推しと言う言葉が忌避される理由
近年Vチューバーや、アイドル文化の過熱に伴って、推しと言う言葉が広く広まり続けている。最近では推しという言葉に対しての忌避感も薄れ始め日常的に使う人も増えている気がするが、依然としてこの言葉に疑念や、不満を抱く人が多い。そのような人の中にはアイドル文化そのものを嫌う人も含まれているだろうが、そのような文化に一定の理解を示すものも忌避感を抱く。現に私もアイドル文化自体に対するアンチではないが、推しという言葉に対するアンチである。この言葉に不満を抱く一つの理由を提示したい。それは「〜が推し」という言葉は「〜のファン」と言う言葉と同等ぐらいの重みで使われる一方で、その好きな対象を応援しなければならないという一種の強制性を含んでいるからなのではないか。「〜のファン」といっても対象に対して金銭を投じるイメージが瞬時に結びつく訳では無いが、「〜が推し」といってしまうと同時に金銭支援のイメージに直結しやすいのだ。だからこそ金銭を投じるほどでもないが、好きである対象を容易に推しと表現してしまう今の潮流に疑念を感じるのである。
推しと言う言葉の登場以来、好きである対象に対して金銭を払うハードルが下がった結果、そういう文化の成長につながっていっている気もする。アイドル事務所などもこの流れは都合が良いのだろう。また金銭を投じなければファンとして認められないという風潮も必然的に来ている。この話は私が以前に書いたヲタクの話にもつながっていく気がする。金銭が最大のファンの証となっている現代、己の考察で自己の愛を示す形のヲタクの減少につながるのは必然なのだろうか。
少子高齢化の現代で子供を望まず、子供の養育費などを貯める必要のない人は益々増えるに従って、その余剰資金はこれからもアイドル文化等に流れていくだろうから、しばらくは推しと言う言葉を聞く機会も増えるだろう。是非については論じたくはないが、疑念は尽きない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?