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いのち 日々に新たなり

いのち 日々に新たなり

朝晩めっきり寒くなってきて、あれほど暑かった日々が遠い過去のように思われる。しかし、咲き残るコスモスの花がひとつふたつ、微風に揺れ、まだ、草木や土にぬくもりが漂う。
 野良仕事も、収穫を終えて、一段落なのだろうか、何かしら安堵した優しい土の香が心地よい。思わず、ありがとうと、土いじりをしたこともないものでも、土に触れて感謝する。
 東の峰々にかかる雲の合間から、一条の朝の光りが差してきて、広く、深く、森を林を田畑を家々を町並みを、紅玻璃色の深く優しい黄金色の光に包み込み、くっきりとした陰影を鮮やかに映しだす。
 その光は、どこか、懐かしい。この懐かしさは一体なんなのだろうと、しばし心を留める。すると、それは、朝まだき光ではあったが、夕陽にも似ていて、不意に、夕餉の支度、風呂を沸かす薪の煙り、薄暗くなるまで遊びにふける自分を「ご飯だよ」と母の呼ぶ声がして、一瞬にして、幼き頃の感覚が蘇った。
 おお!何という光であろうか!

 今朝は、なんとなく疲れていたのかもしれない・・・・確かに、この世で生きることは実に容易ならざるものがある。誰しもが、人生の絶えざる挑戦に晒されながら、自分を保持すべく躍起になって生きている。
 精神的にも、肉体的にも、社会的にも、自然環境的にも、自己の内側からも、外側からも、絶えず、脅威にさらされ、理不尽な挑戦や危機にさらされている。やむをえず、精神や、身体や、社会や自然環境の中で生かされてる自分いのちを守るために、自己保全に汲々とならざるをえない。
 世間という環境は否応なしに、挑戦してくる。食うか食われるかの試練にあい、正直な人生を生きるものも、不正直な人生を生きるものも、何処かでいつも戦い、葛藤しながら、挑み続けている。
 迷う心はいつも詭弁を弄し、平気で嘘をつき、ぬけぬけと生きているだけに、いつも、四面楚歌に陥り、孤独である。
 その孤独と虚ろな人生への恐怖に耐えられず、ひとは、大義の中に身を投じ、絶えずおしゃべりと噂話と自己主張を繰り返す。そして、虚ろな人生から逃げようとする。それでも、自分は自分だと、ひらきなおり、どこまでも孤軍奮闘していきている。
 ふと、この、夕日にも似た光にあうと、一瞬、修羅場を離れて「ただいま」と我が家に帰った頃が甦ってくる。
 そう!あの、なんの不安もなく、まっすぐに生きてきた頃。天真爛漫で一点の曇りもなく、ひたむきだった一瞬。
 それが、やがて、他者との関わりを通し、臆病で、小心で、ひと目を気にし、まるで、自分を殺すかのようにして、偽りに満ちた人生にどっぷり浸かったまま、歳を重ねるばかりでる。世間では、そんな戯けた事には目もくれず、今、必要なもの事象に真剣に取り組んでる人ゴマンといるのに、ああ私は一体何をしているのだろう・・・・
 朝のこの光は、一瞬にして、我にかえさせる。 この何処か懐かしい陽光につつまれて、しばし、佇んでいると、ふと、正直な自分の思いだ湧いてくる。それにしても、自分はいったいなにをしてきたのだろうという思いがする。それは、責めるというものでもなく、問いただすというものでもなく、裁きにかけるというものでもないものであった。ふと我に戻ったときのような感覚だ。

 それにしても、この光にあって湧き上がるこの感情は、単に、欺瞞の人生に疲れたものが、すべてを放棄して、我が家に帰りたいだけのノスタルジア、あるいは、自己逃避であるのだろうか。

