が与えられたのも事実であった。
今世紀に入って、人間は未曾有の苦しみに陥っている。異常気象・大震災・ウイルス感染症や核戦争の脅威・・・。ならず者が仕掛ける戦争を前にして人類の叡智である国連が機能しない。欺瞞に満ちたイデオロギーや正義や信仰の名のもとに、いのちをいのちとも思わない暴力の応酬が繰り返されている。これを止めるのは誰か。神か?人間の作り上げた欺瞞に満ちた神が戦争を止めことは不可能であることを歴史が証明している。二十一世紀に入ってますます手段を選ばず、非業な暴力と破壊の戦争を繰り返し、核兵器に依存している。
これは正義でも神のなせる業ではもない。人間の欺瞞といわずして何というのか。
世界が滅びる前にこの自己欺瞞に終止符をうたねばならない。その欺瞞性に気づく人間自身により欺瞞性に終止符を打たねばならない。
人々の悲しみと苦悩を直視せよと説いたのはブッダであり、そのブッダの根幹が般若理趣経にある。それゆえ、偉大なる先師の正当な理解と、浅学だが筆者自身が見えざるものに導かれた視点で、「般若理趣経」を現代に問うものである。
以下は、『大楽金剛不空真実三摩耶経 般若波羅蜜多理趣品 大興善寺三蔵沙門大廣智不空 訳』を現代に活かせればという強い願いで和訳を試みた。愚僧なるものの独善的私見であることを初めにお断りしておく。長文で煩雑なものになってしまったので要点を添えているが、かえって煩らわしくなっているかもしれないので、ご容赦賜りたい。
なお、本格的に、更に学ばれたい方は、サンスクリットや漢文の原点に触れ、学術的に信頼された仏教の泰斗が教示される『般若理趣経』にあたられることをお勧めする。
『本不生の理趣なる光りに触れて』
一、遍照金剛(光り輝くもの)の降臨
要約 この章は、光り輝くもの(遍照金剛)が降臨し、真理の光で世界を満たし、苦悩するものを救うという内容。
遍照金剛の降臨: 光り輝くもの(遍照金剛)が現れ、真理の光で世界を満たす。
薩たちの役割: 八大菩薩がそれぞれの役割を持ち、人々を導く。
1.金剛手菩薩: 自己を見つめ、迷いを克服する。
2.観自在菩薩: 大慈大悲の心で生きる。
3.虚空蔵菩薩: 豊かな心と創発性を見出す。
4.金剛拳菩薩: 創造し続ける。
5.文殊師利菩薩: 真相を直視する。
6.転法輪菩薩: 迷いの根源に気づく。
7.虚空庫菩薩: 大慈大悲を享受する。
8.催一切魔菩薩: 魔障を打破する。
付加
恩寵による加持咒: 特定の咒文が唱えられ、真理の光が広がる。
いま、ここに、本不生の『般若理趣』、光り輝くもの(毘盧遮那如来)の境界が響いている。
普賢金剛の智恵の光りは、すべてのものの菩提心となり、本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造の源である。
広大な真理の世界を開顕し、智恵の宝冠を耀かし、無明の闇黒に苦悩するものをも鼓舞し、内に秘めたる宝性を顕わにせしめ、「自身の光」とならしむ。
真如の恵眼によって世界を観察し、「不生の仏心」をもって、差別対立を超える平等大悲へと導かれる。
遍照金剛(光り輝くもの)は、あらゆるものの大慈大悲の本不生心を開き、悉く真如の光りとならしめ、いのちあるものの身口意の全行動をして刻々の創造へと導かれる。
この遍照金剛(光り輝くもの)が、他化自在天の宮殿に臨在しまして、ブッダ親説「本不生」を指し示された。
他化自在天の宮は、地獄の業火が燃えさかり、疎外され、搾取され、苦悩の激流の怒濤逆巻く世界であったが、そこに、遍照金剛(光り輝くもの)が臨在まして、たちまち真理の光りで満たし給うた。
無明の業火は清らかな五色の光明に転じ、猛り狂う嵐は止み、心地よい微風に、幢幡がゆらめき、鈴鐸の麗しい響きに、みな、安らぎを覚えた。
孤立し孤独に苛まれたるものも、清浄珠玉の仏心が内から輝きだして、互いに清らかな慈愛の光に満たされ、あらゆるものが、相和し、清浄で、穏やかで、活気に満ちた世界となった。
遍照金剛(光り輝くもの)は、八十億ともいわれる真如を響かせる菩薩をともなわれている。とりわけ麗しき光輝を放ちたる菩薩は、八大菩薩と称えられていた。
その八大菩薩とは、
先ず、金剛手菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、厳しく自己を見つめ、迷いを克服し、金剛の智慧に目覚め、本不生として生きるよう導かれる大菩薩である。
二、観自在菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自身が清らかな大慈大悲の不生の仏心の耀きであると観じ、不生の仏心ただ一つで生きることを導かれる大菩薩である。
三、虚空蔵菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら豊かな心と無限の宝性(創発性)を見出して生きることを導く大菩薩である。
四、金剛拳菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら刻々と新たに創造し続ける本不生を体して、停滞することなく生きること導く大菩薩である。
五、文殊師利菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして自ら自我の蒙昧な欺瞞性を見抜き、事物の真相をありのままに直視して生きること導く大菩薩である。
六、転法輪菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら迷いの根源に気づき、転識得智し、本不生の大法輪を転ずるよう導く大菩薩である。
七、虚空庫菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら現象界に刻々と停滞なく流入する本不生の無尽蔵なる大慈大悲を享受し、天真爛漫に生きることを導く大菩薩である。
八、催一切魔菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら魔障の欺瞞性を打破し、真如を貫いて生きることを導く大菩薩である。
遍照金剛(光り輝くもの)はこのような菩薩たちとともに般若理趣の真如を響かせる。その刻々なる創命は、何れの時、何れの処にあっても光り輝く「不生の仏心」なのである。
【恩寵による大神変加持咒】
ビルシャナブツ ビルシャナブツ ビルシャナブツ
ヴェカラー ゼエルゼ ヴェアマル
カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
メロー ホル ハアレツ ケヴォドー
ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージソワカ
『本不生の理趣なる光りに触れて』
二、光り輝くものの「清浄の法門」
要約 この章は、光り輝くもの(遍照金剛)の「清浄の法門」について述べている。
1.光り輝くものの源泉: 一切の法門は光り輝くものから来る。般若理趣の真髄は、浄穢の分別を超えた本来清浄の創造活動である。
2.十七の清浄の法門: 世間の欲望や快楽は苦しみの元であり、仏道修行者はこれらを克服する必要がある。
3.自我の克服: 自我による苦楽の構造に気づき、その束縛から解放されることで、欲望が本不生の法門となる。
4.自己凝視: 自己をあるがままに観察し、自我の欺瞞性に気づくことが解放の鍵である。
5.般若理趣経の示す道: 自己欺瞞から解放された心が天真爛漫な愛と喜びの本不生のものであり、その生命の源泉から歓喜が湧き出る。
この章は、仏教の教えに基づき、自己の欲望や執着から解放されることの重要性を説いている。
ブッダの視点:仮相と実相: ブッダは仮相を実体視する認識を否定し、外界の背後にある先験なる実相を認識することの重要性を説く。
1.本不生の先験性: 外界の事象は、現象と先験なる源泉からの加持感応同交によって新たに創命される。
2.虚妄の認識: 釈迦牟尼仏は虚妄の認識を否定し、実相における見えざるものを認める。
3.自我の迷妄: 自我による迷妄が破壊や苦悩をもたらす。自己変革が必要。
4.罪の自覚と変革: 罪を自覚し、その根源を断ち切ることで新たに生まれ変わる。
5.般若波羅蜜多の真理趣: 本不生に加持感応同交し、日々の生活で実践することが重要。
6.現実の直視: 現実の生活の中で真実を直視し、自己欺瞞から解放される。
7.金剛手菩薩の道: 金剛手菩薩の実践の道を示し、大慈大悲と勇猛心を持って生きる。
この章は、光り輝くもの(一切如来)の教えを通じて、自己の欲望や執着から解放されることの重要性を説いている。
1.不生のいのち: 全てのいのちは、尽きることのない本不生の源泉から湧き出る新しいいのちである。
2.五蘊と我欲: 五蘊(色・受・想・行・識)による我欲が、本来の不生のいのちを妨げている。
3.抱擁と慈悲: 抱擁が自己中心的な欲望から来る場合は破壊的だが、限りない慈しみや愛から来る場合は破壊しない。
4.探求心と我欲: 探求心が我欲から来る場合は搾取や暴力を内包するが、本然の探求心は純粋である。
5.慈愛の触れ合い: 自然な触れ合いも我欲によると搾取となるが、純粋な慈愛は違う。
6.歓喜と自我: 自我保身の歓喜は一時的であり、欲求不満や恐怖を引き起こすが、自己欺瞞から解放された心は天真爛漫な喜びをもたらす。
7.快楽と修行: 快楽に耽ることは修行の妨げとなるが、虚ろな我欲を理解し気づくことで心は鎮まり、豊かな心が湧いてくる。
8.般若波羅蜜多の理趣の法門: 本不生の創造は時空を超越し、現象化するプロセスを通じて森羅万象が現れる。
一切の法門は光り輝くものからくる。 般若理趣の真髄は、浄穢の分別を超えて、あらゆるものが本不生の神泉より刻々に湧き出づる本来清浄の創造の活動であること示す。
今より、この一切法の清浄なる妙理をもって、十七の清浄の法門を示そう。
世間における「妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味」などは、すべての苦しみの元であり、不浄でいまわしきものとして、仏道修行者はこれらの欲を克服しなければならない。
また、神との合一やエクスタシーを恩寵と錯覚し、「妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味」を神我に至る道と戯論に酔いしれ、愚行に陥るものもあるが、これらは「自我」に依る虚妄であり、すべて欺瞞に過ぎない。
しからば、なにゆえ 「妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味」が清浄なのであろうか。
その鍵は、先ず、はじめに「自我による苦楽の構造に気づくことにある」ことを指摘しておきたい。なぜならば、「自我による苦楽の構造に気づく」ことが、解脱の要諦であるからである。
自我の正体に気づき、その束縛から開放されることによって、初めて「妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味」が本不生の法門となるのである。
「自我」とは五蘊に執着した状態をいう。五蘊による妄見も自我である。そして、自我が蒙昧な愛欲へと導く。
