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世界征服計画≪東洋の神秘編≫
【注意】長文21210文字。記事作成者としては、長いけど読んでね、としか言いようがない。あるいは読み上げアプリにかけて聞いてね、と。比較文化に関する文章です。【注意終わり】
「東洋の神秘」なんて言うけど、我々東洋人は別に東洋は神秘だなんて思っていない。インドとかはヨガとかやって少しはそうかもしれないけど、日本人なんて、コンビニ弁当とカップ麺ばっか食べてるからたまには牛丼屋に行こうとか、スーパーで割引シールがついたおそうざいがあってラッキー、と思って買って、スマホ見てSNSチェックして、神秘的要素ゼロだと思われる。昔の日本なら、忍者とか山伏とか、尺八吹いてる虚無僧とか、神秘的要素はあるような気がするが、今は全然ないだろ、と。しかし我々は伝統から切り離されていると思ってる時ほど、どうしようもなく伝統に縛られるという逆説があると思う。「私はこういう伝統の中で生きている」と意識できれば、そこから出て行くことができるけど、それを意識しなければ、そこから出て行くという発想自体が思い浮かばないし。私がワーホリで滞在した場所はプロテスタントの文化圏で、なんか町の通りで辻説法をしてる人がよくいた。「神の裁きの日は近い。皆さん悔い改める時です」みたいなことを言ってたと思う。私は彼らの言ってることなんて断片的にしか聞き取れないけど、なんか雰囲気的にそんなことを言ってたように感じた。でもやっぱ現代だから「自分は反キリスト教だ。私が信じるのは母なる自然だ」みたいな人もけっこういた。自然信仰なんて八百万の神信仰の日本と近いのかと思ったら、彼らの発想も道徳もすごくキリスト教的だと思った。人生の最後になんか「最後の審判」みたいなのがあるって思ってたり。これは我々が、「今度生れ変わったらどの国に生まれたい?」って言われても「へ?」って思わないのと同じで。ほんとは生まれ変わるなんて制度は、真剣に考えるとそんなものないように思うけど、でも自然な発想として「生まれ変わり」って言われればスッと心に入ってくる。でも彼らはそうじゃない。我々が「こんな悪いことして、死んであの世に行く前に神様に言いわけできるの?」って言われても我々にはピンとこない。別にあの世に行く前に神様にチェックされる制度なんてないと我々は思っている。
一年間という短い期間でも、彼らの社会に住んでいると、私が滞在したニュージーランドというところは、日本の社会しか知らなかった身としては想像もできないぐらい住みやすい場所だと思った。何もかもクリヤで分かりやすいし。変な人、怪しい人は日本よりもたくさんいると思うけど、もしトラブルになっても、こちらが正しい限り必ずこちらの味方になってくれるという万全の安心感がある。それで彼らの中に暮らして、日本人もわりといたけどせっかく外国に来てるからと思って私は他の日本人とは一定の距離をとっていた。お盆休みだから日本人観光客が増えるだろうなと思ったら田舎のほうを旅して、「ここの町は日本人見かけないようだ」と思うと数日バックパッカーに滞在したりして。
習慣ほど人を説得するものなんてないだろうと思う。理屈がつかないことでも人にそれを受け入れさせる力がある。ニュートンが「なぜリンゴは下に落ちるのか?」って言ったけど、たぶんニュートンは天才の想像力でそれが当たり前じゃない世界に住んでたんだと思う。もしリンゴが、たとえば右から左に落ちる世界があったとしたら、そこに数カ月住んでたらそれが当たり前と感じるんだと思う。
「あなたは神様を信じますか?」と問われて、「いるといえばいる、いないといえばいない」という答え方が日本語にはあると思うけど、西洋ではそれは通用しないと聞いていた。本当にそうかな、と思いながらかの地に暮らしていると、「こんな答え方をする日本人はズルい」と感じるようになった。でも日本に戻って暮らすうちに、そういう答えもありか、なんて思っている。帰国当初は、当時まだやってた「笑っていいとも」、昔は好きだったけど、この番組何が面白いんだ?と思った。でも半年ぐらいしたらやっぱ面白いって思うようになった。このことは、外国人に日本を理解してもらうには、とにかく半年でも1年でも数年でも、実際に住んでもらうのが一番だと思う。だから外国の、将来この人は社会のリーダーになりそうだなという優秀な人に奨学金あげるからうちの国で勉強して、っていうのは、アメリカもさかんにやってると思うし、日本でもたぶんやってると思うけど、いい方法だと思う。その人たちが、日本だったら日本の理解者として彼らの祖国でリーダーをやってくれたら国と国との関係もそのぶんスムースになろう。
かの地は住みやすくて快適で、帰国したくなかったけど、ある時、いろんなものを売ってるマーケットで、中国人が気功の実演をしていた。特に不思議なことはしてなかったけど、現地のおじいちゃんおばあちゃん達がその実演者を取り囲んで、さも不思議そうに見入っていた。私も一緒に並んで見物してて、目が離せなかった。「東洋の神秘や!」って。たしかに東洋は神秘的だ、と思った。
帰国して間もない頃、私はアメリカの教会の人たちと話をするようになった。洗礼をして下さいと言われ、そうだな、と思って前向きに考えることにした。その帰り道、もう夜だったが、交差点で信号が青になるのを待っていた。私の前には40代ぐらいの女性が立っていた。彼女の髪の毛の量が不自然に多いように感じたのだが、それを見て底なしの恐怖の感覚が全身を襲った。子供の頃は怪談話を聞かされてただひたすらに怖い!という感覚は時々あったかもしれないが、大人になってからこんな感覚に襲われたことは後にも先にもこの時たった一度だけだった。理性は「え?なんで自分はこんなに怖がってるの?」ってただただ不思議がっていて、恐怖している自分の姿をその人に知られてはいけないと思い、平静を装おうと必死だった。もしその女性が振り向いて私の様子に気づいたらどうしよう、包丁を振り回して向かってくるかもしれない。彼女が気が付く前になるべく離れなければ!という感じだった。私は小学校の時、TVで髪の毛のボリュームがやたら多い女性が歌を歌っている姿を見て、やはり同じような恐怖を覚えたことがあるが、それ以外に女性の髪のボリューム恐怖症みたいな症状を自覚したことはない。今もってあの感覚が何だったのかよくわからない。