 確かに、誰しも、自分の人生の居場所が必要だ。だが、どんなに居心地か良かろうが、悪かろうが、あるいは、容赦ない呵責と叱責の中で放浪していようと、休む間もない過酷な戦闘状態におかれようと、いつかは、死が、すべてを終わらせる。 生きることに辟易し、休みたい。もうこんな偽りに満ちた人生を終わりにしよう。もういい加減解放して欲しい。
 まさか、これが自分の人生の終焉の本音だというのかとでもいうのか。
 そういえば、生きながらえればながらえるほど、なぜか、罪業ばかりが重くなる人生に思えてならない。それなのにおめおめと長生きしていて何になるというのだろうか。
 今朝、その光りに触れて、ある思いが心に響く。(私自身の心の応答にすぎないが・・・・)

 キミのいのちは、昨日・今日・明日と生きるキミの思い(自我)の中にはないのだよ。キミがたとえどんな人生を辿ってきたにせよ、それは、すでに、終わっている。
 キミは自分を、この世に生まれ、育ち、成長し、やがて、老い衰え、死にゆくものと見ているが、それは自分があると思うからであり、本当は、あると信じている自分は、実はそこには無いのことに気づくだろうか。

 キミは、昨日の自分が、今生きており、明日に生きる自分だと見ている。だが、それは、脳や記憶が形成している自己感覚で、脳が死滅すれば消えてしまうものでしかない。それが生まれれば有り、それが消えれば無くなる。このような「それ」は脳や記憶による反応であり、それは実体ではない。本当の自分はそこにはない・・・・・。

 キミは大宇宙・大自然界の壮大な天地創造の進化が過去・現在・未来の壮大なプロセスと営みによってもたらされているのが自分だと見ている。なるほど、それは確かな事実であろう。だが、そう見ている自分というものは、何であろうか。脳や記憶や概念、経験により自己形成化された虚構の自分なのではないだろうか。

 しかし、現実の自分は何かといえば、先験(まだ現れざるところ)より、今に経過し、消失するものであるが故、経験され、蓄積された自己感覚は現実のものではなく、「カンバスに描き出された仮想の自分に過ぎない。」  
 というのも、キミは、記憶や思いや想像を以て過去を振り返ったり、未来を思い描くことは可能であっても、では、「今」という一瞬を一秒たりとも前に戻すことはできない。 できないし、過去に身をおくことはできない。
 また、今より一秒たりとも先に、すなわち未来に身をおくこともできない。
 SFや漫画や理論上は過去・現在・未来を自由に往来できても、それは仮想でしかなく、時間の歴時性(先験より今に経過し消失する)を事実として覆すことはできない。
 これは実相においては過去・現在・未来という仮想の時間が成り立たないことも如実に示している。
 それが実相であるならば、当然、空間も成り立たない。我々が空間として成り立っているように見ているのは、現象界の物資を実体視した我々の脳における記憶や概念や理論による虚妄性、便宜上の仮想なるものに我々が依存しているからにすぎない。つまり、暦時性のなかでは、時空は物質的に断片化された我々の虚構される便宜上のものであるのだ。

 いま、瞬間に現れた自分を脳や記憶に蓄積し、それを、絶えず、先験より今に経過し消失し続ける実相を、記憶に留めつつ、今を繰り返し録画し続けることで、外界に重ね合わせる。そして、あたかも外界に実体があり、それらが時間と空間を経て生きていると捉えているのだが、これは実相からすれば錯覚でしかない。

 録画された映像は過去のもので、今の現実ではないと誰しもがわかるように、いかに、脳内や記憶において繰り返し過去を再現したとしても、時間そのものを過去に戻すことも、未来に移すこともできない。
 映像や音源といえども、記録されたものの改変や編集は行われても、決して、そのとき写した瞬間や録音した現実の瞬間に戻って、もう、一度、その時点での録画録音を撮り直すことは、二度とできないことである。

 生々流転の常に一回限りの森羅万象実相を実体視しているのは脳や記憶や概念上の自己感覚によるのだが、実体とするから、生々流転の進化のプロセスを実体における変化のプロセスと見てしまう。
 それがものに執着する元凶となる。あたかも、自分という実体が、この世に生まれ、育ち、死に逝き、無になるとみて、更に、死後の世界における自己の実体を仮想する。しかし、あの世やこの世を実体視しているものとは、一体、誰であろうか。