自我による欲望の矢箭に射貫かれると、肉欲に耽けり、愛憎に繋縛される。その最も邪悪なる不浄の本質といえるものは、排他的自己中心性にある。即ち自我である。我欲にかられれば、欺瞞と搾取を繰りかえす。飽くなき欲望、即ち、自己中心的「快楽」を求める。だが、排他的なるがゆえ、破綻を来し、この快楽が「苦」の極みをひきおこす。この故に、修行者は、これらの愛欲を修行の妨げとして斥けることに苦闘してきたのである。
だが、いかに自我を取り除こうとしても、そこに意図する者があれば、それがまた自我であるから、自ずと自己欺瞞に陥らざるを得ない。
よって、この自我の欺瞞性そのものを自己凝視しなければならない。 自己凝視こそが「如実知自心」の要諦である。
先ず、はじめに、自己をあるがままに観察する。この観察によって、蒙昧なる愛欲が、全て虚妄なるものへの執着による自己欺瞞から起きていることに気づく。自己をあるがままに観察し、自我我欲の欺瞞に気づくことこそが、我欲妄念からの開放をもたらすのである。いわば、我欲妄念が自ずと雲散霧消するのである。自我を直視し、自我の蒙昧性に気づく。この気づきが、執着からの解放をもたらす。
このように「如実知自心」は、あるがままの自己を凝視することにあり、「自我の蒙昧性」に気づき、「自我からの開放」をもたらすものである。(如実知自心は概念ではなく、自心を凝視することからはじまる。)
このゆえに、内面性において、「不浄を浄に変えようという意図」は自己欺瞞である。この欺瞞に気づかない限り、いかに厳しい修行積み、覚醒を得ようと努力しても、欺瞞の構造の中にあり、「光り輝くもの」の本然の覚醒は起こりえない。
「光り輝くもの」の臨在は「自己凝視」にある。「自己凝視」は「如実知自心」そのものである。
(注:「如実知自心」において初めて天真爛漫なる「大楽」の境地が開かれる。したがって、「如実知自心」が起こらない限り、理趣経の示す「大楽」の本然を理解することはできない。)
覚者、釈迦牟尼仏世尊が最もいさめられたのは自己欺瞞(自我)による執着のことである。不浄は不浄、清浄は清浄。不浄が清浄とはならない、清浄が不浄とはならない。不浄は自我の欺瞞にあり、自我の欺瞞性に気づくことで、本来清浄なる「光り輝くもの」となるのである。
このゆえに、覚者、釈迦牟尼仏世尊は光り輝くもの(一切如来)の清浄なる法門、即ち、金剛と胎蔵の大日如来の法門を般若理趣の経えとして開示されたのである。
清らかな菩薩たちよ。汝等は、本不生の神泉より刻々に湧き出づる光り輝くものであり、汝等こそ、創造と調和と安らぎをもたらすものなのである。
したがって、巧妙な欺瞞の構造や、浄穢のこだわりの背後に潜む「我見の罠」に気づき、「光り輝くもの」をまのあたりにし、般若理趣の法門を開かない限り、人類の意識の変革は起こらないであろう。
(注:今さら!なぜこんな難しい理趣経を取り上げるのか。この問いを発する理由はここにある。「万人ひとりひとりの理趣経である」と強く思わざるを得ない。われわれはその初歩の初歩の入り口にたっている。)
「光り輝くもの(一切如来)」は明らかにする。
全てのいのちは、汲めども尽きせぬ阿字本不生の源泉から、こんこんと湧き出る、全き新らしい「不生」のいのちである・・・と。
五蘊による我欲が、その本来の「不生」のいのちで生きることを妨げている。このこと見据えて、次のことがらを観察していこう。
まず、はじめに「抱擁」についてであるが、穢らわしいとされるものは、その抱擁の陰にある我欲の自己中心性、搾取性、欺瞞性にある。いかに甘美な抱擁であろうとも、その正体が相手を喰いものにする自我の欲望にすぎないならば、その搾取性により、必ず、相手を破壊し、苦しみをもたらすものとなる。
しかし、本来、かぎりない慈しみや愛の自然な現れが抱擁となるのであるから、抱擁が相手を破壊するものではない。本然は、本不生と感応同交する加持そのものである。まさしく、慈母の恩愛があらゆるものを育むように・・・・。
この汲めども尽きせぬ本不生の神泉より刻々に湧き出づる限りない慈悲こそ本来のものである。
一見すると、この世界は種を保存する本能が働く生存競争の激しい世界ではある。しかし、何ものも、本不生から逸脱し、自然の摂理から逸脱することはできない。自然の摂理を無視し、我欲に走るならば、必然的に「自滅の道」をたどることになる。
さて、次に「ものごとを究めようとすること」についてであるが、これも、我欲がはたらけば、相手を射殺す毒の矢箭となる。我欲がいかに巧妙に探求心を装っていても、正体が我欲であるのだから、自己中心の搾取や暴力を内包している。
そもそも、「ものごとを究めようとする心」は本不生の神泉より刻々に湧き出づる天真爛漫な創造への探求心の顕れであり、本然のものである。
我欲は、そういった、本然で汚れのない赤心(無垢な心を)を阻害し、ねじ曲げ、暴力化してしまうものである。
次に「慈愛の触れ合い」についてであるが、自然な心身の触れ合いも、我欲による身びいきが働けば搾取となり、苦しみと破綻をもたらす。
(注:ここで、般若理趣経を理解するうえで、最も基本的で重要なことがらについて補足しておきたい。それは、「初会金剛頂経における五相成身観」である。五相成身観は釈迦牟尼仏が不動三昧の禅定におられたとき、「光り輝ける一切如来」をまのあたりにして、金剛界を覚られ、「光り輝くもの(毘盧遮那)」そのものとなられ「即身成仏」されたという「如実知自心」のプロセスのことである。
これは、「般若理趣経」の根幹は「われわれひとりひとりが自己凝視を通して我欲の欺瞞性に気づくこと」大前提としているのである。
「如実知自心」のプロセスはひとりひとりの責任であり、他者が代われるものではない。不生の仏心が自我の欺瞞性の雲に覆われないよう、絶えず潜象と現象(真如の世界と現象界)を通して、ひとりひとりが問われているのである。)
このように欺瞞に気づくことで、我欲は失せる。我欲に陥る限りは光り輝くものは顕れない。なぜなら、この我欲に気づかなければ、巧妙に欺瞞を隠しても我欲の延長でしかない。そこに気づく。気づけば、欺瞞の雲は晴れて、光り輝くものが顕わになる。不生心が自ずと本流となって顕れ、互いを慈しみ、活かす、清らかな交流となって花開くのである。
そこには欺瞞に基づく渇愛や憎悪や嫉妬や葛藤の苦しみは微塵もない。天真爛漫な喜びと活動があるだけである。)
また、このような自我に惑わされない慈愛の心は、「道を求めて止まないもの」となる。これは、搾取や欺瞞に基づくものとは根本的に異なり、欺瞞性に対しては、厳粛に向きあう。このような厳粛なる勇猛果敢な自己変革の行動は世の中における革新的な活動となって顕れる。自我による思想や理念や宗教などの名の下に虚飾された妄信や狂信などに走ってしまう欺瞞性とは全く異なる。本来の革新の力である。
次に「歓喜」であるが、本不生を見失い、欲求不満や不安におびえ、自我保身の我欲にはしるならば、常に目先の快楽に逃避し、果てしなく歓喜をもとめる。しかし、その歓びは一時的なものに過ぎず、欲求不満や恐怖に駆られるばかりである。人の心というものかように浅ましくもあり、やるせなき孤独の限りに苛まれるものではあるが、さりとて、かかる気持ちで歓喜に逃避することは自我の欺瞞に過ぎない。それゆえに、その苦しみと哀しみは果てしない。ひとときの歓喜の楽を得ても、すぐにまたそこ哀しみと不安の苦しみが起こり、ただひたすら不安と恐怖から逃避せんと楽を求め、歓喜をもとめ、際限もない。おのれにある欺瞞こそが貪欲と渇愛に溺れさす当のものである。
しかし、自身を滅亡の淵に導くものが我欲欺瞞にあることをおのれの心をあるがままに見つめ観察するならば、自我は消失し、もともとの慈愛の本心即ち大安楽が顕わになるのである。
般若理趣経が指し示す「大楽」とは、まさに、自己欺瞞から解放されたおのれの心というものが天真爛漫なる愛と喜びの本不生のものであり、そのいのちの源泉からこんこんと湧き出づる歓喜のいのちに活きることを示している。自分のためとか、他人のためとかそういった欺瞞の構造とはおよそ無縁な、天真爛漫な生命の本質である。
自我我欲や自己保存の欺瞞性に気づき、五蘊による我見への固執が微塵もなくなってこそ、一切法清浄である本不生の顕現、すなわち、刻々のいのちの源泉を汲むことができるということである。
この世で生かされ生きる「不生の仏心」のいのちの営みにこそ、あらゆる苦難を乗り越え、真理の世界を実現していく、限りない創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)の力が秘められている。欺瞞を離れ、真理に気づき、自身の光りとなってこそ、あらゆるものとともに、喜びに満ちた新たな世界を刻々に創造していくのである。これが本来の我々であり、これこそが菩薩の道なのである。
次に「快楽」であるがこれも同様である。修行者にとって、自分を美しく飾りたて、快楽の世界に心を奪われ、肉欲に耽ることは、明らかに修行の妨げとされてきた。
確かに、虚ろな我欲の罠にはまった執着心、渇愛の自己欺瞞は、心を惑わせ、修道の妨げとなる。
だが、自分のこの虚ろな我欲をあるがままに理解し、気づくことによって、その心は鎮まり、本来の天真爛漫な喜びと豊かな心が湧いてくるのである。このありようは僧俗の区別などあろうはずもなく人の心の全てにいえることである。
本来の自分とあるべき自分とを分離せず、あるがままの自分自身を見つめることで、気づきを深めるならば、自他一如の菩薩の本心が顕わになり、真理をもって世界を荘厳し、偉大な法城を建設し、探求と創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)のいとなみを遂げていくものである。
これこそが、無限の徳を備えた普賢金剛薩?即ち毘盧遮那佛の本不生から湧き出る世界の創命の力なのである。
確かに、ブッダ(釈迦牟尼仏)は「眼に見る世界、耳に聞く世界、鼻に嗅ぐ世界、舌に味わう世界、これら色声香味の感覚より生ずる世界は、事物の五蘊に投影し、記憶に留めた仮象は、虚妄であり、実体ではない。」と指摘されておられる。
しかし、現象の事物を離れて、本不生の創造はあり得ないことも事実である。
一切法清浄の刻々なる創命は、先験なる本不生(金剛界大日如来)と潜象なる本不生(胎蔵界大日如来)が滞留なく、加持感応同交(金胎両部不二すなわち金胎両部互換重合)することで、森羅万象は現象化している。
この現象化のプロセスは阿字本不生なるが故に、「時空を超越」したところから来ている。
「時空を超越」しているということは、単に、歴時的に刹那滅というのではなく、先験なる本不生の神泉より刻々に湧き出づる新たなる創造は、潜象と現象が互換重合?入し、【六大は無碍にして常に瑜伽にある】がゆえに時空を超越していて、相即不離にあるということである。これが、本不生の法理であり、実相である。
人知を超えた「本不生」の「光り輝くもの」から法報応の「如来の三身」のプロセスを経て、刻々に出現し、型として作用する五蘊が刻々に感受するのである。まさしく、この互換重合?入のプロセスをして五蘊皆空というのである。