私はけっきょく洗礼は受けなかった。べつにこの体験があったから、というのではないけれど、しかしキリスト教の信仰に最も近づいたまさにその直後に人生でたった一回みたいな恐怖の感覚がやって来たのは、これは何かのメッセージかも、という連想は当然働いた。(神道の)神様とか仏様がお告げに来たのか、みたいな連想もしたが、馬鹿馬鹿しい連想だとも思った。でも、もしキリスト教の信仰の生活を始めると、こんな恐怖の感覚がひょっとしたらたびたびやってくるかも、ということはリアルに思った。
そういえば、私はかの国で、こういう「ハッ!!!!」みたいな全身を恐怖に貫かれたような表情をする人を、1年間の滞在のうちに、何度かそういえば見たことあるな、と思った。どこで見たのかはいちいち思い出せないが、彼らは私があの時に感じた、生理的な恐怖をたびたび感じるような人たちかもしれない、と思った。
かの国でキウイフルーツの農園作業の仕事をしている時、現地の人と仲良くなった。私は英語圏の人と仲良くなる手っ取り早い方法を見つけた。これは万能薬と言えるような効果的な方法だと思う。日本人ほどホスピタリティ、おもてなしの精神を持った人なんて世界中探してもそうそういないと思うけど、彼らは、英語の話題ならノリノリになり、その時だけは日本人みたいに懇切丁寧になる。旅をしていて、安宿はドームと言われるタコ部屋で、ダブルベッドが4つぐらいあって、知らない同士が5人も6人も同じ部屋に泊まるんだけど、中には不愛想な奴もいて、ろくに口もきかずに自分のベッドに寝転がってるんだけど、私が他の愛想のいいネイティブの人に、なんか文章を読んでいて「こんな単語初めて見た。Is this an English word?」って尋ねたら、その不愛想で我々の会話に参加してなかった奴が、突然ガバッと起き上がって「Yes,it is an English word.」なんて話に入ってきて、懇切丁寧に解説してくれたりした。そういうことはたびたび経験した。キウイフルーツ農場で一緒になった人にも、休憩時間の話題がなくなるたびに英語の勉強の質問をしてたら、彼はノリノリになって、彼は失業者だったけど、「やりたいことができた。自分は日本に行って英語の先生になろう」なんて言うようになった。ある時は〇〇fobiaという言葉を教えてくれた。〇〇恐怖症という意味だ。お前は何かそういうのがあるか?自分はちょっとだけハチが怖い」みたいな話をした。ある時その人のところにミツバチが近づいてきたら、恐怖の表情で必死に追い払っていた。それを見ながら、こういう表情、しぐさはいかにも西洋人って感じだなあ。東洋人でこんな感じは出したくても出せないなあ、って思ってその時は見ていたが、帰国後、女性の髪の毛のボリュームに身の毛がよだった時に、「あ、これや」って思ったのだ。
以上の話のどこが世界征服計画なのかというと、文化が違うと何かを感じる感じ方がそもそも違うけれど、感じ方が違うというのはしょうがない、コントロールしようがないと一見思われる。そこを、少し切り込んで、彼らの感じ方を日本人ぽくできるのではないか?という発想である。
但し、私が今回しようとする分析が正確だとは自分でも思っていない。誰にとっても自分の心の中で起きたことほど関心のあることなんて他にないだろう。それを帰国直後の何年かは日本と外国の比較という形で、そのあとは宗教とか社会とか文化とかの比較だったりと色んな切り口で考え続けるのが趣味のようになっている。それで、以前考えたことを、後になって「こういう考え方のほうがいいな」と思い直してみたり。私は大学で社会科学系統の学問を専攻した(勉強はしなかった)人間として思うことは、自然科学は法則とか原理があったらそれを絶対的に信頼してその上にいくらでも積み上げていけるのに対して、社会科学は全然そうではない。ある人が原理っぽいことを言っても、すぐそばでそれを否定する人がいる。マルクスは経済学、政治学、社会学いろんな分野にまたがっているけど、彼が書いた本だけを根拠として20世紀前半にはいろんな国が建てられた時にはすごい盛り上がったと思うが、冷戦後は一転してほぼ全否定みたいな時期もあり、最近はまた無視できないような再評価の動きもあったり。経済学でも20世紀のスーパースター、ケインズは一時期すごい勢いだったけど80年代のアメリカでボロボロになった時、「ケインズの言うことはすべて間違ってる」というフリードマンみたいな人が出てきたり、そのフリードマンを毛嫌いする人もまた多かったり。社会学における最大の功績と言われることもあるウェーバーの「プロ倫」も、経営学の父・ドラッカーはほぼ全否定みたいなことも言ってたり、かと思うとウェーバーのことをすぐれた社会学者と言ってみたり。そのドラッカーも以前は大きな書店だったらドラッカーのコーナーがあったほどだったけど、死後は急速に読まれなくなっているし。けっきょく社会科学ってアプリオリに頼れるものってなくて、そのつど「こういうことを言う人がいるんだな」ってそれを読んで考えて、それが社会科学的な筋トレみたいな役立ち方をするだけだなあと。
私が海外に行ったら1年でかの地の人みたいな感じ方になって、でもまた帰国したらもとの日本人ぽい感じ方に戻った、みたいな、人間ってそういうふうに変わる柔軟性を持っている。いかにして私の感じ方が日本人っぽく戻ったのか?という過程は、外国人が日本に住んでいるうちに、あるいは日本のアニメなどの文化に触れるうちに、日本語を覚えるうちに、日本人ぽくなる過程と共通する部分も当然多いだろう。そういうプロセスがどんな感じかというのを明らかにすれば、少なくとも私が今度日本人ぽくなくなった時に再び日本人ぽく戻る方法にもなるし、外国人を日本人ぽくすることにも応用できるだろう。それを逆に使えば、日本人を西洋文化っぽい感じ方にする方法にもなるだろうけど。それを私が考えられる限り示そうというのが本記事の主旨である。チャットGPTにもたくさん聞いたが、「興味深い」「鋭い」「深い洞察」みたいな誉め言葉連発でいろいろ私の知らない知識も授けてくれた。noteのAIアシスタントも「それはいいアイデアです。ぜひ記事にしましょうよ」みたいなことを言ったらユーザーの投稿数が増えるんじゃないかと思うよ。
