見出し画像

あなたの魂を慈しむもの

黙する石にこめられたマリア観音の祈り
 この寺の境内の一角に隠れキリシタンのマリア観音と目される自然石が残っている。
 めったに、訪れる人はいない。たまに隠れキリシタンの歴史に関心のある方が尋ねてこられるのだが、数十年に一度ぐらいのものである。しかも、隠れというくらいだからキリシタンの文献については、寺には全く残されてはいない。この町には銀山跡もあり、こうした隠れキリシタンの痕跡はこの寺ばかりではなくほかにもある。だが、こうした資料から当時の隠れキリシタンの様子をまとめた資料は寺にも町にも見当たらない。そうした様子ががまとめられた事は町史にも編纂されてはいないが、隠れキリシタンの研究者の資料には紹介されて入るようである。
 この不明な石像は、しかしながら、小生にとっては幼い頃から身近なものであった。特に、「寺の子供だから教えておく」と言って聞かされる古老の石にまつわる話しは興味深いものがあった。
 「この石はね。不思議な石でね。ある日の、ある時間帯に、マリア観音さまが出現すると伝えられてるのだよ。」子供の私が「お爺さんは、見たことがあるの?」「いいや、見たことはない。見た事はないが、一部の人たちが、この石をマリヤ様と信じてきたことは本当だよ。大人は見れないが赤子のような天真爛漫な子供にはみえるらしい。坊や、あんたはまだ幼いから、見えることがあるかもしれない。よくよく注意して見ていてごらん。」という話を聞かされきたので、本当にマリア観音様が現れるのだろうかと、子供心にずっと気になっていた。また、この古老は、そのような言い伝えを耳にした学者さん方が尋ねてこられることもよくあって、その度に、その話をしたお爺さんは、この町に残るいくつかの隠れキリシタンの案内役を頼まれたという。ロザリオを首に下げた地蔵菩薩。イサラエの井戸と言われたダビデの星が記された井戸、そして、この寺の不明な石を案内したのだという。研究者達によって、この石は確かに隠れキリシタンのマリア観音であるとされている。
 近年になってある方からいただいた研究調査資料によると、当時の日本におけるキリシタン弾圧は世界的にもかなり厳しい弾圧であったようだ。幕府のこの辺りの藩に対する徹底した手配書がそのまま記録として残っている。そこには、子供に至るまでキリシタンの老若男女の一族ごと処刑されるとい凄惨さに、胸が苦しくなる。
 だが、記録ではそうなのだが、この寺に残るこのマリア観音といわれる石からは、処刑された殉教者の血生臭さは全く感じられない。むしろ、篤い信仰の安らかな響きすら感じるのである。それは、当時の権力者に逆らうよりも、神の愛を信じる者の逆境に対する深い信仰とそれを理解し、見えざる形でその信仰の成就を促そうとする人々の優しさを感じる。日本人は、どんなものであれ、神を敬い、先祖に感謝して生きていく。どんな権力もこうしたこころの奥にまで踏み込み支配することはできないということなのだろうか。
 故に、隠れながらとはいえ、救済を願う祈りは、かなり真剣なものであったのであろう。しかし、いまここにある石はそのような篤い信仰というより、それを見まもるものの優しさが漂う、黙する場であり、祈りの支えである石象であった。
 「この石は生きている!」小生にとって、そう思うえることはしばしばであった。日本や世界で大災害が起こ度に、決まって、マリア観音が石に顕われるのを目撃している。もちろん気のせいなのかもしてないが、マリア観音がくっきり顕れたかと思うと、「ひたすら祈りなさい」「ひたすら祈りなさい」と響くのである。
 この石と並んで隣には「雷神」と刻まれた石と風化してまった「古峰ヶ原」と刻された石がある。そのすぐ側の権現堂には「天神さま」と「秋葉権現さま」と「愛宕権現さま」が祀られている。これらの諸天善神が祀られる時代には、大災害や大飢饉、戦争などの悲しい歴史があった。その、地獄の中から、いかに、真剣に天地自然や神々に向かって救済を祈っていたのか、どれもが古びて崩れた石ではあるが、災害や被爆の苦しみを負っているこんにちの私どもに対しても、「人よ、奢るなかれ。敬虔であれ。神の救済を祈り、慈しみ深き、観音の愛を身に帯して生きよ」と訴えかけているのだろうと思うのである。

マリア観音
ゼウス雷神

 この寺に世話になって70年以上はゆうに過ぎたが、あるとき、突然、量子医学や放射能汚染医療がご専門というお医者さん方が、この隠れキリシタンのマリア観音のことを知り、お参りに来られた。その方々のお話を聞きながら、核爆弾を使用した戦争や原発事故が与える人類への脅威について深い憂えの中で、世界に向けて活動される方々が、こんな無名なマリア観音を訪れるなど思いもしないことであったが、しかし、お会いしながら、隠れキリシタンのマリア観音の尊い人類救済の慈愛の担い手として、この方々も出現された方々に他ならないと痛感したものである。
 宗教は尊いものであるが、独善的な宗教は世界を破壊する。しかし、真の宗教は、真理に対し、謙虚でそのものである。
 苦悩を救済するものは苦悩の現場で苦しむ人々のそばにいる。彼らとともにいつもある。それは、まさしく観世音菩薩であり、マリア様の活きたお姿としてなのであろう。

 その医師たちが帰ったあと、あらためて隠れキリシタンの石のまえに佇む。

 すると石は一瞬語りかけてきたように感じた。

 石といえどもこころがある。それは量子論で次第に明らかになっているように、電子といえども個性を持っている。ミクロ宇宙においてもマクロ宇宙においても、全ては個体としての意思(こころ)を持ち、対話をしながら、全体として統合されている。
 そう、宇宙のあらゆる個体同士は場(ネットワーク)を介して「対話」を行っている。この対話の本質はそれぞれの個体が同一、同質のものではない一個の全体として完全な個体であるが故に、他の個体とも対話をする。分断した個体は対話が成り立たない。従って必然的に孤立し、ひいては存在できないことを示している。
 このような全宇宙における対話は宇宙のあらゆる階層でで共有している「光子」によって行われている。
 この現象界では局所性が個体化したものである。干渉現象(波性)はこの個体の対話の結果によって生ずる属性である。また、局所性と遍満性の対話(互換重合)の結果として、万物が流転している。
 大事なことは、いかなる個体も意思を持ち、その意思は宇宙の意思と同通しているが故に、「あなたは世界であり、世界はあなたである。」
 あなたの意思の如何が、あらゆる宇宙に影響を与えているのである。
 世界を滅ぼすことも、世界を救うことも、あなたの意思如何に依っていると言っても過言ではない。
 「意思」はこころであり祈りである」故に、この隠れキリシタンの「石」の沈黙の奥で、「祈りなさい。祈りなさい」と今も響いている理由であった。
 

いいなと思ったら応援しよう!