この「創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)」を指し示す「般若波羅蜜多の理趣の法門」というのである。
(注:伝説の「南天鉄塔」「瑜祇塔」「ボロブドールの寺院遺跡」はいずれも全てのいのちの本不生心(菩提心)が「光り輝くもの」の創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)であることを示しており、「光り輝くもの」の創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)を自心で体得することが五相成身観にほかならない。)
金剛手よ、若しこの清浄世界を見開く、般若波羅蜜多の刻々なる創命に感応するならば、発心から悟りの完成に至る修行の間といえど、また、たとえ、自己の心を動揺させる様々な障害(一切蓋障)や、愛欲より起こる煩い(煩悩障)や、知識より生ずる偏見(法障)や、自己の行為より生ずる様々な悩み(業障)などを積み重ねる迷いがあろうとも、いのちの実相は、過去は過ぎ去ったものであり、未来はまだ顕れてないがゆえに、まさに、「刻々の今にこそ、自己変革の道はある。」のである。
また、外界の事象は、このように、時空を超越した本不生の「先験より滞留なく今に経過し、消失する」という実相において持続されている。
それゆえ、それは、決して、認識された観念的実体が持続していることではないことをはっきり自覚しなければならない。
(ここで、繰り返しになるが、ブッダ親説と阿字本不生をわれわれが的確に把握するために、「仮相」と「実相」とはいかなるものであるかは、般若理趣経の解釈の核心となるので、非常に難しいことではあるが、もう少し紙面を割いておきたい。)
先験より滞留なく今に経過し、消失するという実相において持続されているというであるが、確かに、ブッダは、仮相を実体視する認識による「欺瞞」性とその構造を虚妄であると否定された。だが、外界の背後にある先験なる実相を否定されたわけではないこと認識できるものは少ないので、肝に銘じておかねばならない。
虚妄ならざる外界の事象は、現象と超論理的潜象(先験なる源泉)からの加持感応同交・互換重合・?入【六大無碍常瑜伽】)して、この現象界に歴時的に時々刻々と、たえず新たに創命するもの(本不生の神泉より刻々に湧き出でるもの)である。
では、外界に実相をもたらす「本不生の先験性」とはいったい何であるのか。
釈迦牟尼仏の親説において否定されるものは虚妄の認識すなわち幻想である。架空の不存在なるものは画餅でしかなく、そうした架空のものと瑜伽(加持感応同交)することはあり得ない。つまり、虚妄なる概念上のものに加持感応しているとすれば、それは妄想でしかない。それは、いかなる神聖なビジョンといえども五蘊に捕らわれた幻想である。これは、自己欺瞞、錯覚、自家中毒状態でしかない。したがって、これらは、いかに偉大なる宗教や修行法であると喧伝されようとも、何ら本不生における真実、瑜伽性とは全く無縁のものである。
だが、ここで、謬ってはならないことは、事象における先験なる本不生と現象が相即不離の瑜伽性(感応同交?入)にあることは否定され得ないということである。同じ見えざるものといっても、「架空の見えざるもの」と、「実相における見えざるもの」とは全く異なるのだ。見えるものと、見えざるものは別個のことではなく、事象として相即不離にあり、全一である。どちらか一方だけを追求していっても、本不生の実相を理解することはできないということである。
ここで、重要なことであるので、あらためて、ブッダにより、虚妄の法として斥けられているところを整理し、真理趣の理解ヘの理解を深めておきたい。
本不生は、外界に、先験より停滞なく、今の変動が経過し、全き新しき変動として、刻々に創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)し、相続される。これが空の実相であり、空の実相は、絶えず、いま、ここ、である。従って、現象も先験なるみえざる潜象も、絶えず、いま、ここであり、死後に渡る彼岸ばかりではなく、此岸と彼岸はたえずいまここに互換重合?入しつつ、現前している。
それを覚らないのは、虚妄の自分。自我に縛られたままの片寄った自分に固執しているからである。
本来のものは、時空外にある先験なる阿字本不生を源泉として、いま、ここに、絶えず新たなものとして現前しているものである。
この不生の仏心を自我に付け替えて、その自我で迷っている。その迷いがまた、森羅万象において破壊や苦悩をもたらしている。この迷妄なる自我の責任は大変重いのである。
故にこそ、五薀におけるさまざまな障害をふまえて、いま、ここに人類が実相を観察するならば、瞬時にその欺瞞性を了得し、自己変革を起こし、たちどころに地獄の闇は消失するのである。
また、取り返しの利かない重罪を犯してしまったものであっても、その犯した罪の事実と重さは決して免れ得ないが、それで、不生の仏心がなくなるわけではない。問題を起こした自我そのものが、いま、ここで、その罪を自覚し、罪のもとである自身の問題を自覚できるなら、その問題の根源を断ちきり、全く新たなものとして、本質的自覚の故に、自我に迷わされていないものとして、全く、新しく生まれ変わるのである。本不生なるがゆえにこそ、いま、ここで、新たなものとして自己変革を起こすのである。自我による見せかけの変貌とは全く異なる。
これが理趣経における般若波羅蜜多の真理趣といえるだろう。
様々な迷いが湧き起ころうとも、この『般若波羅蜜多の真理趣』である本不生に加持感応同交し、日々、刻々に体するならば、現生(いまここ)において、聖俗一如である。迷いの雲(俗性)は晴れて、満月のごとき光り輝くものとしての仏心が耀きだすのである。
おお!。般若理趣の普賢金剛薩?「光り輝くもの」の究極の真髄、『清浄大楽(清らかなる慈愛の光に満ちた)』の阿字本不生を証得(了得)せよ!と般若理趣は響いているのである。
まずは、現実の生活の中における、あるがままの真実を直視しなければならない。事象の現実を離れた妄想の神々に逃避してはならない。あるべき理想と至らざる自我の現実の不毛の葛藤に、いまこそ、終止符を打ち、いまここに五蘊が目撃するその生の事実を通じて、生をあるがままに観察し、「真実の中に偽りを観じ、偽りの中に真実を観て、真実を真実と観じ、偽りを偽りと観じ」て、屈託のない心で、慈愛の喜びに溢れ、苦悩の生の中に、輝かしい自身の光を見いだしていかなければならない。
これが叡智を実践し、力強く生きるもの、すなわち、光り輝くもののいきかたである。
時に、世尊遍照金剛(光り輝くもの)は、この阿字本不生を実現するために、自ら金剛手菩薩となって、その実践の道を示された。この金剛手菩薩こそは、一切如来の心、そして大乗仏教の真髄である金剛界大曼荼羅の世界を体得し、叡智をもって根本煩悩と対決し、清浄心をもって煩悩を滅し、本不生の宝を与えていく、偉大なる光り輝くもの(大日如来)である。この渾々と湧き出る大慈大悲が、すべてのものを慈しむ本源なのである。
まさに、金剛手菩薩は大慈大悲と、確固不動の生き方と、大菩提心と、大勇猛心(果敢に取り組む心)を以て刻々に生きる大楽金剛不空三昧耶の実相を示された。竃
条件付けられたあらゆる執着よ、せまい心よ、金剛不壊心によって打ち砕かれん。清浄なる真実よ、大安楽(大慈大悲)よ不滅
の実相よ、金剛不壊心(不生の仏心)によって開かれん。
【恩寵による大神変加持咒】
ビルシャナブツ ビルシャナブツ ビルシャナブツ
ヴェカラー ゼエルゼ ヴェアマル
カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
メロー ホル ハアレツ ケヴォドー
ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージソワカ
『本不生の理趣なる光りに触れて』
三、光り輝くものの「真如の法門」
要約 この文章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「真如の法門」について述べている。
1.真如の生き方: 真如の生き方は、寂静で分別を離れ、本不生のままに「一切法清浄の世界」を見開く道である。
2.真如の四種の徳:
㈰金剛: 本不生心は堅固であり、あらゆるものを包含し大誓願を貫く。
㈪珠玉(義): 本不生心は魂の奥に秘められた宝珠であり、世界を宝土と化す。
㈫実相(法): 本不生心は事物の真如をあるがままに見る。
㈬一切業: 本不生心の働きは遍満する菩提心の個々の働きであり、世界を
浄化する自浄作用である。
3.求道者への教え: 大楽(大慈悲)の世界を体し、「一切法清浄の世界」とともにあるならば、真如の四種の徳を成就する如来の生きざまとなる。
4.真如の成就: 真如は「すべてのものが成就する」ものであり、平等に具わる不生の仏心である。
時に世尊毘盧遮那如来は大楽(大慈悲)遍照の徳である「光り輝くもの」として、真如の生き方を示された。それは、寂静にして分別を離れ、本不生のままに「一切法清浄の世界」を見開く般若波羅蜜多の刻々なる創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)の道であることを示された。
㈰真如は、金剛そのものである。何故ならば、本不生心は、いかなる誘惑にも迫害にも毀損つくことはない。それは金剛のように堅固であって、あらゆるものを包含し大誓願を貫くものである。
㈪真如は、滅びぬ珠玉(義)の本不生心そのものである。本不生心は、魂の奥に秘められた宝珠であり、この不滅の宝珠こそが「菩提心(不生の仏心)」であり、世界を宝土と化していくものである。
㈫真如は、現実の事象そのものの実相(法)であり、自然法爾(あるがまま)である。何故ならば、本不生心は明澄にして、事物の真如をあるがままにみているものだからである。
㈬真如は、自他一如のすべてのもののはたらき(一切業)そのものである。何故ならば、本不生心のすべての働きは遍満する菩提心の個々の働きであり、自他分別の断片的な狭猥な心を含み超えて、すべての生きとしいけるものそのままに、自ずから世界を浄化していく自浄作用であるからだ。
「不生の仏心」をもって全き完成を探求する求道者、金剛手よ。大楽(大慈悲)の世界を体し、「一切法清浄の世界」とともにあるならば、この真如である金剛と義と法と一切業の四種を成就する如来の生きざまとなるのだ。たとえ、汝が住む世界に煩悩の嵐が吹きすさぼうとも、また、底しれぬ不安と恐怖の闇黒に苛まれようとも、それらに怯むことなく、対峙し、四種の徳そのものであるならば、必ずや、自他のすべての繋縛を解き放ち、全てのものが輝かしき自身の光りとなり、大楽の真如が速やかに顕われるであろう。
時に世尊毘盧遮那如来はこのようにお説きになられるとともに、真如は「すべてのものが成就する」ものであることを示され、大悲の心を胸に秘め、本不生を貫く智拳印を示し、すべての世界の究極の真理は、平等に具わる不生の仏心であることを説き示され、その真髄の刻々なる創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)である瓦アークの真言を響かせ給う。瓦