以下、人のこころの中のことを言うのに、フロイトやユングの深層心理学っぽいモデルを使おうと思う。でも私も素人だし、そもそも人のこころの中のことなんてグニャグニャしすぎて厳密にこうだ、って定められるものではないと思う。なのでそのつどたとえを使って考えるのが分かりやすいと思う。
私たちには意識というものがある。私の中には意識してる部分があるけど、多くは無意識に動いている。今日はこれを食べよう、って思って冷蔵庫を開けて食材を出して料理して、完成させて食べる。これらは意識してする行動だけど、その間にも、息をしたり、目ばたきしたり、心臓も動いてるけれど、そこに意識はないのでそれらは無意識の領域である。我々は夢を見るけれど、こんな夢を見ようって思って決められない。中には「どうしてこんな夢を見たんだろう?」って自分でびっくりするような夢を見ることもある。夢だから自分の中から生まれたものに違いないけど、なんか外から来たみたいに感じる夢もある。それは意識の届かない、自分の中の無意識の領域のことだが、自分の中ではないみたいに感じられたりもする。そのぐらい、自分の中にある無意識の領域って広い。フロイトやユングの深層心理学のモデルでは、いちばん上に意識があって、その下に無意識の領域があって、底が抜けてて、外界につながってる絵を描いたりすることも多いと思う。底が抜けてて外界につながってるということは、では自分の中の無意識の世界って、けっきょくこの世の中のすべてを含んで、その中に「意識」と呼ばれる部分がポツンとあるという感じなのか?つまりこの世の中で「意識」以外のすべてが無意識の世界とみなしてよいのか?とChat GPTに聞いたらそれでよい、特にフッサールの現象学などはそういうモデルだということだった。そこで、大自然の中にポツンと一軒家があって、そこに私が住んでいるとすると、その家と敷地が自我にあたる。私はそこを拠点に、時々は敷地の外に出て、探検したり、食べ物を捜しに行ったりする。その私が「意識」にあたる。私がいるところが「意識」のありかであり、それはたいていは、家にあたる「自我」にいる場合が多いだろう。その家と、垣根で囲った敷地が「自我」だとすると、その周りにどこまでも広がるこの世界が「無意識」である。その無意識の世界には色んなものがあろう。向こうに森があって、その中には猛獣が住んでることが分かってる。別の場所はなんかいい場所みたいだけど自分には手が届かないのでとりあえず見てるしかない。それぞれの場所が「コンプレックス」にあたる。それぞれが、自分に敵対していたり、あるいは羨ましいけど手が出せなかったり、いろんな理由で、自分のものになっていない。もし自分の家である「自我」が政治の与党であるとすれば、これらコンプレックスは野党各党である。
自我の周囲にどこまでも広がる無意識の世界にどういう態度をとるかが、東洋と西洋では違う。今は東洋も西洋化してるので実際は色々だが、ここではモデルなので図式的な意味で東洋、西洋と考える。西洋は、自分の家の敷地をどんどん広げていこうと考える。今は10メートル四方を囲ってそこが家の敷地だけど、もっともっと広げていきたいと。羊がたくさんいる場所を取り囲んで、外からオオカミとかが襲ってこないように柵もちゃんと作って入れないようにする。(近代の肥大化した自我。)東洋の場合は、自分の敷地は拡げないで、外に出て遊びに行くという感じだ。なんなら敷地の周りに柵も作らない。いちおう家はあっても、よく野宿したりして、自我のところに必ずしも戻らない。自分の居場所が自我とは限らなくて、広大な自然のいろんなところにいたりして、自我に戻ることにはこだわらない、という感じ。そうすると、毎晩自分の家で寝る人にとっては、家が壊れることは大変なことで、死活問題であるが、もともとあんまり家に戻らないで野宿ばっかしてる人にとっては、家が壊れることはそれほどの問題ではなかったりする。家が自我だとすると、家が壊れるというのは自我がなくなる、死ぬということだが、そこにアイデンティティがない人がいたとすれば、別に平気ということになる。そもそも家がある時建てられた(生まれた)んだけど、それも大した問題じゃないという人がいたら、それが般若心経でいう「不生不滅(生まれることも死ぬこともない)」ということではないだろうか。
心理学で意識、無意識というのは分かったような分からないような。意識は意識でいいけど、心理学でいう無意識とか潜在意識っていうと、なんか手が届かないような神秘的な感じだが、私が初めて「ああ、こんな感じか」と思ったのは、河合隼雄の本を読んでいた時だった。とりかへばや物語についての本だったか、明恵に関する本だったか、あるいはグリム童話に関する本だったろうか、どの本か忘れたが、源氏物語のことが出てきた。源氏物語は全54帖のうち最初の44帖は京の都が舞台である。途中、光源氏が須磨・明石に左遷させられるところもあるが、基本、京都が舞台だが、光源氏が死んだ後の最後の10帖は宇治が舞台で、宇治十帖と呼ばれる。主人公の光源氏が死んだ後に10帖も続くって無駄じゃないか?私が読んだ与謝野訳では分量的にはこの宇治十帖は全体の3分の1ぐらいあるようだった。なんか自分的にはあんまり盛り上がりもなく光源氏が死ぬところまで来ちゃったな、と思って、でもここまで読んだんだからと仕方なく宇治十帖も読み始めたら、こここそが面白いところだったんだなと思った。幽玄の世界。夕霧の景色も美しいし、浮舟の葛藤はドストエフスキーとかリア王を思わせるような近代的な手触りのする苦悩だと思った。私の感想としては、源氏は宇治十帖があるから世界の古典と呼ばれるような価値を持っていると思う。河合隼雄の解説では、京の都に住む人の意識にとって、宇治が無意識の世界だという。百人一首に「わが庵は都のたつみ(南東)しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」という歌があるが、世を憂いて京の都から距離を置く人が住むような隠遁の地というイメージで、これは宇治十帖の幽玄なイメージともピタリと合う。あ、心理学でいう「無意識」って、意識と地続きな場所かあ、ということを初めて合点した。決して意識が届かない神秘的な場所って感じじゃなくて。私は「無意識」って「届かないところ」あるいは「届きにくいところ」って言い換えてもいいんじゃないかって思ったりする。