 このように、キミが実体として見ているものはなにひとつ実相ではないのだ。

 では、実相とは何か。先験より今に経過し消失し続けるということだと、ブッダは指摘された。
 すなわち、刻々に生まれ、刻々に死んでいく実相は大宇宙体であろうと大自然界であろうと、この世であろうとあの世であろうと、時空によって実体化されたものの生滅を言うのではなく、すべては瞬瞬に全く新しいいのちが、先験より今に経過し消失し生まれ続ける現実のいのちを実相というのだよ。

 ということは、今キミが自分は生老病死、変化変滅を繰り返している実体の自分の変化だと見ているが、それは虚妄の自分を見ているに過ぎない。事実は仮想上にはなく、先験より今に経過し消滅する実相において、刻々と吹き込まれる全く新しいいのちにある。
 本当のキミは今この瞬間に、全く新し創造性が、刻々にもたらした、全く新しいキミなのである。過去にも未来にもまったくなかった、全く新しく創造されているかけがえのないいのちがキミ自身であるのだ。
 実相としての今のキミは一秒前の生き残りでもなければ、一秒後に生き残るキミでもない。
 キミは刻々に生れ、消えるが、しかし、単に断片として、刹那的に消滅しているものではなく、キミは消滅の次元を超えた(本初不生=空)から常に新たに生み出されている普遍的いのちである。それが事実である。
 全く新しいキミが刻々の今に生きている。ゆえに。いのちはかけがえのないものである。仮想上のリセットとは根本的に異なる。
 それはいかに広大無辺な大宇宙であろうと、また大自然界であろうと同様である。あらゆる「いのち」がキミと同じく過去に一度も出現したことのない、「全く新たな、かけがえのない独自のいのち」として普遍性から創造されているである。
 それ故にすべてはイマ・ここに、全く新しい現れなのである。

 そう!過去を引きずっているのはキミの脳であり、記憶にすぎない。その虚妄性に基づいて形成されいるものが「世間」といわれるものであり、世間は全くそれに依存するが故に、持続とこだわりを常に根に持ち、引きづり、そして、それを拡張したり、縮小したり、よりダメなものへ、よりましなものへと、刻々のいのちに過去を持ち込み、まだ見ぬ未来に幻想を持ち込み、それゆえに、個においても、全体においても、常に、争いと混沌との呪縛にハマり、繰り返し、新生なる創造なるかけがえのないいのちを破壊し続けまったく平気な、傍若無人な死んだもの同然の世間を形成している。それが本質でないことに気づくために苦しみと悲しみがあるのだが、人は、頑なになればなるほど、冷酷になる。
 ブッダはこれを世界が虚妄の法に燃えていると深く嘆かれて、我々一人ひとりがこの欺瞞性に気づいて新たなるいのちを開放することを示された。
  キミがこの紅玻璃色に輝き出す朝日にあって、ふと、なんとも言えぬ安らぎを覚えるのも、実は、キミ自身をもたらすものの先験なる実相がまさしく万物に遍満している創造の母であり、慈しみであり愛であることをきみ自身のいのちが感じているからなのだよ。

 嗚呼!そうか!いのちは日々に新たであるのだった!
 ここまできて、ふと、見上げれば、なんと青い空。そして、突然、かまびすしく騒ぎ立てる小鳥たちの鳴き声。野外活動に並び歩く嬉々とした子どもたちの声があった。

 この深まりゆく秋空の下、ああ、なんと広く、高く、かすかなのであろうか。どこまでもつつみこむ閑けき景色。あたかも、あの激しかった急流がすべての活動を終え、ゆったり、深く、全き静けき大川となりて、大海原に環えらんとする、かの水底の不可思議なる静けさがこの大地にも漂い、なお一層の、秋の深まりを感じさせる。

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