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重要 【五相成身観】について
釈尊に比定される「一切義成就という名の菩薩」が菩提道場で阿婆頗那伽(不動)三摩地に入っていたところに、どこからともなく「一切如来」が姿を現して菩薩を警覚し、難行を重ねる菩薩に対して、速やかに一切如来の真実を獲得する修行方法として、真言とともに月輪と金剛杵を用いた五段階からなる観想法を教示するのである。その結果、菩薩は一切如来に加持されて、自らに備わる如来性に目覚め、 一切如来と平等性となって「金剛界如来」として成道する。金剛界如来とは序分の毘盧遮那如来のことでありブッダ釈尊である。 そして金剛界如来は一切如来によって須弥山頂の金剛摩尼宝峯楼閣にある獅子座に加持されて住し、一切如来はその周囲に阿?等の四仏となって金剛界如来の会座を形成する。
『本不生の理趣なる光りに触れて
四、光り輝くものの「釈迦牟尼仏の法門」
要約 この章は、釈迦牟尼仏が示す「自我を滅し、本不生に目覚めることによって欲望を正しく導く法門」について述べている。
1.自我の克服: 自我を滅し、本不生に目覚めることで、欲望を正しく導くことができる。
2.貪欲の消滅: 自我の条件付けに気づけば、貪欲は消滅し、本来の本不生が顕わになる。
3.心の明澄性: 心の明澄性に気づくことで、貪欲や瞋、愚痴が清らかな働きとなり、世界に変革をもたらす。
4.自己変革: 清らかな本不生心を顕わにすることで、世界を創命する自己変革の力となる。
5.般若波羅蜜多の働き: 欲望を正しく導くことで、虚妄の欺瞞性を撲滅し、正しい求道者としての自覚に目覚める。
6.金剛手の教え: 欺瞞に対峙し、慈悲の心を持って欲望を超克することが重要である。
時に世尊は、せまい自我心に凝り固まり、教化し難いものに対し、「自我を滅し、本不生に目覚めることによって、欲望を正しく導くブッダの親説」を示された。それはまた、この世のすべてのものは正邪善悪の相対的世界を超えて、根源の真理を創造する本不生の般若波羅蜜多、すなわち、刻々なる創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)であることを示された。
いわゆる貪欲などは、「自我に条件づけられた欲望の所産」であるが、自我の条件付けに「気づけ」ば、棄てるまでもなく、貪欲は消滅し、本来の本不生が顕わになる。それは、実に明澄で天真爛漫なものである。我欲に条件付けられた貪欲とは全く異なる。したがって、心の明澄性に気づくならば、貪欲の瞋とは全く異なる、我欲の欺瞞性に対峙する瞋となって打ち砕く。
瞋がそのようであれば、それより発展して生ずる愚痴もまたいかなる矛盾をも晴らす清らかな働きとなるのだ。このようにして、むさぼりの心、いかりの心、愚痴の心という働きは自我に基づけば、壊滅に導くものであるが、「不生の仏心」であるならば、これらの心は、破滅をもたらす悪行を喝破し、偽りを偽りと観じ、偽りの中に真実を見いだし、真実の中に偽りを見いだす、全く清らかなる働きとなる。その欺瞞を打破する働きこそ、この世界に変革をもたらす当のものである。
このように、自我を滅し、清らかな本不生心を顕わにするならば、世界を創命する自己変革の清らかな力となる。本不生は刻々にいまここに円満な心を形成し、刻々に消失しながら新たに創命する働きであるから、停滞させようとする自我の虚妄すなわち五蘊における執着とは全く異なる働きであるのだ。
そこには、迷いとして退けねばならぬものもなく、悟りとして求めなければならぬものもない。すべては明澄な刻々の行為があるだけである。 それまで葛藤のなかで厭われた欲望は消え、一転して、限りない本不生心の全き完成となり、自我を喝破し、愚痴の汚辱を払拭し、すべてを浄化せずにはおかない自己変革となる。これが、般若波羅蜜多の働きなのである。
求道者よ。限りない探求者である金剛手よ。若しこの欲望の正しい刻々なる創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)をよく見極め、実践していくならば、たとえ欺瞞に満ちた欲望を撲滅することがあっても、そのことで暗黒の争いの地獄の世界に堕ちることはない。何故ならば、撲滅されるものは虚妄の欺瞞性であり、それを喝破した彼は正しい求道者としての自覚に目覚め、自他ともに本不生の無上の悟りに導くからである。
時に金剛手は、欲望を超克し正しく導く刻々なる創命の力を重ねて明らかにして、内には慈悲の心を秘め、豊かな本不生心の形成を念じ、表には欺瞞に対峙する忿怒の形相で、狭い自我心の働きをあるがままに直視された。
竃、せまい自我心よ、厳しく自己を凝視して、あらゆる欺瞞性から解き放たれよ!
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五、光り輝くものの「本不生の法門」
要約 この章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「本不生の法門」について述べている。
1.本不生の自覚: 世尊は「不生の仏心」を自覚させる自性清浄法性如来となり、すべてのものを純粋にとらえ、真実の姿を見、深い真理を体現する道を示す。
2.欲望の克服: 欲望は心を乱し破滅に導くが、自我を凝視することで純粋な生命の本質に目覚める。
3.心の明澄性: 心が明澄になることで、物事の本質を見極め、欺瞞性に打ち克つことができる。
4.社会の浄化: 染汚の社会をあるがままに凝視し、その苦悩の本質を理解することで浄化が可能。
5.実相の把握: 五蘊に執着する自我からは実相を観ることができない。妄見の偏りに気づくことが重要。
6.般若波羅蜜多の智恵: 般若波羅蜜多はすべての欺瞞性を見抜き、誤りを正していく清浄なる智恵である。
7.求道者への教え: 明澄な心に導く刻々なる創命を体し、素直で清らかな心であるならば、濁世の闇に染まることなく、世界を浄化する力となる。
時に世尊は、「不生の仏心」を自覚させる自性清浄法性如来となり、明澄な心で、すべてのものを純粋(ありのまま)にとらえ、真実の姿を見、この世における深い真理を体現する刻々の新たな創命の道を示された。
欲望は、心を乱し、破滅に導くいまわしいものと退けなければならない。しかし、我欲の根底にある自我を凝視するならば、純粋な生命の本質に目覚める。
心が充たされぬことにより生ずる瞋も、充たされざる念いを凝視するならば、心は自ずと明澄になり、物事の本質を見極め、欺瞞性に打ち克つことができよう。
世間では、欲望に染まった心は自他双方に苦悩をもたらすがゆえに、厭い、棄て、その罪業を忌みきらうものである。
しかし、染汚の社会をあるがままに凝視し、その苦悩の本質を理解し、社会の混乱の原因を見据えることができれば、初めて、これらは浄化される。
世間では、せまい我見に囚われ、自縄自縛に陥り、抜け出せずにいる。しかし、世界の本源はもとより浄穢の差別はなく、自我我欲の妄見に気づき、妄見が消えれば、本来の明澄な心で、新たな真実の世界を見開いてゆくのである。
世間における知識も、本不生からみれば、如何せん、概念に過ぎないから、虚妄でしかない。
五蘊に執着する自我からは、決して実相を観ることができない。実相は自我の範疇にはない。全く異なるのである。我見の虚妄、即ち、現象に捕らわれている限り、実相である潜象の本質を観ることは決してできないからである。
「妄見の偏り」に気づかなければ、「現象の本質」は把握できない。常に新たな、見えざるものの本質である明澄な光り輝くものを観ることがないのである。
我見を離れ、すべての虚妄が止むとき、光り輝くもの、すなわち、本不生の般若波羅蜜多が顕れるのである。
ゆえに、般若波羅蜜多はすべての欺瞞性を見抜き、誤りを正していく清浄なる智恵である。
常に「不生の仏心」の完成を願う求道者金剛手よ。明澄な心に導く刻々なる創命を体し、自己をあるがままに観察し、とらわれず、素直で清らかな心であるならば、たとえ貪欲にまとわりつかれ、瞋や愚痴にまみれた濁世の闇にあろうとも、それらに染まることはない。ただひたすら「不生の仏心」のままに、本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造の道を歩み、穢れた世界を浄化していく力となれよかし。
あたかもあの泥沼に咲く蓮華の花のように明澄な心で、逆境を超えていくのである。
観自在菩薩は、重ねてこの明澄なる本不生の大悲の心を胸に、いきとしいけるものを慈しまれる。
明澄な心で濁世の闇を照らし出し、真実の道を切り拓き、不生の仏心ただひとつでもって、かけがえのない唯一無二の人生を生きていけるようにと。活 本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造の本不生心、明澄な心よ、開かれよ、世界も自己も清浄となれよかし。
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六、光り輝くものの「寶性の法門」
要約 この章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「寶性の法門」について述べている。
1.灌頂施: すべての生きとし生けるものが、本不生の神泉より湧き出づる唯一無二のいのちとして、仏のいのちを活かしあう清浄な施行。
2.義利施: 世間の財宝に執着せず、汲めども尽きせぬ本不生の財宝(不生の仏心の慈悲の本源)に気づき、無限の宝性を見出す。
3.法施: 本不生の神泉より湧き出づる創造がこの世の本然の姿であり、慈愛の活動により豊かな社会を築く。
4.資生施: 「不生の仏心」による糧を施し、身心ともに安らぎを得ることで、躍動する社会を築く。
この法門は、虚空蔵菩薩により確認され、真実の自己に目覚め、慈愛の心を育む偉大な財宝であることが示されている。
時に世尊は、三界主如来の心を示された。
それは自我の分断性を離れ、豊かな心を育み、常に新たな本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造である般若波羅蜜多による布施について示された。
第一 灌頂施
灌頂施とは、すべての生きとし生けるものが、本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造によってもたらされた唯一無二のいのちであり、活動であり、それが仏のいのちとして活かしあう清浄な施行であること。
とかく、自我は自己中心なるが故に絶えず他者と比較、分離し、目先の利害に眩み、他者に依存し、我見の苦悩の中で懊悩する。狭い我見は、やがて、さらなる自他の対立と孤独の溝を深め、互いに住みにくい世の中にする。このような我見の狭さを自覚し、本不生の広さに眼を開くならば、心は明澄となり、生死流転の苦悩である虚妄を離れ、光り輝くものからもたらされた本来の自己である「不生の仏心」にかえり、天真爛漫な活動を、刻々に行うものとなる。このような本来の活動を灌頂施というのである。
第二 義利施