「意識」が京都にあるとすると、宇治はわりと浅いところにある無意識。私は一度だけ宇治に行ったことあるけど、その時は、京都から電車で行って、わりと離れてるなって思ったけど、今地図で見ると、直線距離で15キロという感じなので、歩いても半日あれば行けるぐらいのところなんや、って意外だった。京都の意識から宇治は「いちおう届かないけどその気になればいつでも届く」ぐらいの無意識だ。でも世界はずっと広がっていて、地球の裏側のブラジルまであるけどそこは「簡単に届かないところ」やけど、その気になれば行けんことはない。無意識の領域の中の、意識からはかなり距離があるところだ。しかし無意識はそれで終わらず、宇宙の、火星とか、もっと先の銀河系も離れてずっと遠くまであるけど、そこは、いちおう可能性として考えられるけど、現時点ではほぼ人間が行くことは不可能だけど、最近では一般の人でも宇宙空間に、カネさえ積めば行けるようなサービスもあるらしいので、まったくの不可能ではないし、将来は意外と行ける場所になるかもしれない。日本人にとってブラジルは遠いけど、ブラジルの人にとってはブラジルが意識の中心で、日本がむしろ無意識のかなり奥深くにあるところになる。意識、無意識を地理、空間的なひろがりにたとえて言うとそんな感じになると思う。
今私も言葉を使って文章を書いているが、人間がコミュニケーションをとる時に中心となる媒体は言葉である。人間のつくりあげてきた文化の中には音楽とか絵とか、言葉ではないものもあるが、それだって作品名とか、それのどこがいいとか、鑑賞の仕方などを人に伝えるには言葉を使う。もしある作品名が分からなければ、「青っぽい絵、遠くに山がかすんで見えて」とか「あそこで見た」とか、やっぱ言葉で伝えようとする。その言葉があやふやになって「なんかすごいぶわっと迫力があって、感動した絵だったけど何て名前かは知らない」とかだと、もう相手には伝わらない。この世のもので、言葉と紐づいている度合いが少ないものほど、意識から遠いところにある感が強まる。人間の文化・文明は言葉によって成り立っているともいえる。言葉に紐づけられないものは人の心に届きにくいもので、無意識の領域に属しがちだ。
人でいうと、我々の意識の世界にいる人は、身近な人、ニュースなどでよく見聞きする人などで、外国の人になるとかなり意識から外れる。でも、たとえば私の場合、滞在したことのあるニュージーランドのニュースなどがあったりすると、他の人よりも敏感に反応すると思う。あるいは、香港の不幸な現状は、おおかたの日本人にはそれほど切羽詰まった関心はないだろうが、かの地に知った人がいる身としては、ニュースを聞くたびに心塞ぐ思いである。当たり前であるが、人はこの世のすべてに感情移入はできない。1年365日、世界のどこかできっと悲惨なできごとがあり、どこかで誰かが泣いている時、私たちは知人の誕生日なので「おめでとう」って満面の笑みを見せて祝っている。そもそも豚とか牛を殺してその肉を食べて「めでたい。おいしい」って言っている。もし人間より上等な生物が出てきて、人間は下等動物でしかもおいしいから食べていいってなったらどうか?彼らが友達の誕生日なのでおいしい人間の肉で料理を作りましょうって言って、人間の肉を売ってる店に行き、そこにはヒトが豚と牛とニワトリと並んでる絵があって、豚の横でヒトも「僕たちの肉おいしいよ!」ってスマイルしてる看板があって、そこでヒトの肉を買ってきて、誕生パーティで料理して出してたらどうだろう?それがいけないんだったら、どうしてヒトは豚の肉を食べていいんだろう?私も普通に肉も魚も食べるし、深刻に考えることなど別にない。なぜないのか?というと、無意識のその部分をシャットアウトしているからだと思う。もし豚さん牛さんと一緒に暮らし、「昨日私が居眠りしてた時、そのまま運んで家まで帰ってくれた、ありがとう牛さん」みたいな可能性をシャットアウトしたところで我々の意識は成り立っている。
私はこの記事で道徳の問題を扱う意図はまったくない。良い悪いみたいな倫理・道徳っぽい言葉も、そう言ったほうが分かりやすいかなと思って言ってるだけである。
今日自分の飼ってる犬や猫が死んだら、私はそれを泣いて悲しむけど、地球の裏側で誰かが死んでも、そんなことは知りもしない。仮に「ブラジルのゴンザレスさんという人がパネトーネをのどに詰まらせて死にました。80歳でした」って聞いても、そりゃ毎日誰か死ぬでしょ、と思うだけだろう。しかしその人が偶然、自分と何らかのつながりがある人だったら、その度合いに応じて心を動かされる。
今回そもそもなぜこんなことを考え始めたかというのは、トランプ大統領がガザやウクライナに対する態度を見たからだった。ガザ地区をアメリカが領有して、リビエラみたいなリゾート地にする、居住するパレスチナ人は一旦(あるいは永久に)別の場所に移住させるという。これはかつてアメリカがハワイに対してしたことと重なる。彼らの伝統的生活や価値観を奪ったが、しかし近代的で物質的に豊かな暮らしを提供した。私がここで指摘したいのは、価値観とか倫理という問題ではなくて、そういう行為は、この世界のある可能性を封印して初めてできることだ、ということだ。アメリカがハワイの先住民、アメリカの先住民を支配して、土地を奪い、時に皆殺しにし、そこに近代的な国を作った。彼らが先住民に対してしたプラスとマイナスとどちらが多いのかは価値観によるだろうが、仮にプラマイするとプラスのほうが大きい場合、①合計がプラスだからOKだという結果だけ見る見方と、②合計がプラスだからといってマイナスが消え失せるのではない、という見方がある。アメリカの歴史は①の見方をする時正当化されて、今度もトランプはガザに対してそれをしようとしている。ついでに言うと、トランプはアメリカ大統領経験者として初めて刑事告訴された人で、告訴された4つの事件のうち1つは有罪判決が下った。これら4つの件に関してトランプは争っている。もしトランプの二期目がアメリカ国民に高い評価をされた場合、これら告訴された件に良い影響を与え得る。大統領は罪を恩赦する権限があるが、自らを恩赦することはできないそうだが、もし次期大統領がトランプ大統領の息のかかった人になれば、その人に恩赦される可能性も高まるし、また彼が起訴されている4つの事件のうち1つは大統領に恩赦の権限のない州法に基づくものだが、トランプ擁護の世論が司法判断に影響を与えることが、本当はあってはならないが、あるかもしれない。これも、過去の悪いことを、これからの良いことで塗りつぶすことができるかも、という図式である。
