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感性で捉えて論理で裏付けする

 かつて卯月コウが雑談で、直感的にある対象を好きになるのは自然なことであるが、それに対して明確な理由を後付けでもつけないといけない、という趣旨の話をしていたと思う。確か、好きなものはただ好きでいいというコメントに対する物申しだった気がするが、この一連の流れが結構印象深い。私も好きなものに明確な理由付けをすべきと思う派で、意見が合致した瞬間だったからだろう。このような意見をはっきり言うタイプの人物はなかなか見かけない。だからこそ、この話を聞けた際に自分以外にもこのように考える人がいるのだとうれしくなった記憶がある。決して自身の感性を軽んじて、全て論理的に考えてエンタメや芸術を楽しめと言っているのではなく、むしろ考えは逆だ。色々な人がそれぞれの感性に従って好きなものができてそれを共有できるというのはとても素晴らしいことでそうあるべきだと思う。しかしその共有の際に論理を排して、俺の感性を信じろというだけ言ってくるのはいかがなものか。傲慢であると思うし、何よりその相手の美学的なものが何も読み取れない。そう考えてみると、私はエンタメや芸術それのみに価値があるのではなく、それに付随したそれぞれの感性に基づいた解釈にも価値を認めているのだと思う。ようは、あなたはどのような視点をもってこの対象を好きになったのかを言語化して、その視点を共有してほしいということだ。そうすることで様々なコンテンツの見方を体得して、楽しめる幅を広げて行けるだろう。
 このことは多くの人は理解してくれるであろが、しかしこれはあくまで対人的な場面限定の話であって、個人的に好きなものに関しては他者に開示するわけでもないから論理的に説明できなくてもよいのではないかという反論があると思う。この反論に対する答えは難しい。自分でも屈折していると思うが、「直感的に」、好きなものには論理的な説明を付随させたくなってしまう。それは個人の性であるといえばそれまでだが、なんとか答えを出そうと思って結構考えてきた。そして今回このnoteを書いている最中に考えた事がある。それは対人的な場面限定の論理をここでも応用して、
「自分自身に自分の視点を共有すること」
が重要なのではないか。一見すると何を言っているんだこいつとなるかもしれないが詳しく説明しよう。まず、感性のみで好きなものを決めていた場合を考える。感性というのは非常に曖昧で、日々の健康状態や社会的な状態、個々の精神性の成長等によって、容易に揺れ動くものだと考えている。そのため、昨日好きであったものが1日や、数週間、数年したら好きではなくなってしまう事が多々あるだろう。アンパンマンを今でも好きという大人ほとんどいないのもこのためだ。しかし、好きなものに対して、独自の論理的説明ができたらどうであろうか。この場合、自身の精神の中にいつまでもその視点が組み込まれて、例え数年経ったとしても俺はこの時こう考えたからこいつが好きだったんだと顧みることができ、その対象を好きな思いをいつであっても取り戻せるだろう。このような理由から「自身の視点を自身に共有すること」が大切なのだ。
 ここまで大分一般論を話してきたが、自分の話をしていきたいと思う。興味ない人は飛ばして貰って大丈夫だ。私は中学の時に東京喰種にハマった。今考えれば多分あれが厨二病の目覚めであった思う。みんなが誰しも中学の時に持っている精神性と東京喰種の気質が合致したので、ハマったと簡単に説明することはできるが、あまりに表面的すぎるのでなぜハマったのかしっかり言語化していきたい。まず絵だ。素晴らしいとしか言いようがない。石田スイ先生の水彩画のようなタッチや、芸術性を感じるタッチはあのときの自分にとってとても新鮮でだからこそ惹かれたのだろう。序盤から終盤にかけて画力がとても向上し、今でもはっきりと漫画家の中で一番好きな絵といえる。そして、もっと精神的な面で感銘を受けたのは金木研のキャラだ。厨二病に刺さるキャラといえばそれまでだがそんな言葉では表現したくない。今考えると彼のどれだけ悲観的になろうとも、自分の精神世界の中の自己解釈を通して、何度でも立ち上がろうとする姿に憧れたのだと思う。最後のリゼと御殿で再会するシーンでも、根本的に「自分が動くから周りが死ぬこと」に対する折り合いを付けれていたわけではなかった。しかし、その中でも何もかも諦める選択肢は取らなかったし、その気概が俺に刺さったのだと思う。
  こう言語化しておくことで、時々厨二病臭く感じて煙たがることはあっても、東京喰種に対する愛はそう簡単には潰えないだろう。あなたもすきなものに対する愛を一生持ち続けたいと思うのなら、論理的に語れるようにしたい。

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