すべての行きとし行けるものは世間の義利すなわち、よい宝物が得られれば、心は潤い安らぎを覚えるという。このような財宝を互いに与えるならば、喜びの心をもって迎えられ、心はお互いに融け合うこともあろう。しかし、世間の財宝は失われる性質のものだ。
このような虚妄の財宝に執着せず、汲めども尽きせぬ本不生の財宝(本源)に気づかねば、失うことへの恐怖に常に苛まれよう。
汲めども尽きせぬ本不生の財宝とは「不生の仏心」の奥にある明澄なる慈悲の本源をさす。この慈悲の本源に気づくならば、すべての生きとし生けるものは、深い真如の導きのもとに、本不生の神泉より湧き出づる刻々のいのちとして、本来、「光り輝く」無量のものであることを覚る。この明澄な心こそ、無限の宝性を見出し、その宝性のエネルギーが、ひとりびとりの、真に自由な躍動を促進すものである。これを義利施という。
第三 法施
本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造こそ、この世の本然の姿であり、この世はすべて、ひとも自然もそれぞれに本不生を秘めた天真爛漫な法の大慈大悲のなかで生かされ、生きているものである。一切の対立や、差別の心を超えて、慈しみに満ちた献身的な慈愛の活動により、建設的で躍動する豊かな社会を築いていく。これを法施という。
第四 資生施
「不生の仏心」による糧が与えられ、身心ともに安らぎが得られるということである。「不生の仏心」の糧を施すことは、かけがえのない「いのち」を生かす最上の徳である。
このような慈愛の徳行をもって、すべてのものを慈しみ、自他ともどもに無上の喜びをもって、躍動する社会、互いに天真爛漫な大慈大悲の「不生の仏心」を響かせる世界を築く。これを資生施という。
時に世尊は、この妙なる刻々なる創命を体するものである虚空蔵菩薩に、重ねてこの明澄な心が真実の自己に目覚めさせ、慈愛の心を育んでいく偉大な財宝であることを確認された。
阿字本不生から刻々と生み出される唯一無二のいのちの輝きを絆とし、その勝れたあらゆるもののいのちの響きに共鳴し、「不生の仏心」の奥に眠る宝性に目覚め、真如の世界を建設していくものである。謄
あらゆる生きとし生けるものよ。本不生から汲めども尽きせぬ真如の財宝を刻々にいただいて、無上の喜びとともに、唯一無二のいのちを輝かせて豊かな世界を創造していくように。
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七、光り輝くものの「正道の法門」
要約 この章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「正道の法門」について述べている。
1.本不生の生命活動: 身・口・意のすべての働きが、本不生の神泉より湧き出づる刻々の生命活動であることを示す。
2.自我の克服: 我欲にとらわれた迷えるものが、本不生に目覚め、本来の自己の探求と健全な社会の建設、輝かしい世界の創造を目指す。
3.一切如来の生き方: 一切如来(光り輝くもの)の堅固で確信に満ちた生き方を体することで、真実の行動となる。
4.虚妄を離れる: 虚妄なる我見を離れ、怠惰な心を退け、誘惑に流されず、毅然として自立する。
5.大慈大悲の心: 大慈大悲の心を体することで、明るく清らかな心の通う社会が創られる。
6.金剛不壊の大智: 金剛不壊の大智の心を体することで、身・口・意の働きが本不生の働きとなり、無上の幸せを得る。
7.求道者への教え: 常に自己の探求と住みよい社会の建設を目指し、欺瞞に満ちた社会でも、身・口・意の本不生の行動をもって輝かしい真如の世界を創造する。
時に世尊は身と口と意のすべての働きが、本不生の神泉より湧き出づる刻々の生命活動であることを示す智印如来について明らかにされた。
それは我欲にとらわれた迷えるものが、本不生に目覚め、本来の自己の探求と健全な社会の建設と輝かしい世界を創造していく般若波羅蜜多についてである。
一切如来(光り輝くもの)の堅固にして確信に満ちた生き方を常に体するならば、行動はそのまま一切如来(光り輝くもの)の真実の行動となる。
何故ならば、一切如来(光り輝くもの)の身体となって生きるものは、虚妄なる我見を離れ、怠惰な心は退き、激情の嵐の中にあっても怯むことなく、誘惑に流されず、毅然として自立し、独り立つものとして、自らを照らし、社会の闇をくまなく晴らしていくものであるからだ。
一切如来(光り輝くもの)の語られる真実を響かせるものは、その大慈大悲の響きゆえに、明るく清らかな心の通う社会が自ずと創られよう。
何故ならば、いずれのものも虚妄を離れ、真実を語るとき、誠実な有りようとなって、ひとりびとりの「不生の仏心」を動かし、すべてのものが円満に調和されていくからだ。
一切如来(光り輝くもの)の大悲の心を常に体するならば、如来の心に包まれて、無二平等の温かい社会が創られる。
何故なら、大悲の心は虚妄なるせまい自我をうち破り、全ての「不生の仏心」たるものとして包含し、互いを信頼と敬愛の心で満たすからだ。
一切如来(光り輝くもの)の金剛不壊の大智の心を常に体するならば、身口意の働きはそのまま本不生の働きとなって、無上の幸せは得られよう。
何故ならば金剛の大智に目覚めた行動は、常に虚妄なるせまい自我の牙城にとらわれず、それらを超えた本不生とともに、刻々の探求と革新の生を生きていく。
常に自己の探求と、住みよい社会を建設する求道者金剛手よ。この般若波羅蜜多における本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造をもって精進していくならば、たとえ、いま、ここが、欺瞞に満ちた社会であろうとも、また、束縛と、苦悩に喘ぐばかりであろうとも、身口意のすべての本不生の行動をもって、輝かしい真如の世界を創造し、心の通いあう、和かな社会を築いていけるのである。
時に世尊が示された般若波羅蜜多の刻々なる創造をなす金剛拳菩薩は、重ねて正しい行いに導く阿字本不生を響かせて、大悲の心と、確信に満ちた行動をもって、あらゆるものに呼びかけられた。
すべてのものよ。自ら道を照らすものよ、行動し、社会を浄化し、完成せよ。そして、完 の字を示された。正しい智恵で不動の心を確立し、すべてを調和に導く聖い如来の働きとなれよかし。
完
【恩寵による大神変加持咒】
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カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
メロー ホル ハアレツ ケヴォドー
ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージソワカ
『本不生の理趣なる光りに触れて』
八、光り輝くものの「戯論を断つ法門」
要約 この章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「戯論を断つ法門」について述べている。
1.戯論の打破: 本不生の慧眼をもって一切の戯論を打ち破り、真実の世界を創造する。
2.常住不変の否定: 世界も万物も刻々に変動しており、常住不変のものは無い。すべてのものは空であり、実体があるという見解は虚妄である。
3.実相の観察: 眼に映る万象は実体化して見えるが、それは障子に映る光の影や泡沫のようなものであり、見かけ上のものに過ぎない。
4.五蘊の虚像: 五蘊による虚像を外界に投影し、外界に実体があると錯覚している。実相は「先験なる本不生より停滞なく、今の変動が経過し、消失し、全き新しき変動として湧き出づる刻々の創造」である。
5.虚妄の法: 実体でないものを実体視することの欺瞞性に気づき、虚妄を離れることが重要である。
6.宇宙の摂理: 宇宙のすべてのいとなみは、本不生の摂理であり、先験より今に経過し、消失するがゆえに滞留なく、刻々に新たな源流の顕れとして躍動している。
7.真如の法: 加持感応による互換重合無碍?入に気づけば、断片的で偏った唯物論や唯心論に陥ることなく、大慈大悲の真如である新たな源泉を汲み取ることができる。
8.文殊菩薩の教え: 虚妄なる欺瞞性を喝破し、すべての執着を去り、如来に依存しようとする自我の欺瞞さえも見抜く勇猛心を示す。
時に世尊は本不生の慧眼をもって一切の戯論を打ち破り、世界の本然の姿を見開く如来の心を示された。
それは欺瞞性をうち破り、真実の世界を創造する般若波羅蜜多の刻々なる創命の実相である。
とかく、ひとはこの世界に永遠なる常住不変のものを願う。しかし、心静かに観察すれば、世界も万物も刻々に変動しており、常住不変のものは無いことに気づかれよう。何故ならばすべてのものは空であり、「先験なる本不生より経過し消失する実相であり、実体として止まるものはなく、それゆえ、実体があるという見解は虚妄に過ぎない。」と、ブッダは指摘された。この虚妄の法の真理に気づいたならば、いかに確信に満ちた自己の見解といえども、せまい視野に条件付けられた一つの観方でしかないことを知るのである。
眼にうつる万象は、あらゆる知識の処縁ではあるが、静かに実相を観察してみれば、実体化して見えるそれは、障子に映る光の影のようなものであり、大海に生ずる波濤のようなものであり、また、よどみに浮かぶ泡沫のようなものである。顕れては消え、消えては顕れる見かけ上のものにすぎない。
釈迦牟尼仏(ブッダ)親説によれば、(われわれは)眼にうつる外界のものをあたかも外界に実体があるように感受するが、それは五蘊によるもので、その五蘊の虚像を外界に投影し、外界に実体があると錯覚している。阿字本不生の実相は「外界に、先験なる本不生より停滞なく、今の変動が経過し、消失し、全き新しき変動として、本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造」であり、「固定された実体が変動しているのではない」ということなのである。
刻々に生滅変動しているものを五蘊は刻々に感受するが、五蘊の記憶に留めなければ、(われわれは)外界の変動を把握できない。すなわち、先験より変動する刻々の情報を五蘊の情報に変換し、それをもって外界に投影し、世界の存在を認識している。だが、その投影されたものは映像でしかなく、認識された実体がそこにあるのではない。五官に依存する者にとって、これを錯誤と欺瞞に陥ることなく把握することは非常に困難である。だが、そこに展開されている阿字本不生という先験より停滞なく、今に経過し、消失する、全く新しいいのちの創造活動を理解できなければ迷いの苦悩に溺れるしかないのである。
本不生は五蘊を超えた先験であり、五蘊で把握された結果的経験のものではない。五蘊による把握は切り取られた虚像でしかない。それを実体と視て、あたかも、外界に実体が変化変滅していると観ることは欺瞞に陥っている。これを「虚妄の法」とブッダは指摘された。
故に、実体でないものを実体視することの欺瞞性に気づくこと、その気づきによって虚妄を離れることが、いかに重要であるか。このブッダの親説を以てこの般若理趣は理解されなければ、多のいかなる経典同様、虚妄の法に堕するものであろうとおもわれる。