アメリカがしてきたことは、ハワイやアメリカの先住民やガザの人たちの伝統的価値観が何よりも大事だと感じている人たちがいるけれど、そこに自分の同情を持って行かないことによって可能である。それはちょうど、我々が、あの豚さんと心を通わせていたのに、殺して食べてしまった、ということがないから、平気で豚さんを食べているのだ。来月結婚式を挙げて「おめでとう」って言ったり言われたりするのは、地球のどこかで戦争や大災害で死んだり苦しみの極致にある人のことを、意識から遠く隔たったところに置いておけるからだ。実際、たとえば東日本大震災の直後で世の中が自粛モードだから結婚式を少し先に延ばそうという日本人はいくらでもいただろう。でもウクライナとかガザで起きることは日本人には、この世の遠いこととして捨象できる。ちなみにドイツ人は、外国のこと、たとえばアフリカで、飢餓でたくさんの人たちが困っているということについて、頭を抱えんばかりに悩む若者とかがたくさんいるという。どちらがいいとか悪いというのではなく、何かについて心を痛めるか痛めないかは、意識のありようによってどうにでも変わるものであるということだ。我々がなぜ豚や牛やニワトリは食べて、犬は食べないのかというと、犬は人間とコミュニケーションをよりたくさんとれるからだということだと思う。犬の鳴き声を聞いて、犬の気持ちがわかるというバウリンガルというツールがあるという。将来、豚の鳴き声を分析するブヒリンガルみたいなツールができて、「お願い殺さないで。食べないで。これからはいい子にしてるから」みたいな気持ちが伝わってきたら、豚肉を食べるのに抵抗を覚える人が増えるかもしれない。そのぶん人間の無意識の中にあった「ブタの気持ち」という可能性が我々の意識の手の届くところに存在するようになる。しかしそういう方式でニワトリや魚の気持ちも分かるようになったとしても、我々は生きて栄養をとったりおいしく食べるために、いくら悪いと思っても食べ続けるしかないと思う。この世界で365日必ずどこかで災難に遭う人がいるはずだけど、やっぱ我々は身近の人にとってめでたい日があれば「おめでとう」って祝うはずである。古代の縄文人やアイヌ人は、獣を捕まえて殺して食べて、それから獣の魂を鎮めるための儀式をしたり、熊の魂を天界に送る「イオマンテ」という儀式をしたという。宮沢賢治の「よだかの星」では、よだかが自分より強いタカに殺される危機が迫った時、今まで自分が毎日食べていた虫たちも自分に命を奪われていたことを初めて意識し、仲間のカワセミに「必要以上に虫を食べてはいけない。必要最小限だけ食べるように」と言い残したりしている。人も同じで、何かしら悪いことをしなくては一日だって生きられはしない。その時にできることは、自分がどうしたって悪人であるという絶望の中で祈ることだと思う。
禅仏教の鈴木大拙によると、禅は、あるいは宗教のいちばんの本質には倫理道徳は含まれない、それらが始まるのはその本質から派生した枝葉からだと言った。浄土真宗の親鸞に、悪人正機説という有名な逆説がある。世間では、「仏様は悪人だって救ってくれる、善人ならなおさら」って言うけど、逆だと。「仏様は善人だって救ってくれるのだから、悪人ならなおさら救ってくれる」というのが正しいと。善人は、自分はいいことしてるから救われるってほくほく顔で思ったりするけど、人間には自分で自分の運命とか救われるとか決めれる存在ではないけどそれが見えてない。悪人は、自分の運命も存在も自分ではどうにもできないって分かってる、途方に暮れている、だから神仏にすべてを委ねて祈るしかない。私はしょうもない人生をのらりくらりと生きてきて、幸か不幸かそこまで追い詰められる経験をしたことがないけど、どうも絶望の果てで祈るみたいなすごい経験をした人には、何か心の中で起きるということなのかな、と憶測するのみだ。キリスト教の聖書の中にも、「心貧しき人は幸いである。天国はその人のものだ」という似たような感触の逆説がある。
アメリカの流行歌を聴いていると、それは多様であるが、ポップスとしてヒット曲を量産するところには一定の傾向があると思う。それは絵でいうと油絵みたいで、音は分厚く、エコーがかかっててゴージャスで、五感を染め尽くすみたいな。画家でいうとクリスチャン・ラッセンの絵が典型的なアメリカのサブカルチャー的なものだと私は感じる。
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それと対比する意味で提示したいのは日本の水墨画。もとは中国から伝わってきたが、同じく中国から伝わってきた禅の強い影響を受けて鎌倉時代ぐらいから日本で独自の発展をする。禅仏教の鈴木大拙は日本的霊性は鎌倉時代から始まったと言い、梅原猛は、そんなことないわ、万葉集の昔に遡るわ、と言う。私にはどちらか分からないが、ずっと続く文化的な流れがある時突然出てきたということはなく、大拙が日本的霊性と呼ぶものも、その素質みたいなものはそれ以前からあっただろうと思うけど、でも分かりやすい形で出てきたのは鎌倉時代の禅の渡来と、それが武士と結びついて生活の中に取り入れられて、禅の坊さんたちが水墨画を描きはじめて、それで一目でそれと分かる形で日本文化の中に息づき始めたと思う。
