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祈り その2

 世界中の人々が新型コロナウィルス感染症の猛威にさらされるなか、ローマ教皇が大聖堂の中でひとり祈りを捧げておられる光景は忘れがたい。
 誰もいない伽藍の中でただ独り静かに祈りを捧げておられる。
 まさに人類は絶望の淵に立たされているのだと思わざるを得なかった。
 このとき、世界を救った医療従事者は昼夜をお惜しまず、絶望の淵に立つ患者の生還を期すべく、懸命に対応している。その姿は大天使のそのものであったが、その役割を担えるものは少なく、現場はまさに壮絶極まりないもであった。

 こうしたパンデミックのさなか、独り祈りを捧げる教皇のすがたは、また、新型コロナウィルス感染症に罹り、孤独の中で死に臨む人々の心でもあったような気がしてならない。

 絶望の淵に立ったつとき、われわれは、いったい何を祈るのであろうか。はたして、激しい苦痛と孤独の中で、自分は無我夢中で終わるだけなのであろうか。

 あの孤独な大聖堂の静寂の中に、絶望の淵に立つ魂の叫び声が響いていたような気がしてならなかった。

 「おお!神よ!お願いです!たすけてください!たすけてください!わたしはまだ死ねないのです!まだ護らなければならない愛するものがいるのです。お願いですから、たすけてください!どうぞ、人目だけでもあのものたちに会わせて下さい。お願いですから、どうか、もう一度だけ会わせて下さい!会って、めぐり会えて、ともに生きて来れて良かった!ありがとう!あなたに会えてよかった!と伝えたいのです。お願いですから!たすけてください!」
 それがかなわなかった魂であっても、なお、そこに残り、神に祈り、「ああ、わたしのいのちは神に捧げます。でも、神の国に入る前に、どうか、愛するものたちの苦しみを取り除いてあげてください。彼らをお護りください。それを見届けてあげたいのです。お願いです!」と繰り返し祈りを捧げている。その声を聞きます。
 
 この無数の魂の声、絶望の淵に立つ声にならない声は、一体、何だったのだろう?
 
 小生はキリス教徒ではない。だから教皇の祈りがどのようなものかは知るよしもない。
 
 ただ、放映されたローマ教皇の祈りを見ているうちに、この声なき声を聞いたようなきがして、やむにやまれず、独り、本堂に向かった。
 
 すると、かすかに響いてくる祈祷の文が聞こえたような気がする。 
 
 ビルシャナブツ ビルシャナブツ ビルシャナブツ 
 ヴェカラー ゼエルゼ ヴェアマル
 カドーシュ カドーシュ カドーシュ 
 ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
 メロー ホル ハアレツ ケヴォドー
 ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
 ハラソーギャーテー ボージソワカ 

 小生はこのとき、この呪文は天与のものだと直観し、その後の普段の祈りの文としている。

 さて、それはともかく、祈りとは何であろうか。

 (これから、少しずつ、何回かに分けて、祈りの本質を探究させていただきたいと思っている。)

 秋の夕暮れに一日の畑仕事を終えて静かに祈りを捧げる老夫婦の姿を遠くに見て、平穏な一日に涙したこともある。

 天災・人災に見舞われるほど、平和はかけがえのないものであるが、人はいつ災害に見舞われるかわからない。
 
 実は、小生は、さまざまな祈りの環境のなかで育った。その祈りは、たいてい、苦しみからの解放を願う祈りではあったが、いつも、かけがえのないものへの平安を願う祈りが主題であった。四六時中、そう、朝目覚め、仕事をし、夜床につき、眠りこむときも、心は祈りの中にあった。

 だが、本音は、不遜なことながら、いくら祈りを捧げていても、満たされることはなかった。だから、一瞬、祈りの中に安らぎを得られたとしても、現実社会に生きていれば、心は千々に乱れることばかりで、不満や争いや中傷や嫉みなどの日々の挑戦にあう。そのたびに、自らを責め、無信心を詫び、神への信仰が足りないことを詫び、感謝の足りないことを詫び、なおも知らずに犯すところの罪を詫び、そうするのも、何よりも愛するかけがえのない者達への加護を願いたいからであった。
 自分のことはさておいてもかけがえのないものの幸せを祈るのは、人の世の常であろう・・・・。

 小生は、神仏の在す祈りの環境にどっぷりと浸かりながらも、なおも、かけがえのない愛するものへの不安と恐怖にかられ、いつも、安らかな加護を賜りますようと、不安にかられるたびに、神仏に必死に祈りを捧げてるという未熟者であった。
 かけがえのない愛するものとの関わりは四六時中であるから、愛するものへの不安も四六時中おこり、必然的に祈りも絶えない。
 自分の修行と信仰の足りなさや神々への不敬が、かけがえのないものへの苦しみとならぬよう、いつも、心を注いできた。
 いくら祈りを捧げても、安らぎがないのは自分のいたらなさであると自分を責め、そのことで、家族に禍が及ばぬよう、ただ、見えざるものにすがるばかりであった。
 