宇宙のすべてのいとなみは、本不生の摂理であり、先験より今に経過し、消失するがゆえに滞留なく、刻々に新たな源流の顕れとして躍動している。如来性の三身はすべてこの「空」を実相としているのである。
天地自然の偉大な働きは、局所的我欲を超えた大いなる遍満性の中からもたらされる実相(加持感応による互換重合無碍?入【六大は無碍にして常に瑜伽なり】)であるからだ。
局所的個々は「不生の仏心」が常に全く新しい完全な創命(本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造)のいとなみとして、遍満なる宇宙と加持感応同交し、刻々に変動し、出現している。しかし、これは森羅万象が「外界に留まる実体」の変動ではなく、先験なる本不生の変動であることを覚らねばならない。この実相を「空」といい、「阿字本不生」というのである。
この真如の法である加持感応による互換重合無碍?入に気づけば、断片的で偏った虚妄の唯物論や唯心論などに陥ることなく、大慈大悲の真如である全く新たな源泉を汲みとることができるであろう。
現実の世界も、眼にうつる世界も、すべてのいとなみも、その中に展開している清らかな本不生を観るならば、世界は本来、清浄であり、それを浄と穢と観る自我を去るならば、まさに、般若波羅蜜多こそが、宇宙に響く当のものであることに気づくであろう。
時に世尊の示された般若波羅蜜多の刻々なる創命(本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造)を心に体し、清らかな赤心(童心)を持つ文殊菩薩は、重ねて此の真実の世界を見出す刻々なる創命を明かそうとして、天真爛漫な大悲の心で、虚妄なる欺瞞性を喝破する慧剣を振るい、すべての執着を去り、さらに、如来に依存しようとする自我の欺瞞さえをも見抜く勇猛心を示された。
姦
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『本不生の理趣なる光りに触れて』
九、光り輝くものの「大転法輪の法門」
要約 この章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「大転法輪の法門」について述べている。
1.金胎両部の加持感応道交: 全ての「不生の仏心」は金胎両部が加持感応道交することで顕現する。
2.聖い転法輪: 「不生の仏心」を如来の世界に転入させる聖い転法輪が示される。
3.菩提心の成就: 菩提心が光り輝く大転法輪となり、仏果を成就する。
4.堅実な生: せまい自己を破り、堅実な生を歩むものたちは「光り輝くものである一切如来」とともに生きる。
5.魂の財宝: 魂の奥に秘められた不滅の財宝や勾玉(本不生心)を見出し、豊かな生を歩む。
6.無私無欲の誓願: 無私無欲の大慈大悲の誓願を持ち、光り輝くものの大転法輪として生きる。
7.大慈大悲の光り: 大慈大悲の光りは、我執を離れ、すべてのものと加持感応道交(重合)融和する。
8.纔發心轉法輪大菩薩の教え: 真の自己に目覚め、菩提心を発こすことで如来の世界に引き入れられる。
時に世尊は全ての「不生の仏心」は金胎両部が加持感応道交(重合する八輻輪、金胎両部不二なる正反重合の三角四面体(三角火輪)が大転法輪することにより顕現するという瑜伽清浄の本然の姿を開顕された。
「不生の仏心」である全てのものが、その如来の心をかいま見るとき、直ちに、全ての「不生の仏心」を如来の世界に転入させる聖い転法輪「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(三角四面体大金剛輪マカバMerkabah)の御業を示された。
それはこの世のすべてのものに具わる菩提心が「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(三角四面体大金剛輪マカバMerkabah)が八幅輪の光り輝く大転法輪となって忽ちに仏果を成就する般若波羅蜜多の刻々の創命となることを示された。
せまい自己を破り堅実な生を歩むものたちは、「光り輝くものである一切如来」とともに生きていく。何故ならばそれらのものたちは光り輝く金剛の世界に生まれており、すべての働きは堅実な光り輝く如来の働きであるからだ。
せまい自己を克服して、魂の奥に秘められた不滅の財宝や勾玉(本不生心)を見出し、豊かな生を歩むものたちは、菩提心を心として生きている。何故ならばそれらの「不生の仏心」は宝部といわれる新たなる創命の世界に刻々に出現し、本不生の力を持って大調和を展開させるからだ。
明澄な心で世界の真実を見、寂静の心で生きるのである。
生死流転の荒波は虚妄にすぎない。流転の波にのまれず、真如不退転の心で生きていく。
すべての行いにおいて、無私無欲の大慈大悲の誓願、「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(大金剛輪マカバMerkabah)は光り輝くものの大転法輪であり、常に偉大な大慈大悲の光りにほかならない。
まさに大慈大悲の光りは、我執を離れ、すべてのものと加持感応道交(重合)融和する、正反重合の三角火輪(三角四面体=大金剛輪マカバMerkabah)光り輝くものの大転法輪である。
時に世尊(光り輝くもの)の勝れた刻々なる創命を体する纔發心轉法輪大菩薩は、生きとし生けるものが真の自己に目覚め、菩提心を発こすや否や、直ちに如来の世界に引き入れようと、大悲の心を胸に秘め、金剛の世界に「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(大金剛輪マカバMerkabah)光り輝くものの大転法輪の真髄の轄を示された。
轄
「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(大金剛輪マカバMerkabah)の大転法輪により せまい心を転じて、偉大なる心と同化し、根源の美しい心を開けよかし!
注:「金胎両部不二なる正反重合の三角火輪(大金剛輪マカバMerkabah)光り輝くものの大転法輪の真髄
【即身成仏義「六大法界體性所成之身 無障無碍互?入相応 常住不變同住實際」空海】
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十、光り輝くものの「正道の法門」
要約 この章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「正道の法門」について述べている。
1.本不生の心: 「不生の仏心」が清らかな本然の心に導き、清らかな世界を開く。
2.報恩と探求: 自己の生命に報恩の誠を捧げ、菩提心を発こして探求の道を歩むことが、一切如来(光り輝くもの)の広大な供養となる。
3.苦悩の超越: 生死流転の苦海を乗り超え、一切如来(光り輝くもの)とともにあることに気づく。
4.大慈大悲の誓願: 一切如来(光り輝くもの)の大慈大悲は、苦悩を遠離させ、無限の道を照らし、誓願を成就させる。
5.真実と調和: 真実を凝視し、自己を凝視し、般若波羅蜜多を体することで、あらゆるものと共振し調和に至る。
6.虚空庫菩薩の教え: 大悲の心を胸に秘め、豊かな心を育み、刻々なる創命の正道を示す。
時に世尊は、「不生の仏心」が清らかな本然の心に導き、そこに清らかな世界が開かれることを示された。
まさに本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造が成就する無上の道であることを示された。
遇い難く、得難い自己の生命に報恩の誠を捧げ、菩提心を発こして、限りなく探求の道を歩むことは、一切如来(光り輝くもの)の広大な供養となる。何故ならば一切如来(光り輝くもの)の大慈大悲の誓願は、人々が長夜の夢を打ち破り、本不生の生命に目覚め、堅実な生の道を歩むことにほかならないからだ。
生死流転の苦海の中に漂流するといえども、自ら指針を得て、本不生の真実に目覚め、苦悩の波濤を乗り超え、いまここに一切如来(光り輝くもの)とともにあることに気づき得るのである。
一切如来(光り輝くもの)の大慈大悲は、苦悩の世界を遠離させ、無限の道を照らしだし、すべての誓願を成就させる。
大いなる真実の経えを深く敬い、探求の糧とし、創命の道を刻々に実行するならば、一切如来(光り輝くもの)の広大な供養とともにあるのである。
何故ならば、一切如来(光り輝くもの)の大慈大悲は、あらゆるものの根源と共振し、本不生の真理の世界に生きるよう導かれるからである。
真実を凝視し、自己を凝視し、最上の智恵である般若波羅蜜多を体するならば、あらゆるものと共振し、調和に至る。それが一切如来の持する光り輝くものとしての広大な供養である。
何故ならば一切如来(光り輝くもの)の大慈大悲の誓願は、あらゆる教化の業をもって苦を除き、「不生の仏心」をして刻々なる創命の道を切り開くものであるからである。
時に供養の道を歩む虚空庫菩薩は、大悲の心を胸に秘め、豊かな心を育んで、一切如来(光り輝くもの)の心を心とし、刻々なる創命の正道を示された。それは本然の心に導く聖なる喝即ち供養の道である。 喝
本然の心よ湧き出よ、本不生の金剛なるをもって真理趣を成就せよ!。
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『本不生の理趣なる光りに触れて』
十一、光り輝くものの「透徹せる自己凝視の法門」
要約この文章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「透徹せる自己凝視の法門」について述べている。
1.自己変革の道: 世尊は、迷いや怠惰な心に流されがちなものに対し、自己の本道に徹し、如来の大慈大悲の誓願を成就する道を示す。
2.愛欲の克服: 愛欲に翻弄されるものをして、本不生の神泉より湧き出づるいのちの刻々の創造をもって自己変革する智恵の真髄に目覚めさせる。
忿怒の智恵: あらゆる欺瞞性を打ち砕く忿怒の如き般若波羅蜜多の智恵を以てする道。
3.自己観察: 自我の虚妄なる欺瞞に対し、忿怒の「炎の如き透徹する自己観察」をもって喝破し、如来の心たる金剛の本不生心を実現する。
4.清浄なる智恵: すべてのものの「不生の仏心」は本来清浄であり、邪な愛欲に対し、忿怒の「炎の如き透徹する自己観察」をもって清浄なる智恵を開く。
5.自己凝視: 不正で邪悪な欺瞞性に対する忿怒の炎の如き自己凝視をもって、清浄な国土を建設し、堅実な生の基盤を打ち立てる。
6.自己変革の促進: 両部不二・正反重合の三角火輪(大金剛輪マカバMerkabah)を大転法輪させて、自己変革を促す。
7.大悲の心: 明澄な心より生じた忿怒の智恵の真髄をもって、大悲の心を胸に、空なる本質、即ち真如を打ち立てる。
時に、世尊は、とかく迷い多く怠惰な心に流されがちであるものに対し、自己の本道に徹し、如来の大慈大悲の誓願を成就する道を示された。
それは愛欲に翻弄されるものをして、本不生の神泉より湧き出づるいのちの刻々の創造をもって自己変革する智恵の真髄に目覚めさせるのである。あらゆる欺瞞性を打ち砕く忿怒の如き般若波羅蜜多の智恵を以てする道である。