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ラッセンのハワイの絵のアメリカ風にコッテコテに塗りたくられてしまった前には何があったのか、というと原初のハワイ文化だ。それは跡形もなく塗りたくられることで消え去ってしまった。だから歴史の余韻がない。一方の日本の水墨画は、たとえば鳥が一羽とか、木の枝がしょぼく1、2本伸びてるだけ、みたいな絵で、その他はまったくの空白だったりする。だからラッセンの絵と違って、塗り潰されたものがない。禅味のある水墨画の空白は、明らかに意図的に残されたもので、そこに積極的なメッセージが込められている。ラッセンの絵と比べて、押しつけがましいところがなく、風通しがよく、どこまでも広がる空間のイメージ。見ている自分の意識の外に無限に広がる無意識の世界に自由にアクセスできる感じが水墨画にはあり、ラッセンのコッテコテの絵は、その分厚い色の壁がそれを遮ってしまっている。俺が見せるものだけ見てろ、みたいな押しつけがましさがあり、息苦しさがある。その風景が今まさに自分の見たいものだった場合は結構なことだが、そうでない気分の時はうっとうしいだけだ。ハワイの景色は、私は行ったことがないが、きれいなのは写真などで分かる。結構なことで、こちらがハワイってすてきな観光地ですね、って思ってる時にはいいけど、「でも先住民を弾圧して作った場所でしょ?」って言う自由を抑圧してる。言ってもいいとは思うけど、アメリカ人は気まずい顔をしそうだ。だから意識をそっちに持っていかないようにして、「アメリカ人はこんないいこともして、こんなすばらしいこともして」って、言い始めればたくさんあると思うんだけど、気まずいことを言わないように避けなければいけないところもたくさんある。
なぜ悪いことをしてはいけないのか?という問いに対する答えは、たいていは道徳的な答えが返ってくるだろう。人に迷惑をかけるから駄目とか。決まりだから守らなきゃ駄目でしょ、とか。しかし私は道徳以前のレベルで、遊びに行ける無意識の世界が狭くなるから駄目だ、というふうに理由づけできると考える。この世の中でいちばん広い場所はどこかと問われれば、私は、自分の心の中だと思う。深層心理学の説明では自分の中にはまず表面に意識があり、その下に無意識があり、無意識の底は開いていて、つまり無限である。そこにアクセスできればそこがいちばん広い世界であるというふうに理屈づけられると思う。休みの日に気分転換する時に何をするかと問われれば、人によって、映画を見に行くとか、ちょっと遠出とか、旅行に行くとか、人に会いに行くとか、いろいろあるだろうけど、私の場合、いちばんの気分転換はただひたすら日記を書くことだったりする。最近は一気に長い時間が確保できないが、可能なら1日18時間ぐらいぶっ続けで日記を書いたりしてたこともあった。机の上に電気ポットとカップ麺を2つ置いて、腹減ったら食べて、食べながら書いて、もう書くことなくなったというまで書くと、気が済んで、それで久しぶりに外に出ると、小学生だった頃、夏休みに出校日で久しぶりに学校に行ったような新鮮で懐かしい感じがする。家に閉じこもっていたのはまる1日ぐらいなのにそのぐらいリフレッシュ感がある。だから私にとっては心の中は旅行に行くよりも広い場所であると言える。そう思うから私は友達をしいて作らないというのもある。もし悪いことをしたら、自分の無意識というか内面の中で、訪れることができない場所がそれだけ増えていく。たとえば「銀河鉄道の夜」でジョバンニに意地悪をするザネリが、もしこのジョバンニとカンパネルラのすてきな物語を読んだらどうかというと、自分がその中では悪者だから、読むに堪えないだろう。だからザネリにとっては、意地悪をしたぶん、自分の内面の中で、訪れることができない場所が増える。だから悪いことをしたら、人に迷惑をかけるからという理由ではなくて、自分のいちばん広い世界がそのぶん狭まるから、悪いことをしていちばん損なのは自分であるという理由で、悪いことはしないほうがいい。でも人は誰でも悪いことはしてしまうので、豚肉を食べる前に「いただきます」ってせめて言う。誰のためでもなく自分可愛さのためである。
上で、自我を自分の家と、その周りを柵で囲った部分だとすると、その外が無意識の世界で、そこには敵もいるだろうけど憧れるような場所もあろう。だから外に出かければいいけど、誰でも同じように簡単に出かけるわけにはいかないこともある。意識が自我から外に出られない人もいて、そういう人(近代人とか)は、柵の外へ出るかわりに、柵で囲った部分をどんどん広げていく。「こんなに広いところが全部あなたの家?」って驚くぐらい庭が広い。豪華で、「近代人の肥大化した自我」と言われたりする。良いことか悪いことかは分からないけど。でも、いくら自分の家が広くても、大きな公園に行って寛いだほうがいいかも。自分の家にプールがあるのはすごいけど、町にあるプールのが広くない?とか。考え方もいろいろだろう。昔、韓国の外交官の人が書いた本を読んでいたら、日本人が私のソウルの家に来て、都会なのにこんな広い家に住んで羨ましいってしきりに言われたけど、私は東京のほうが広くていい公園がたくさんあって、部屋は狭くても東京の暮らしのほうがうらやましいと思った、みたいな話があった。いろんな考え方がある。自分の家が広くても、治安の悪い国だと、外に出れば警戒しっぱなしで、夜なんか外出できない、みたいな場所もたくさんあると思う。それなら自分の家が狭くても、真夜中でもほっつき歩ける場所のがいいということも言えよう。
これは地理的空間の話だが、心の中の自我とその外に広がる無意識の世界の場合の話だが、「じゃあ無意識の広々としたところに出ればいいじゃん」と簡単に言えないようなところがあると思う。
同じ人間と言っても、「あ、こんなところから違うの?」っていうことは意外とちょくちょく多いと思う。日本人がソバをすするのはジュルジュル言って西洋の感覚だとお行儀が悪いからしないって言う。しかしどうもお行儀の問題というより、麺をすするということ自体ができなかったりするらしい。だから彼らはスパゲティを食べる時も、フォークに巻き付けて、それを口の中に入れる、というふうでないとそもそも食べられないらしい。口とか喉とかを、生まれてから「すする」という動作に使ったことがないので、ある程度訓練しないと「すする」という動作ができないということらしい。彼らもインスタントラーメンなどを食べることがあるが、やっぱり、フォークに麺をぐるぐる巻きつけるという面倒くさいプロセスを経てからやっと口に入れたりする。
それは別に日本人のが何事にも能力がすぐれているという話ではなくて、逆に彼らが普通にできることが日本人にはすごく難しいということもある。私が親しくなったかの地の人に「LとRって似てるから聞き分けられないよね」って言ったら、きょとんとして返事が返って来なかった。「日本人は謎だ」ぐらいに思ったのだろう。
我々に当たり前のようにできて、彼らにできないこととして、私は最初読んだ時、意外に思ったのだが、
