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苦しみのそばで光り輝くものとは・・・

 なんということだろう。
 まるで幼稚な子どもに核爆弾や人工知能を持たせたかのように、ならず者の支配者の横暴を誰も止められず、ただ、跋扈するがままに、しかも、兵器による地獄の惨状の脅威に曝されている当事者のほかは、どこか遠くの映像を見るかのように他人事でしかない自分の無力さにどうすることもできずにいる蒙昧な自分自身を見るとは。
 おお!人は神の名の下に、イデオロギーに過ぎない正義や掟の名の下に、大惨事を引き起こしてなおわが神を見、わが正義を見、生きものの苦しみ見ようとはしない。
 無能であることに地団駄を踏みつつも、あらゆる戦争の終結をもたらす人類の叡智となって、光り輝くものの臨在をただ願うばかりである。
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 或る朝、目が覚め、いつものように、支度を調え、本尊をはじめ諸如来・諸菩薩・諸天善神や祖師先の諸尊の御前に香をそなえ、静かに坐す。
 やがて、ほの暗い堂内に漸う曙の穏やかなや光が差し込み、内陣が金色に輝き出す。
 ふと、湧き上がる思いがあった。
 
 それは、以下のようであった。

・・・・朝早く覚め、小鳥たちのチチッという声とともに「私」はこの「世界」で動き出す。
 「私」が見なければ、「世界」は無く、「世界」が無ければ、「私」は見ることもない。
 「私」は、記憶を纏い、昨日からの世界を引き継ぎ、新たな記憶を刻みつつ、新たな世界で生きる。
 そして 一日の終わりに、床につき 「私」は眠る。
 そして、再び、目覚め、「私」は動き出す。

 いったい、この「私」はどこから来てどこに行くというのであろう。
 だた、「私」は、単に「ここにいる」だけのものなのだろうか。

・・・・「私」があって「世界」がある。「私」が無ければ「世界」は無い。
 しかし、「世界」は「私」が無くてもある。
 私は世界を見聞きするが、世界が無ければ、私は見聞きすることも無い。

 私が無ければ、世界を見ることはない。
 世界が無ければ、私は無い。
 しかし、この私が無くとも、世界はある。 
 しかし、世界が無ければ、この私も無い。

 かくいう、「世界」とは何か。 「私」とは何か。
 
  「世界は私であり、私は世界である。」これは「光り輝くもの」のこころであった。

・・・・「思考」は「私」であり、「私」は「思考」である。
 私が鎮まれば、思考は静まる。
 思考のざわめきが私である。私のざわめきが思考である。

 では、いま、この思考のざわめきに気づいている「もの」は誰か。

 思考が静まり、心は鋭敏になり、限りなき広がりを感じている「もの」は誰か。
 
 それは「光り輝くもの」であった。

・・・・彼岸と此岸。この世とあの世。現象と潜象。いまここと先験性。局所性と遍満性。一者と遍在。先験なる遍満性から局所化され現象化する。
 個々が世界。しかし、個々は、絶えず遍満している先験なる彼岸に帰入していることを知らない。
 気づきなさい。気づきなさい。「遍照金剛」は遍照と金剛。遍照は遍満性、金剛は局所性、すなわち大日如来と金剛薩埵であり、全ては不二なる一であり、光り輝くものであり、それがあなた自身であることを。

・・・・信仰は 順応ではなく、模倣ではなく、服従ではない。
 たえまない自己観察によって、大慈大悲に自ずから気づく、それが、信仰の規律である。
 正しい生活は、妬みや貪欲や渇愛に縛られているおのれのあるがままの姿に気づくところからはじまる。

・・・・心が目覚め、叡智があり、なにものにも囚われない。 
 それが光であり、それがあなたの本心。
 あなたはもともと光である。それゆえ、光は光を求めたりはしない。

・・・・慈しみは、だれもが どんなところでも汲むことのできる尽きせぬ泉。この光り輝くものの分け隔てのない慈しみしみに気づくとき、そこに、まことの安らぎがある。

・・・・渾々と湧き出る清水は止まることなく、湧きいずる先から流れでる。留めれば瞬く間に古くなり、汚れてしまうだろう。留めようとしなければ、いつでも新たな清らかな水をで満ちている。
 この彼岸から湧きいずる本不生の泉は、無垢から無垢くへと、とどまることなく 絶えず湧きいずる慈しみであり。そこから、 安らぎと、秩序と、美と、創造が生まれる。

・・・日常の枯渇といえば、渇愛の苦悩や生老病死の苦悩である。そのあるがままの日常を直視することによってのみ、その苦悩の奥になお汲めども尽きせぬ慈しみの清水、光り輝くものを見る。

・・・・日常の私の生活の中にこそ汲めども尽きせぬ慈しみの清水が、いつでもどこでも 蕩々と いまここに湧き出でている。この本不生の清水を頂くことが、私の日常の瞑想である。

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 これら感受はほんの一瞬のことであった。
 それと同時に、響くものがあった。
 それは、龍樹(ナガールジュナ)の『般若論(中論)』における「縁起生」の一説であった。

「滅するのでなく、生ずるのでない。断滅でなく、常住でない。一たるものでなく、区別あるものでない 来るのでなく、去るのでない。その方は戯論の寂滅した吉祥な「縁起生」を説示なさった正覚者である。そのような最勝の方に敬礼する。」

 ブッダ、即ち、いまから2,500有余年前のゴーダマシッタールダ釈迦牟尼仏自身が書き残されたものは一切ない。「われかくの如く聞けり」とブッダと対話した弟子たちがブッダ滅後なんども集まって、互いに確かめ合って、探究したものがこんにちの仏教の「経」や「律」や「論」として編纂され、それらは歴史を経て極めて膨大な量にのぼっている。
 すでに、龍樹の時代にも仏教は様々な見解に基づく論書が乱立状態にあったという。
 覚者である龍樹菩薩は、戯論を論破し、ブッダ親説を浮き上がらせ、ひとりびとりの覚醒を促された方である。
 この龍樹の『般若論』の「帰教偈」における「縁起生」はブッダ親説の核心であり、根幹である。故に、いかに仏教が今日に至り発展してきたものであっても、このブッダ親説の核心を外せば、仏説ではなく、蒙昧な宗教の断片でしかないと警鐘を鳴らす。
 この警鐘は現代においてなお重大事であろう。というのも、人間はどうしても認識において根本的な過ちに陥りやすくできているからだ。
 ブッダは現象世界を「虚妄の法」と見抜かれた。
 これは、世間一般の常識というものが、知覚された表象を静止的に記憶し、抽象し、実体的観念とし、それを外界に投影し、外界と記憶とを重ね合わせ、外界のものを実体化する言語的、概念的認識の構造を「欺瞞」の構造、すなわち、「虚妄の法」に陥っていると指摘された。

 ひとは苦しみや葛藤からのがれるために、さまざまな瞑想をあみだしてきた。しかし、それらには、欲望や意図と同質の達成しようとする衝動をはらんでいる。ゆえに、絶えず、未だ至らざる未達のものから到達し得た已達のものへ向かわんとする衝動が、さらに葛藤を生じさせている。
この自己欺瞞に気づきなさいと・・・・

 いつしか街の往来を走る車の騒音と、登校する子どもたちの交わす声がする。

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