すべてのいのちは、本来、本不生であるが、泡の如く絶えず湧きあがる自我の虚妄なる欺瞞に陥っている。その自己欺瞞に対し、忿怒の「炎の如き透徹する自己観察」をもって喝破し、如来の心たる金剛の本不生心を実現していく。
すべてのものの「不生の仏心」は、本来、清浄にして、迷いはない。
それ故、本不生の働きは、傲慢不遜な欺瞞性に対し、忿怒の「炎の如き透徹する自己観察」をもって、自己変革に導く。
「不生の仏心」は、濁世の波にもまれようとも、清い心のままである。
それ故、本不生の働きは、邪な愛欲に対し、忿怒の「炎の如き透徹する自己観察」をもって、「不生の仏心」そのものの清浄なる智恵を開く。
すべてのものの本不生は、本来、金剛の堅実なる智恵の働きにあり、すべての不浄を浄化していく。それ故、本不生の働きは、不正で邪悪な欺瞞性に対する忿怒の炎の如き自己凝視をもって、清浄な国土を建設し、堅実な生の基盤を打ちたてていく。
とかく、人は、狭い自我の愛欲に立てこもり、自我を主張し、他を攻撃し、対立闘争をまき起こす。それに対し、
本不生の力は、忿怒の「炎の如き透徹する自己観察」をもって、両部不二・正反重合の三角火輪(大金剛輪マカバMerkabah)を大転法輪させて、自己変革を促すのである。
時に世尊が示された「炎の如き透徹する自己観察」をもって欺瞞性を喝破し、自己変革をおこし、如来の心たる金剛の本不生心を実現していくよう導く催一切魔大菩薩は、明澄な心より生じた忿怒の智恵の真髄、即ち透徹する自己凝視の眼差しをもって、大悲の心を胸に、空なる本質、即ち真如を打ち立てるのである。
苦悩の只中にあるものが我欲を克服し、天真爛漫たる大笑心となり、あらゆる欺瞞に対し「炎の如き透徹する自己観察」の眼差しをもって、自らに厳しく、両部不二、すなわち、正反重合の三角火輪(大金剛輪マカバMerkabah)を大転法輪させ、偉大なる創命(本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造)の力を発揮された。述 大空よ、すべての勝利よ、大歓喜よ。
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十二、光り輝くものの「創命なる法門」
要約 この章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「創命なる法門」について述べている。
1.創命の真髄: 般若波羅蜜多による創命(本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造)により、無量の功徳が現れ、真理の世界を打ち建てる。
2.平等一如: すべては浄穢を超えた平等一如のものであり、せまい自我や正邪善悪の分別を超えている。
3.苦悩の超越: 般若波羅蜜多の創命に調和することで、苦悩の世界に無上の宝庫を見出し、神秘の宝を顕わにする。
4.真理の世界: 般若波羅蜜多の創命に調和することで、虚妄なる幻に囚われることなく、真理の世界を切り開く。
5.生命の輝き: 生命の輝きに躍動しつつ、何事も圓満に成就し、大慈大悲の誓願を成就させる。
6.金剛手の教え: 金剛平等の刻々なる創命を体得し、一切如来と菩薩の心と一つに融け合う般若波羅蜜多の創命の真髄を説く。
時に世尊は、般若波羅蜜多である光り輝くものの創命(本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造)により無量の功徳が現れ、刻々と光り輝く真理の世界を打ち建てる「一切平等建立如来」であることを示された。それは衆生も、如来も、あるがままの生活の中で、無上の勝れた生き方をする。ここに、般若波羅蜜多によるの創命の真髄があることを示された。
この世界はそれぞれが自己の立場を主張することで愛憎の渦に巻き込まれやすい。若し、光り輝くものの般若波羅蜜多である刻々なる創命に調和するならば、もとより此岸を離れた彼岸はなく、すべては浄穢を超えた平等一如のものであることに気づく。般若の刻々なる創命は、せまい自我を超え、正邪善悪の分別を超えているので、こうしたものには全く動じない。本不生の金剛の如き意志が沸々と湧き出でていることを理解するのである。この光り輝くものの般若波羅蜜多による刻々の創命が、あらゆる「不生の仏心」をして確実な生を歩ませていくのである。
この生は苦悩に溢れているが、若し、般若波羅蜜多の刻々なる創命に調和するならば、この苦悩の世界に、無上の宝庫を見出す。それ故、般若波羅蜜多の働きはすべての中にある神秘の宝を顕わにし、光り輝く宝土を建立させるのだ。
わが見る世界は陽炎の如き虚妄のものではあるが、若し、般若波羅蜜多の刻々なる創命に調和するならば、この世界の事象の実相を離れて真実はないことに気づく。それ故、般若波羅蜜多の働きは清浄な原初の本不生に立ち帰り、虚妄なる幻に囚われることなく、惑わされることなく、真理の世界を切り開いていくものなのである。
わが生命よりほとばしる行動は、時に、ひとりよがりな問題を起こすものだが、若し般若波羅蜜多の刻々なる創命に調和するならば、生命の輝きに躍動しつつ、何事も圓満に成就していく。それ故、般若波羅蜜多の働きは大精進をもって初心を貫き、偉大な自己を実現し、大慈大悲の誓願を成就させるのである。
時に、この金剛平等の刻々なる創命を体得した金剛手は、一切如来と菩薩の心と一つに融け合う般若波羅蜜多の刻々なる創命の真髄、一切不空三昧耶を説かれた。
轄 せまい自我から解放されよ!。
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十三、光り輝くものの「加持感応同交の法門」
要約 この章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「加持感応同交の法門」について述べている。
1.不生の仏心の調和: 「不生の仏心」が刻々の創造とともに調和し、清らかな真理の光りとなって浄土を生み出す。
2.如来の心: すべてのいのちは「不生の仏心」という如来の心を秘めている。
3.加持感応道交: 般若波羅蜜多の刻々なる創命に加持感応道交することで、誘惑と迫害を乗り越え、如来の世界を実現する。
4.金剛心の力: 「不生の仏心」は広大無限な空に生きる金剛心を秘めており、真実に目覚め、輝かしい宝土を建設する。
5.妄想の変革: かたくなな妄想を変革し、清浄心を堅持して新たな世界を創命する。
6.自己欺瞞の打破: 自己欺瞞を打破し、真実を顕していく力を秘めている。
7.無限の慈愛: 欲望の嵐がやみ、無限の慈愛に包まれた清く貴い創命な世界に生かされる。
8.ブッダの大悲: ブッダの大悲は、我欲に囚われている衆生を見捨てず、刻々の生命を以て慈しむ。
時に世尊は、「不生の仏心」が平等に刻々の創造とともに調和し、せまい自我の砦を砕き、すべては清い遍照のみ光りの中で、清らかな真理の光りとなって、荘厳なる浄土を生みだすものであることを示された。
この世のすべてのいのちは、「不生の仏心」という如来の心を秘めている。それ故、般若波羅蜜多の刻々なる創命に加持感応道交(互換重合?入)するものは、かの普賢菩薩のごとく、誘惑と迫害をものともせず、本不生とともに菩提心をふるい起こし、如来の世界を実現するのである。
この世のすべての「不生の仏心」は広大無限な空に生きる光り輝くもの金剛心を秘めている。それ故、般若波羅蜜多の刻々なる創命に加持感応道交(互換重合?入)するものは、如来の金剛誓水の灌頂をうけて、真実に目覚め、生命に満ちた輝かしい宝土を建設していく。
この世のすべての「不生の仏心」は、かたくなな妄想を変革する。それ故、般若波羅蜜多の刻々なる創命に加持感応道交(互換重合?入)するものは、観自在菩薩が清浄心を堅持して偉大な生命を慈しむが如く、明澄にして無垢な心を以て刻々に、新たな世界を創命していくのである。
この世のすべての「不生の仏心」は、みな自己欺瞞を打破し、真実を顕していく勝れた力を秘めている。それ故、般若波羅蜜多の刻々なる創命に加持感応道交(互換重合?入)するものは、自己の利害や打算を離れ、世間の評価に振り回されず、確実に如来の業を実践していく。
この如来の刻々なる光り輝く創命に遭遇するとき、欲望の嵐がやみ、真如の微風に心地よく、一切の悩みも束縛も自我の活動も止み、すべてのものが無限の慈愛に包まれ、清く貴い創命な世界に生かされ生きていることを自覚し、心を開いていくのである。
ブッダの大悲は、たとえ衆生が我欲に囚われていようとも、その「不生の仏心」を見捨て給わず、なおも、本不生の神泉より湧き出づる刻々の生命を以て慈しまれる。それ故、あらゆるもの本質的に光り輝くものなのである。
おお、光り輝くものよ!なんという力強さであろうか。この喜びをおおらかにいまこそ謳歌しようではないか!
簸
光り輝くものよ!立ち上がれ!塵垢にまみれた雲よ去れ!今こそ!宝土なる地湧より光り輝くものとして顕れ出でよ。光り輝くものよ来たれ!
『本不生の理趣なる光りに触れて』
十四、光り輝くものの「七母天の法門」
要約 これらの章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「七母天の法門」「三兄弟の法門」「四姉妹の法門」「ひとりびとりの法門」について述べている。
七母天の法門
1.欺瞞性の断ち切り: 欺瞞と穢れた心を持つ者を引き寄せ、自我を解放し、本不生心を開く。
2.敬愛と探求: 世尊に敬愛し、探求の道を歩む。
三兄弟の法門
1.不滅の真理の観察: 生死の世界に光り輝く「不生の仏心」が満ち溢れていることに気づく。
2.偉大な喜び: 生死の世界の中で不滅の真理を観ることの喜び。
四姉妹の法門
1.真の喜びの発見: 欺瞞に満ちた快楽の虚しさを知り、涅槃の境地を悟る。
2.尽くし奉る決心: 真の喜びを以て、生きとし生けるものに尽くす決心。
ひとりびとりの法門
1.清らかな心の包容: すべてのものが清らかな心に包まれている。
2.般若波羅蜜多の創命: 刻々なる創命を体解し、真如の世界を建設する。
3.無量無辺の究竟: 本不生の真理を現わし、無限の宝土と化す。
その時にマハーカーラ(大黒天)を始め眷属の諸母天は、欲に駆られたものや闘争に明け暮れるものを搾取して、甘言と恐怖の影にひそみ闇の中に引き込まんとしていたが、光り輝くものである世尊をまのあたりにして、内奥の真実心が顕わになり、自らの欺瞞性を断ち切り、やがて、欺瞞と穢れた心を持つ者をも引き寄せて、共に、自我を解放し、本不生心を開き給うべく世尊にあいまみえて、心から敬愛し、探求の道を歩み、真髄の心をもって、自心を捧げるものとなる。帳
畏敬をもって、せまい自己を超え、光り輝くものとなれ!
『本不生の理趣なる光りに触れて』
十五、光り輝くものの「三兄弟の法門」
その時 マドキャラ(末度迦羅天)の名をもつ三兄弟は、生々流転の大自然の営みの中にあって、輪廻の渦に巻き込まれていたが、光り輝く世尊にまみえ、流転の真っただ中から、不滅の真理を観ることができた。そして、
おお!なんと!この生死の世界に、光り輝く「不生の仏心」が満ち溢れていることか!と感嘆の声をあげた。
泗 偉大な喜びよ!