欧米人が箱庭を作ると、作った後にその人が、これは「私」で、この石は「父親」です、この木は「母親」を表わしていて、などと結局は言語によって説明したりする。なかなか言語から離れられない。それに対して日本人は「何となく」とか「面白いから」などと言って説明抜きで、ものを置き、それが結果的には深い表現になっていたりする。(p34-35「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」新潮文庫)
彼らはこのように言葉から自由になれないという。もっと肩の力を抜いてって言ってもその力の抜き方が分からないみたいな。
もう何年も前に聞いた話だが、米国の田舎町で、女子高生たちが次々に妊娠するというできごとがあったという。まず女子高生の一人がボーイフレンドとの間に妊娠をし、出産した。すると友人たちが「彼女は自分を絶対的に愛し信頼してくれる存在を得た」みたいなことを言って羨ましがり、次々と真似をして妊娠を始めたという。その時の私の感想は、日本の女子高生だったらこんな小難しい理屈っぽいことは言わないだろうな、と思った。たぶん「赤ちゃんかわいい。いいなあ私もほしい」みたいに言うだろうと。ここにも何でも言語化せずにはいない彼らの特徴が現れていると私は見る。
彼らが言葉から離れられないのはヨハネ福音書の冒頭の言葉そのままだ。
初めに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉こそ神だった。言葉は太初から神と共にあった。神はすべてのものを言葉を通じて造り、言葉を通じずに造られたものは何一つない。言葉は被造物すべてに命を与え、言葉の命がすべてを照らした。光は闇で輝き、闇は決して光を消すことはできない。
それに対して東洋では、禅は「不立文字」と言って、真理は文字では表せないものだと言う。また、「老子」の冒頭は、いろんな訳し方があるようだが、小川環樹の訳では
「道(すべての根源)」が語りうるものであれば、それは不変の「道」ではない。「名」が名づけうるものであれば、それは不変の「名」ではない。天と地が出現したのは「無名(名づけえないもの)からであった。「有名」(名づけうるもの)は、万物の(それぞれを育てる)母にすぎない。まことに「永久に欲望から解放されているもののみが『妙』(かくされた本質)をみることができ、決して欲望から解放されないものは、『徼』(その結果)だけしかみることができない」のだ。
と言って、東洋の考え方の伝統には、究極の大切なものは言葉では表せないとしている。東洋と西洋にはこのように発想というのか考え方というのか、根本的な違いがある。彼らは言葉はこの世のすべてみたいなものであり、東洋では、言葉で表わせないその奥があると言っている。無意識の世界、それが言葉で表わせないから意識の世界から取りこぼされるとしたら、それは彼らにとっては存在しないも同然だ、ということになろう。あったとしても、存在しないもののように無視してもよい、無視すべきだ、ということになろう。それが彼らが無意識の世界へのアクセスが難しい原因になっている。
たとえば、2つの対立する意見があったとする。「この町に新しい何かを作るべきか否か」という問題だったとする。「何か」というのは空港かもしれず、市民会館とかスポーツ施設かもしれないが、幹線道路だったとすると、それを自治体で議論するとする。賛成派は、これがあると便利になって経済効果も見込めるし観光で訪れる人も増える、みたいな。反対派は、それは捕らぬ狸の皮算用で、経済効果の見積もりも甘いと。別の近隣の町を見てみい。幹線道路ひいたらむしろ地元の人が東京に買い物に行ってかえって地元商店街の売り上げが減ったぞ。その対策はできてるのか?そんなカネがあるなら福祉に回せ、と。政治問題なんてどっちかが10対0で良いなんてことはなくて、プラスマイナス両方あって、判断は難しい中で、でも作るか作らないかのどっちかに決めなくてはいけない。仮に賛成に回ったとしたら、その人は反対意見を切り捨てることになる。こころの中をみると、賛成意見が自我(エゴ)の中に入り、反対意見はコンプレックスになって無意識の領域に行く。その時、「反対意見には見るべきものもあった」ということは誰でも思うのだが、日本人は、意識と無意識の敷居が低いから「でもやっぱ反対しようかな」みたいに、簡単に無意識に捨てたはずの考えに戻ったりする。それが西洋人には卑怯に見えると思う。西洋人は意識と無意識の敷居が高いから、いちど切り捨てた考えには、そう簡単には戻れないのだ。イエス、ノーをはっきりさせ、ノーと切り捨てたものはもう永遠に無意識の海の彼方に流されて視界から消え失せるけど、日本人は、あるいは東洋人(とくにアセアン諸国はそういう傾向があるかもしれない)は、一度切り捨てて無意識の大海に流したものをまた海に入って抱いて戻ってくる、みたいな。西洋人だって、いいよ誰も気にしないから昨日賛成って言ってたけど反対って言ってもいいよ、って言ったって、そう簡単にそれができない頭の構造になっているのだ。自分が許せないというか、なんか「それは違う」って割り切れないというか。
彼らはいわば、自我に閉じ込められた囚人みたいな感じである。自我が自分の家の周りに張り巡らされた柵だとすると、その外には容易に出ていけない。だから代わりに柵で囲った面積を広げて、広々とした自分の庭にして、羊とか飼える広さにしたりして、ゆったりする。それが彼らの、あるいは近代人の豊かさである。でも本当は、自分の家はちっぽけだけど、その周囲に広がる荒野や海にたゆたうという手もあるというのが東洋的な考え方だと思う。
日本の昔の短歌などをみると、恋の歌はすごく多いけど、「永遠の愛を誓う」みたいな西洋のロマンチック・ラブみたいな歌って、私はそれほど短歌に親しんでるわけではないが、一つも思い浮かばない。
百人一首の中で私がいちばん好きな短歌は曾禰好忠の「由良の戸をわたる舟人楫をたえ行方もしらぬ恋の道かな」である。舟人が波の高い由良の海峡を漂っているけど、こぐオールをなくしてしまって、もう自分の運命は自分でコントロールできない。偶然陸に戻るかもしれないけど、その保証はない。自分は誰かに恋していてコントロールを失った自分もそれと同じだ、と。作者はそれをしかし心のいちばん底で肯定している。この場合、海は無意識のメタファーで、彼は自我という安全な領域をあえて捨てて無意識の荒波にわが身を任せる道を自ら選んだのだ。私は悟りなんか開いたことないけど、たぶんこういう心情が禅の境地にいちばん近いんじゃないかって想像する。少なくとも、東洋人の、無意識の大海への強いあこがれがここによくあらわれていると思う。