 だが、現実は、わが子がコホンと咳をしただけで、せっかく静かに祈りを捧げていたトイのに、心はたちまちに乱れ、動転し、祈りどころではなくなる・・・。
 家を離れ、働きに出ている中、どうぞ留守中の家族をお護りくださいますようにと祈る側から、突然、救急車のサイレンがなり響けば、もしかして、わが子が怪我しているのでは・・・と不安になり、いたたまれなくなる。
 仕事柄、死人と向きあうことが多いからではないが、寝姿が死人のように見える。朝目覚めると、もしかして、息をしていないのだろうかかという恐怖にかられる。そして、いつも、どうか、どうか、そうではありませんように!と祈りつつ、おそるおそる起きて、子どもたちの寝ている掛け布団の動きをそっと見る。ん!?動いていない!。その途端!動揺が走る。さあ、どうしよう。どうか、そうでありませんように・・・。祈りつつ、おそるおそる、目をこらし、耳を澄ませ、そっと近寄る。そして、スヤスヤという寝息に、ようやく安堵して、よかった!神さま有り難うございます!そういいつつ、動き出すが、しかし、今度は死んでいるかもしれないという不安が募る。ああ!まただ!信じてない自分を責める。不安に駆られ、祈れば祈るほど安らぎは遠くなり、自分を責めているのである。悔い改めこそ救いの道だと勝手に思い込んでいるに過ぎないのだが・・・・。
 
 そのようなていたらくの自分であったが、あるとき、あるがままの自己を見つめる機会があった。そこで、心の中で、自分が最も畏れているものは?と向きあった。
 このときは自ら関わる宗教的な儀礼や型通りの祈り、ひとりよがりの信仰は、一切排除して、心を裸にするようにして、取り組んだ。極めて真剣であったが、誰もいないので、ゆるゆると行った。

 先ず頭の中でいろいろなことがぐるぐると巡るが、さしたる恐怖ではなかった。
 たとえば、自分が死ぬこと?いいや、死ぬときは死ぬだけだ。人からけなされたり、馬鹿にされたり、無能呼ばわりされたり、地位や名誉を失うことか?いいや、いつもそうだからさしてなんとも思ってない。本当に?ああ、そうさ。じゃあ、金かい?いいや、いつも貧乏だし、平気だよ。・・・、たわいもないことだったがそんな風に、浮かび上がるありとあらゆる恐怖をそのまま見つめていたが、どうも、いまいち、恐怖としてはピンとくるものはなかなか出てこなかった。しかし、気楽に構え、(じゃあ、お前がいま最も畏れているものはなんだい?)
(しいていえば、子どもたちのことかなあ。)
(それを観察してみよう。どう畏れているんだい?・・・・)
そう自分に問いかけをしていたのだが、突然、心の奥から、思いが塊のように湧き上がってきた。
 「どおおってだって?!わかるだろうが!もし、あいつらがいなくなっちまったら!いったい!俺はどうしたらいいというんだ!絶えられないじゃないか!全く絶えられないよ!あいつらがいなかったら、どうしようもないよ!そんなこと、絶対に嫌なんだ!あいつらがいなくなるなんて!だめだダメだ!俺がどうしようも無くなる。あいつらのいない人生なんて考えられない!」と、心の奥にあったものがどんどん湧き上がってきた。自分のことながら、黙って聞いていた。すると、フッと、可笑しくなって笑ってしまった。(あははは、なーんだ、子どものことより、自分のことだったんじゃないか。これじゃ、まるで駄々っ子だなあ、そうかい、そうかい、そりゃそうだよね。ふふふふ)と。すると、奥にあったものは(うん うん うん)といいながら、すっと抜けてしまった。おい!どこへ行った!と探しても出て来なかった。

 そう!あるがままを感じていたら、もう突き上げてくるものは消えて、心の奥がスカッとして、非常に爽やかであった。

 確かに、これは、内心、時間はだいぶ長かったように感じていたが、気づくと、たった数分の事であった。

 この自己凝視で、最も驚いたのは、心にいつも雲がかかっていたものがすっかり消えて、世界がクリヤーに見えたこと。そして何よりも、この日、我が家に戻ったとき、「お父さんお帰り!」といって駆け寄ってくる子どもたちの顔が、なんと耀かしいことであったか、初めて、我が子を見たような気がした。いままで見たこともない美しさと生き生き輝いていて、眩しいほどであった。心の底から、なんて可愛い子達なんだと素直に見ることができた。
 
 これは、おそらく、それまで、失う恐怖をいつも自分の中に抱えながら、子どもを見ていたからだろう。失うことへの恐怖心が邪魔して、かけがえのない子どもを直接見ていなかった。このことをこの歳になって初めて理解した。

 それからというもの、恐れから逃げるような祈りは起こらなくなった。

 自己をあるがままに見つめることの中に光り輝くものはある。
 たわいもないことかもしてないが、人類にとって、魂にとって、何よりも大事なことかもしれない。
                          
 
 

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