『本不生の理趣なる光りに触れて』
十六、光り輝くものの「四姉妹の法門」
その時、四姉妹女天は歓楽の街で人々をもてなしていたが、光り輝く世尊の偉大な教化をまのあたりにし、真の喜びに触れ、これまでの、欺瞞に満ちた興ざめな快楽の虚しさを知って、常楽我浄の穏やかなる涅槃の境地を悟り、この喜びを以て、心底、生きとし生けるものに尽くし奉ると決心した。
夙
『本不生の理趣なる光りに触れて』
十七、光り輝くものの「ひとりびとりの法門」
本来の清らかな心にすべてが包まれており、あらゆるものは、みな、時空の枠を超えた如来の心の現れである。
その時、世尊は無量無辺の究竟を示す如来として、すべての「不生の仏心」の中に本不生の真理を現わし、無限の宝土と化していく般若波羅蜜多を刻々に顕された。
般若波羅蜜多は無量であるが故に、この刻々なる創命を体解するものは、時の流れを超えて、心は深く豊かな本不生のままである。それは堅実不動の本不生の生命を現じ、宝性を生じ、清らかな慈愛を生じていく如来の創命の働きである。
般若波羅蜜多は無辺であるが故に、この刻々なる創命を体解するものは、狭隘な心超えて、真如がすべてを包みこんでいることを観る。
それは本不生なるが故に、不生不滅の如来であり、いま、ここに、宇宙のすべてを輝く宝土と化し、真如が響きわたる新生の場となる。
般若波羅蜜多は一性(全一)なるが故に、この刻々なる創命を体解するものは、この世のすべてのものの根源の姿、すなわち、本不生の全体を観察する。それは恵眼をもった如来の観察であり、分断の迷妄に染まらぬ心で、真如の世界を建設していくものである。
般若波羅蜜多は究竟であるが故に、この刻々なる創命を体解するものは、常に本不生を以て探求する。それは本不生を顕現させる如来の法身であり、働きであり、せまい自我を越え、常に新たなる生命と、豊かな心と、明澄な慈愛と、確実な行動として、光明に溢れた無碍自在な世界を創命する。
般若波羅蜜多の刻々なる創命たる金剛手よ、この深い心、広い世界に導く般若理趣を聞いて、本不生の神泉より湧き出づるいのちの創造に目覚め、いのちの創造に調和していくことが、仏菩薩の全き新生創造の勝れた行いであり、究極の本不生が完成する如来の刻々なる創命の働きであるのだ。
【恩寵による大神変加持咒】 ビルシャナブツ ビルシャナブツ ビルシャナブツ
ヴェカラー ゼエルゼ ヴェアマル
カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
メロー ホル ハアレツ ケヴォドー
ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージソワカ
『本不生の理趣なる光りに触れて』
十八、光り輝くものの「遍照金剛の法門」
要約 この章は、光り輝くもの(毘盧遮那如来)が示す「遍照金剛の法門」について述べている。
1.創命の調和: 般若波羅蜜多の刻々なる創命に調和し、世界の究竟の真実を体得することで、心が開かれ、光り輝く毘盧遮那と感応同交する。
2.慈愛の働き: 大悲の心が限りなく湧き出でて、すべてのものを本不生の真如に目覚めさせる偉大な力となる。
3.菩薩摩訶薩の役割: 菩薩摩訶薩は自己の欲望に潜む欺瞞性に気づき、自己変革を起こし、慈愛の本源に目覚める。
4.大楽の創命: 菩薩摩訶薩は大楽(大慈悲)の世界を新たに創命し、一切如来の大菩提そのものとして行動する。
5.自己変革の力: 狭隘な自我を超え、魔性の欺瞞性を見破り、全てのものが光り輝くものとして「自身の光」となれるよう導く。
6.無碍自在の世界: 苦悩の世界の中でも、根源の本不生を見据えて、全てのものが光り輝くものとして「自身の光」となるよう導く。
7.大楽の創造: 菩薩の大慈大悲によって、天真爛漫な歓喜に満ちた大安楽の世界が新たに創命される。
般若波羅蜜多の刻々なる創命(本不生の神泉より湧き出づるいのちの刻々の創造)に調和し、世界の究竟の真実を体得すれば、心は開かれ、光り輝く毘盧遮那と深く感応同交し、光り輝く一切如来そのものとなり、大悲の心が限りなく湧き出でて、すべてのものを本不生の真如に目覚めさせる偉大な力となる。それは慈愛の働きであり、正反重合無碍?入する自他一如の本不生の働きである。 これこそが、時空を越えた光り輝くものの刻々なる創命(本不生の創造活動)にほかならない。この般若波羅蜜多の深秘である阿字本不生の刻々なる創命は、あらゆるものを新たに創造する源泉であり、大楽とはまさにこの源泉である本不生の神泉より湧き出づる刻々の創造の源をいう。これを発源するものは天真爛漫な般若波羅蜜多心すなわち本不生心をおいて他にない。
菩薩摩訶薩とは、真如の自然法爾に気づき、「光り輝くもの」である遍照金剛を体する者に他ならない。菩薩摩訶薩は自己の欲望に潜む欺瞞性に気づき、自己変革を起こし、慈愛の本源に目覚めている。ゆえに菩薩と呼ばれる。彼は大楽すなわち天真爛漫なる大慈大悲に満ち溢れ、刻々のいのちの創命をもって、あらゆる「不生の仏心」と共働し、調和し、新たないのちを創命し続けるものである。
菩薩摩訶薩は大楽(大慈悲)の世界を新たに創命するがゆえ、菩薩と呼ばれる。彼は一切如来の大菩提そのものである。
菩薩摩訶薩は一切如来の大菩提そのものであるがゆえ、真の菩薩、すなわち金剛薩?と呼ばれる。彼は一切如来と感応同交し、狭隘な自らの我欲やあらゆる魔性の欺瞞性を打破する。
菩薩摩訶薩は、狭隘な自我を超え、魔性の欺瞞性を見破るがゆえに無碍自在である。彼はあらゆる苦難と快楽に腐乱した世界にありながら、それらに影響されず、根源の本不生を見据えて、全てのものが光り輝くものとして「自身の光」となれるよう導く。
菩薩摩訶薩は、本不生を以て自らの行動を律する菩薩である。彼は生死流転の苦悩に喘ぐあらゆるものの心に添い、苦悩の世界の只中にあっても、その中から、「光り輝くもの」として「自らを照らす光」となるよう導く。そして、苦悩に喘ぐものがある限り、彼らが自ら、その苦悩を超えて、真の幸福と安楽を見いだしていくよう導く。
この菩薩の大慈大悲によって、いま、ここに、大楽(大慈悲)の創造の波動となって、天真爛漫な歓喜に満ちた大安楽の世界が新たに創命されるのである。
目覚めよ、般若理趣の真髄に。大楽(大慈悲)の世界を重ねて示そう。
「光り輝くもの」である勝れた釈迦牟尼仏・親説の恵眼を持つ求道者・菩薩は、世間の虚妄なる苦悩が尽きるまで、あらゆるものが覚醒して「自身の光り」となるよう、刻々の生命とともにある。
本不生の働きは、すべてのものをして自我による五蘊の虚妄から目覚めさせ、ともどもに、いま、ここに、絶えず新たなる創命に携わる。
貴き自己変革の力が湧き出でて、世間の欺瞞を喝破し、みなともに、目覚め、浄らかである。
貪欲、妬み、愚痴の虚妄は去り、みな、般若波羅蜜多に目覚め、新たなる、清き宝、光り輝くものとなる。
濁れに染まることなく色とりどりの花を開かせるかの蓮華の如く、「不生の仏心」は、みな、自身の光りであり、みな麗しく慈悲に満ちて自身の花を咲かせるものである。
欺瞞を破り、自己変革の誉れ高く、あらゆるものがそれぞれに、みな、自身の光りとなっって輝やく。その生に苦悩なし。 すべてみな、心和らぎ、豊かなる、清き仏に調和して、いま、ここに、自ら、新たなる無上の創命の力となる。
「本不生を体するがゆえに金剛手と呼ばれる」あらゆるいきとしいけるものの不生の仏心よ、みなこの始原の刻々なる般若理趣の創命に調和し、また、日々、早朝、新たな目覚めのときとともに刻々と、この般若理趣に調和するならば、真理の妙音は共振し、新たな不生の創命の力となり、悦びに満ち、天真爛漫な本不生の大誓願がいまここに成就されるのである。
すべてのものが、みな喜びに溢れる大楽(大慈悲)の世界、金剛界と胎蔵界とが加持感応互換重合?入し【六大は無碍互?入して常に瑜伽なる】ものとして、この現象界に阿字本不生の般若波羅蜜多を刻々に新たに創命するものとして、いま、ここに、成就せん!
轄
狭き自我よ去れ!自己欺瞞よ去れ!
大空一如の阿字本不生。
般若波羅蜜多に目覚めよ!。
観自在菩薩の般若波羅蜜多である本不生こそあらゆるものの源流である。
本不生の神泉より湧き出づる刻々の般若波羅蜜多、いま、ここに、新たなり。
【恩寵による大神変加持咒】
ビルシャナブツ ビルシャナブツ ビルシャナブツ ヴェカラー ゼエルゼ ヴェアマル
カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
メロー ホル ハアレツ ケヴォドー
ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージソワカ
『本不生の理趣なる光りに触れて』
十九、光り輝くものの「歓喜神泉の法門」
般若波羅蜜多の刻々なる創命(本不生の神泉より湧き出づる神のいのちの刻々の創造)をすべて説き畢ったとき、一切如来、及び本不生を自らのものとする求道者たちは、みなここに集まり来たり、心一つにして般若理趣の刻々なる創命を体し、本不生の真理が苦悩を除き、円満な心に導き、世界を浄化し、諸々の新たな創命が成就される。この刻々なる創命を体現する金剛薩? を称讃ん。
善いかな善いかな勝れた求道者よ。
善いかな善いかな大安楽(大慈大悲)を得た者よ。
善いかな善いかな大乗の刻々なる創命の神髄を捉えたものよ。
善いかな善いかな般若の勝れた智恵を体得したものよ。
自らの深い体験によってよくこの真理の教法を演説し給い、金剛の叡智の輝かせて、「不生の仏心」を目覚めしめ給うものよ。
何れのものも、自身の光となるならば、一切の諸魔も破滅に導くことはなく、仏菩薩の最勝の阿字本不生を得ん。
光り輝くものである一切如来及び求道者は、般若理趣を響かすものとともに、いま、 ここに歓喜の新たな刻々の本不生を創命せん。
般若理趣経 了
【恩寵による大神変加持咒】
ビルシャナブツ ビルシャナブツ ビルシャナブツ ヴェカラー ゼエルゼ ヴェアマル
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