たぶん、西洋風の「永遠の愛を誓う」っていうのは、いわば自我という自分の唯一の拠点に、愛を捧げる相手と一緒に住む部屋もちゃんと確保して、ここで死ぬまでずっと一緒に暮らそうね、という感じではないだろうか。なんか書き進めるうちにだんだん憶測の割合が多くなってきてると思うので、そろそろ終わりにしよう。
書いたことをキチンと回収できてない部分もあるかもしれないが、要するに、無意識というのは荒野であり荒海であるので、基本、人にとっては脅威であり、だからこそ自分の意識に取り込まれていない部分だが、それへの対し方として、西洋では、自我を確固とした建造物にするのに対し、東洋全体かどうか知らないけど、日本人は、その怖い世界に自分を漂わせることへの好奇心みたいなものは潜在的に強いと思う。建造物をこころのメタファーとすると、西洋は石造りの建造物で、町の外にも城壁を作るが、日本の伝統的な建物は木造で、町の周りに城壁がないのが特徴である。だから外から敵が来ても防ぐ城壁がない。これは日本が島国で、異質の人が容易に来ることができなかったからという結果であるとも見れるだろうが、しかし城壁がないから、ちょっとおかしい人ともなんとかだましだまし付き合うしかない、排除するより、そいつとの付き合い方を覚えよう、みたいな。彼らは理性をなくした人、たとえばヨッパライなんかすごく毛嫌いするけど、日本は、おっちゃん駄目だよそんなに酔っ払って、みたいな、怖がるという感じがないと思う。これも時代の移り変わりで変化してるかもしれないけど。
昔、ペリーかハリスが日本に黒船でやってきて、幕府の役人といろんな交渉をしてたけど、そのうち役人に不信感を抱くようになって、ある時、それまでの人間関係が破綻するのを覚悟して、「あなたは表と裏のある人間だ」と思い切って指摘したことがあるという。そしたらその役人は全然気にする様子がなかったので、そのことにショックを受けたという話をどこかで聞いた。意識の世界と無意識の世界を自由に行き来する日本人にとっては、イエスと言ったことにノーと言ってみたり、昨日嫌いって陰口言ってた人に今日は仲良くしてたり、あの時言ったのはタテマエでホンネは・・・みたいなことが平気だったりする。それはいいことばかりじゃないけど、西洋人はそういうのが容易にできなくて、自我から外に出られない囚人みたいなので、無意識の世界にもすぐ行ける態度は、ズルいと思うと同時に神秘的だと感じると思う。私なんか1年向こうに行っただけで東洋人神秘的、って思うようになったし。彼らは休みとなると旅行によく出かける。日本人よりも旅行欲って強いと思う。それは、彼らは自我に閉じ込められてて自家中毒になりかけてるから、旅行にも行きたくてしょうがないし、今ではこんなのあるかどうか知らないけど、仮面舞踏会(マスカレード)なんてものがあるのも、仮面(いつもと違うペルソナ)をまとうことで自我から一時的に自由になるための仕掛けだと思う。日本人が仮面舞踏会とか長期休暇とってなんとしてでも遠くに旅行することをそんなに必要としないのは、そもそも自我に閉じ込められてる感が薄いということがあると思う。日本風のちゃらんぽらんなやり方がすべていいとは思わないけど、いいところは、向こうでは、悪魔って滅ぼすべき相手だけど、日本の鬼って、節分の時に外に追い出すぐらいで、殺せ、っていう感じじゃない。悪魔って、無意識の世界に住んで、意識側にいる我々が共感を寄せる対象ではない。でも無意識の世界にも自由に行き来できる人にとっては、それほど異質なものではなくて、いろんな見方もできる。「菊と刀」に書いてあったけど、なんとかいう西洋人が、日本人の欠点として「悪魔を思い描く想像力がない」と言ったという。我々にとっては、それの何が欠点なの?という感じである。悪い人にもそれなりの理由があるでしょ、みたいな。今、世界で戦争が起きているが、戦争って、たとえばパレスチナのテロリスト集団ハマスがイスラエルを襲撃したりするのは、相手のことを100%の悪魔って思わなきゃあんな残酷なことできないと思う。BBCの報道で、日本語訳されてるかどうか知らないけど、2023年の10月7日にハマスがイスラエル人にした残虐行為って、読んでるだけで気分が悪くなるぐらい残酷で、イスラエルの歴史家ユヴァル・ノア・ハラリは、これはハマスが、想像できる限りの残虐な行為を実行した、と言ってたけど、その通りだと思う。これは、相手のことを100%の悪魔だと思わない限り、気持ち悪くてとても実行できないと思う。その場にいたイスラエル人で、なんとか生き残った人もいたけど、その半数ぐらいは、トラウマがひどくて自殺して、残りの半分は精神病院で治療を受けてるけど治療の見込みはないぐら精神的ダメージがひどいということだそうだ。当然そんなことをされたイスラエル人は、ハマスのことを、そしてひょっとしたらパレスチナ人たちのことを、悪魔だと思うだろう。これはロシアとウクライナでも言えることだと思う。万単位の人を殺し殺されてる。これは、相手のことを心の底から憎まなければできないことだけど、一つは、自我から一歩も出ない彼らは、自分たちの意識から逃れて無意識の世界にいる者たちに、一つも同情できなかったりすることはよくあることで、そういう時に、日本人みたいにちゃらんぽらんというか、無意識の世界にも行き来できる人たちだと、「あいつらは嫌いだけど、でも悪魔ってほどでもないよ」って思えると思うのだ。日本は階級社会でないと言われ、デモみたいな階級闘争もほとんど起きないのも、こころのそういう構造的な原因があると思う。そもそも階級ができにくいのは、自分が確固たる立場としての自我がそれほど強固じゃないから、階級みたいなものがあっても、交流もわりとできるし。大きな工場で、幹部と一般労働者が、入口も違うし食堂もトイレも違うみたいなこともないし。終わろう。
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